てんぐとなかよくなりましょう
少年はマツリの手を引いて、機嫌良く山道を歩いていく。赤は襷を巻かれてマツリの背に負われながら、彼女の肩越しに見える茶色い頭をじとりと見やる。
視線を感じたのか、少年が顔だけ振り返った。
「もうすぐ着くよ」
「え?でも、まだ少ししか歩いていないのに?」
「えへへ」
マツリの不思議そうな顔をにやにやと見やってから、少年はマツリの手を強く引いた。
ぐるり、と視界が回る。
「え、え、え、」
「あぅ?」
周囲の木々が消えた。赤がぱちくりと目を開けた先には、大きな朱色の鳥居があった。
「清廉神社……?」
「うん。ほら、着いたでしょ?」
得意げに、少年は胸を反らす。マツリはそれに何も返せず、呆然と鳥居とその奥の石段を見ていた。
石段は狐さまの神社よりは傾斜が緩やかで短く、社の全貌が少し離れた所からでも見ることができた。
マツリには馴染みの深いであろう拝殿と、その奥に小さく本殿が見える。本殿の両側には幾つかの摂末社が見えた。
「よく境内で遊んだよね」
驚きで声が出せないマツリにそう言って、少年はマツリの手を引いて鳥居をくぐった。
「でも、ここでは遊んだことがないよね」
「えー!」
マツリにしては珍しく、大きな声で叫ぶ。
鳥居をくぐった途端、がらりと景色は変わり、清廉神社は豪勢な寝殿造の建物に変わっていた。
少年は再び言葉を失い、足を止めそうになるマツリの手をぐいぐいと引いて強引に建物の中に入っていった。
「あうあう」
赤はマツリの背で身じろぎして、呆然自失状態の彼女の目を覚ましてやった。
「さささ、サリくん!ここ、ほんとに、本当に、清廉神社?」
「そうだよ。僕が嘘を言うわけないじゃないか」
少年が答えると同時に、渡殿の先から騒がしい声が聞こえてきた。
「マツリ!お前なんで来たんだよ。白いのの奴、何考えてんだ!」
早口で言いながら、床を踏みならして歩いてくるのは、お馴染みの同居人、狐さまの使いの黒狐だった。黒い髪に青い目、精悍な顔つきの美男に変化しているが、黒い獣の耳と尻尾は隠せていない。
数日ぶりの彼の姿に、赤は嬉しくなって声を上げた。
「あーう!」
「げ。ガキまでいやがる」
黒狐は憎まれ口を叩いて、すぱんと少年の頭を叩いた。
「痛ったい!」
「お前さん、俺様の手紙、ちゃんと届けたんだろうな」
「届けたよ!黒い狐さんの乱暴者ー!」
えーん、と泣き真似してマツリの背後に隠れる少年に口端を引き攣らせた黒狐は、さらに追い打ちをかけようと手を伸ばすが、それはくすくすと笑いさざめく声に止められた。
「まぁまぁ、可哀そうに」
「黒狐様はほんに乱暴者ですこと」
「まぁ。そこがいいんじゃない」
言いながら狐火とともに現れたのは、女房装束の美しい女たちだった。色とりどりの袿を重ねた十人ほどの女たちは、黒狐の周りにたおやかに集まる。
「お前ら。狐姫はまだか」
「姫様はお祈りの最中ですの」
「あいつは?」
「天狗様なら、釣殿でお魚を狙ってらっしゃいますわ」
天狗?とマツリが思わず呟いたが、黒狐は肩を竦めただけで答えた。代わりに、女の一人がマツリに微笑んで答えた。
「この神社の珍しい客人ですわ。マツリ様。ようこそいらっしゃいました」
「自己紹介が遅れて申し訳ありません。わたくしどもは、狐姫様の使いの巫女狐と申します」
「どうぞよしなに」
頭を下げる巫女狐たちに、マツリも慌てて頭を下げた。
「だぁ!」
マツリの頭が下がったので、赤の目にも女たちの姿が映った。綺麗な女の人に存在を認めてもらおうと、赤は大きく声を上げた。
「まぁまぁまぁ。なんて可愛らしい」
「あらあらあら……」
わらわらと、赤は巫女狐たちに取り囲まれた。
「噂の赤様ですわね。初めまして」
「だーだ!」
「まぁぁ!可愛い!」
美人に囲まれて、赤は上機嫌だ。赤を背負ったマツリは、困惑して女たちの興奮の渦中で立ちすくんでいる。その様子を見ていた少年がぱちぱちと目を瞬かせて呟いた。
「すごい。一声で、もってもてだ!」
「末恐ろしい奴……」
「誰が末恐ろしいって?」
黒狐の言葉に、聞き慣れない声が問いかけた。マツリがその声のほうを向いたので、渡殿の向こうから歩いてくる男の姿が、赤の目にも彼女の肩越しに見えた。
山伏のような格好で高下駄を履き、手に釣竿を持っている。白い布で頭をすっぽりと覆い、腰に手を当てて首を傾げていた。
女たちが嬉しげに声を上げる。
「天狗様!」
「来やがった。じゃあな、俺様は白いののとこに帰る」
「あ、黒狐様ったら、お待ちください!」
黒狐は顔を歪めて、足早に赤たちが入って来た入口から外へ出ていってしまった。その後を追うように、巫女狐たちも全員外へ出ていく。
「今日こそ、わたくしどもの誰が一番お好きか、答えていただきますからね!」
聞こえてきた女たちの声に、少年とマツリは苦笑した。
黒狐とのつかの間の再会に、赤は不満に頬を膨らませた。
「ちぇ。もっとゆっくりしていけばいいのによ」
そんなに俺が気に入らないのかよ。そう言って近づいてきた男は、にか、とマツリに笑いかける。幼さを残した、狐さまや黒狐よりは地味だが端正な顔立ちの男に、マツリは少し驚いたようだった。
「よぉ、ごめんな。話に割り込んじまって」
「い、いえ」
「俺は天狗。このお屋敷で世話んなってんだ。あんたは?」
男は人の良さそうな笑みを崩さず、問うた。
「北の狐の神社から参りました。マツリです」
男は目を見開く。
「あ、あんたがマツリ?」
「え、ええ」
「ごめんな。神さまの奥さんって聞いてたから、どんな傑物なのかと想像してて」
男は取り繕うようにそう言って、気を悪くしないでくれ、と言ってきた。最近の日常では体験できない、あまりにも普通の反応に、マツリは感動したようだった。
「常識人がいた……!」
小さく小さく呟いた言葉は、しっかりと赤の耳に入っていた。
「だう」
己も常識人だ、と言わんばかりに赤が声を上げると、その声で赤の存在に気付いた男がマツリの背に回り込み、赤をじっと凝視した。
「まさか、……これ、あ、いや、この子、あんたの子ども?」
マツリはその問いに頬を赤く染めた。代わりに、ずっと黙っていた少年が答える。
「そうだよ。白い狐さんと、マツリちゃんの赤ちゃんだよ」
「サリくん!――そ、そんな言い方しないで」
「なんで?嘘じゃないよ」
少年は惚けたように言い放つ。その様子はマツリを苛めているようにも見えて、赤は抗議のためにぷぅと頬を膨らませる。
男はそんな赤をしばし見つめた後、はは、と乾いた笑いを零した。
「冗談じゃねぇ……」
「え?」
息のような声を聞き取って、マツリが聞き返すが、男は誤魔化すように笑みを浮かべた。
「奥へ行こうぜ。案内するよ。姫さんがお待ちかねだしな」
男と少年に案内された赤とマツリは、建物の広さに度肝を抜かれた。姫という称号に似つかわしく、狐姫の屋敷は貴族の建物のように壮麗で、それでいて気品の漂う調度品が揃っていた。
入口から黒狐と再会した渡殿はまっすぐと東西に伸び、北と南に小さな渡殿から続く幾つかの対の屋がある。初めに右――入って来たのは西側からだったので、つまり南――に見えたのは釣殿で、南山の豊かな鎮守の森に囲まれた、中島のある広い池があった。
少し歩くと、左側に細殿、その奥に北の対の屋。右側には几帳を隔てて、主人の生活する寝殿がある。寝殿を通り過ぎると、北へと向かう細殿と、右側に几帳が並ぶ一角があった。
「じゃ、僕、お部屋に戻るね」
「え?」
返事を待たず、少年は北へと向かう細殿を歩いて行った。
「サリくん、ここに住んでるんですか?」
「ああ。子どものころからここで奉公してるらしい」
「知らなかった……」
男は曖昧に笑って、几帳に向かって声をかけた。
「姫さん。連れて来たぞ」
「おお、天狗。かたじけない。マツリ、赤!会いたかったぞ!入って参れ!」
少しばかり懐かしい狐姫の声に、赤はわくわくと身体を疼かせた。男に促されてマツリが几帳の隙間から部屋に入ると、いつも通り美しい狐姫が、マツリに飛びついて来た。
狐姫はマツリを背中の赤ごと抱きしめると、きらきらと輝く瞳を彼女に向けた。
「元気そうで何よりじゃ!」
「コガネちゃんこそ。今日はお招きいただいてありがとう」
以前よりも少しだけ気安い口調でマツリが言うと、狐姫は嬉しそうに頬を緩めた。その顔のまま、赤に目を向ける。マツリはその視線に気付いて、襷を解いて赤を狐姫の腕の中に預けた。
赤は綺麗で可愛い狐姫が大好きだったので、喜んでその腕の中で甘えた。
「だーっぁ!」
「愛いのう……二人とも、ここに住まんか?」
狐姫が頬を染めてそう言ったので、己はそうでも構わないと言わんばかりに、赤は満面の笑みを浮かべる。
「そりゃぁ、狐さんが怒るだろうな」
「白狐がなんと言おうと構うものか。――冗談は置いておいて」
マツリが困っているのを見て、狐姫は赤を男に受け取らせると、マツリの手を引いた。
「天狗、赤を連れて釣りでもしておれ。妾とマツリは女子同士の話があるからの」
「えっ?」
「おうよ、任せとけ」
男は笑って、東の対の屋から出た。マツリが慌てて何か言っているが、男がすたすたと渡殿を歩いていくので赤には何を言っているのかは分からなかった。
男の腕の中は、マツリや狐姫と比べると硬くて居心地が悪い。
「ぷふぅー」
「不満か?まぁ、我慢しろって」
それでも、狐さまや黒狐よりは赤子の扱いに慣れているらしく、片手でゆらゆらとあやす仕草は心地よい。赤は妥協して、泣くのは止めておいた。
釣殿から中島へ出ると、赤色や黄色、白、黒といった色の鯉が池の中で泳いでいた。赤は興味津々で男の腕の中からそれを覗き込む。男は赤が池の中を見やすいようにしゃがんで、片手に持っていた釣竿を置いて赤を落ちないように両手で抱き込んだ。
「あーあ、あう」
「綺麗だよな。餌やってみるか?」
「だふっ」
男は赤に餌を握らせた。赤はぎゅうと握って、ぱっと池に落とす。鯉が集まって来て、餌を食べ始めた。
ぱくぱくと口を開閉させる鯉の顔に赤が笑っていると、男も優しく目を細めた。
「だーあ、あーあ」
「ああ。楽しいな。俺も生き物は好きだ」
「だう!」
赤は男の顔を見上げた。近くで見ると、男の目は赤みを帯びた茶色で、濃い色の睫毛がその周りを覆っている。頭に被った白い頭巾が眉まで覆っていたので、赤はそれをとって顔をもっとよく見ようと手を伸ばした。
「こらこら」
男は赤を軽く窘めたが、瞳は暖かく、怖くない。
「だー」
「あんた、この調子で狐さんとかマツリとかに我儘ばかり言ってんだろ」
「だーう」
「皆が優しくて甘いから、黒狐が苦労すんだよな」
男は赤を顔の近くまで抱き上げた。
「あんま、苦労かけんなよ。あの人、見た目より繊細なんだから」
禿げた黒い狐なんて見たくねぇだろ?と言って、男は笑った。赤は男の言葉の半分も意味がわからなかったが、手を振って笑っておく。
「まったく。赤ん坊ってのはお気楽だな」
男は赤に答えて笑っていたが、ふと表情を引き締める。
男の視線は、腰に佩いた朱色の鞘に注がれていた。
「こんな時にまで――」
「う?」
赤が男の顔を凝視しているのに気付いて、男は困ったように笑った。
「悪いな。急用が入った。巫女狐を呼ぶから、相手をしていてもらってくれ」
赤は男が己のもとから離れていこうとしているのを敏感に察知して、強く男の山伏装束を掴んだ。
男は小首を傾げて赤を見る。
「一緒に行くってか?危ないぞ」
「ぶぅ!」
「……」
男は少し考えるようにして、瞳を伏せた。
「まぁ……いいか」
「あー」
「俺はこれから、悪い奴をやっつけに行くんだ。あんたも協力してくれよな」
「だぁ!」
赤は元気良く、返事をした。
―――――
豪奢な着物を巫女狐に着せつけられながら、マツリは几帳の向こうに意識を飛ばしていた。
「赤が心配か?」
狐姫は二、三人の巫女狐に囲まれて、マツリに着せる着物の柄や色を吟味していたが、マツリの表情がなかなか晴れないのを見て声をかけた。
「天狗なら信用できる。大丈夫じゃ」
「……あの人、このお屋敷で暮らしてるんですよね?」
「うむ。どこからか降って来たのじゃ」
そう言って、狐姫は己の言葉に、おかしくてたまらないと言うようにくすくすと笑い声を上げた。それに同調するように巫女狐たちも笑う。
明らかに何かを含むような笑いである。
「あたしには教えてくれないんですか?」
「そうじゃのう……天狗が自分で言いたくなるまで妾たちは言えぬな」
「えぇ?」
口を尖らせるマツリはいつもよりも子供っぽい。狐姫はそんな年相応の反応を見せるマツリが可愛くてしょうがないという顔で、両手で彼女の頬を挟んだ。
「むくれるでない。とにかく。黒狐は気に入らぬようだが――天狗は赤だけは必ず守る。マツリは妾と一緒に遊んでおればいいのじゃ。いつも働いてばかりじゃろう」
「――はい」
よし、と狐姫は言って、巫女狐に指示を出した。
「臙脂。淡紅。山吹。桜。菫に朝顔――はてさて、どれが一番似合うかのう」
「マツリ様は御髪の色が濃くていらっしゃるから、どんな色でもお似合いになりますね」
「大輪よりも小花のほうが、マツリ様の可憐な雰囲気にお似合いですわ」
巫女狐たちにわらわらと寄ってたかって着物を合わせられ、マツリは困惑の色を隠せない。
「あ、あの。先程から、いったい何で――」
「……。後でのお楽しみじゃ!」
「ですわ!」
美しいかんばせの女子に一斉に笑顔を向けられ、緊張しながらも、マツリは久方ぶりの狐の神社の外を楽しんでいた。