上弦
狐さまは口をつぐむと、一瞬眉を歪めた。
マツリは満月の光を浴びる狐さまの横顔を見ながら、胸にぽっかりと穴があいたような心地になっていた。
(狐さまは、今でも巫女さまとこの木の上で、この場所で、満月を見る約束を信じているんだ)
どうしてか、マツリは泣いてしまいたくなった。
(月を見るたび、空を見るたび、満月の夜が来るたび、狐さまは巫女さまを思い出して、こんな顔をするんだ)
昼も夜も、月を探して空を見上げ、そのたびに寂しげな顔をする狐さま。マツリはその理由を知った気がした。
「赤を初めて見た時、ようやく帰って来たのかと、言いそうになった」
狐さまはそう言って、自嘲した。
「すぐに違うと気づいた。赤は赤。あの女はあの女だ」
見上げてくるマツリの視線に気づいて、狐さまはマツリの顔を見る。
「誰にもあの女の代わりはできない」
優しく笑って、残酷なことを言う。
マツリは狐さまの顔を見ていられなくなって、俯いた。狐さまの顔を照らす月光も、まんまると太った月そのものも、今は見たくなかった。
(月なんて、嫌い)
狐さまはマツリの態度に首を傾げてから、再び月を見上げた。
(月なんて見ないで)
マツリは心の中で我儘を言った。くしゃくしゃになりそうになる顔を狐さまに見られないように、彼の胸に顔を押し付ける。
マツリを横抱きにしたままの状態で、狐さまは僅かに身を震わせた。
「マツリ。眠いのか」
マツリはその言葉に甘えて、眠ったふりをした。
狐さまは微笑んで、優しくマツリの体を抱きしめた。
「おやすみ――マツリ」
その言葉を聞いて、マツリは狐さまにすり寄るように、身を寄せた。
狐さまは喉の奥で笑う。
(こんなに近いのに、目の前に居るのはあたしなのに、)
狐さまの心の中で、眩しく微笑みかける巫女の姿が瞼の裏に浮かぶようだった。
(敵わない……きっと、一生)
黒狐は気配を感じて、凭れていた首を持ち上げた。軽快な音がして、襖が開け放たれる。
「黒狐!妾とお月見とやらをしようではないか!」
「お前は馬鹿か。こんな夜中に訪ねてくる奴があるか」
「赤ちゃんが起きちゃうよー」
馬鹿と言われた狐姫は、黒狐の耳を引っ張って言い返す。
「夜に訪れなければお月見はできんではないか。馬鹿はそなたじゃ」
「引っ張るな!」
「黒い狐さん、大きい声を出すと赤ちゃんが起きちゃうってば」
そこでようやく少年の姿に気づいた狐姫は、首を傾げる。
「はて。サリではないか。そなた、黒狐と友達じゃったのか?」
「うん。この間、オトモダチになったんだよ」
少年は狐姫に話しかけられたのが嬉しかったのか、満面の笑顔でそう答える。
「よく人の身でここまで来られたのう」
感心したような狐姫の惚けた一言に、黒狐は再度馬鹿かと怒鳴りたくなった。
「お前さんてやつは……」
「なんじゃ。サリも一緒にお月見するか?」
「わー、いいね!僕、お月見踊り踊れるよ!」
無邪気な少年の様子に呼応して、狐姫も無邪気にはしゃいだ。
「お月見踊りとな!楽しそうじゃのう。妾にも教えておくれ!」
「おいおい。よそでやってくれよ。というかお前さん、白いのとマツリに会いに来たんじゃねぇのかよ」
黒狐がそう言ったとたん、狐姫は真顔になった。
「馬に蹴られとうない」
「そ、そうかよ……」
大方既に会いに行って、いちゃいちゃを見せつけられてむしゃくしゃしていたのだろう。そう見当をつけて、黒狐は狐姫に同情した。
「あいつら、無自覚で見せつけてくるからなぁ」
「いいもん。妾だって、あと百年くらい待てば……」
「あー……頑張れよ」
狐姫をこんなに落ち込ませるくらい、あの新婚夫婦は傍目から見て仲睦まじいのに、何故だかマツリも狐さまも、あまり自覚がないらしい。狐さまよりもマツリの苦労のほうに同情を感じて、黒狐は狐姫へと同じように、内心で「頑張れよ」と囁いた。
「じゃあ、狐姫ちゃんの失恋祝いだね!」
空気を読め、と黒狐は言いたくなった。そもそも、その発言はどうかしているとしか黒狐には思えなかった。いくら黒狐でも、妹のように思っている狐姫の心の傷を抉ることは見過ごせない。
「そうじゃな!お月見踊りじゃ!」
がくり、と黒狐は首を項垂れた。
(俺様がおかしいのか?)
はしゃいだ狐姫は、少年の手をとった。少年も楽しそうに立ち上がる。
「満月じゃ!お月見じゃ!」
「お月見じゃー」
少年が狐姫の口調を真似て笑った。
「もう勝手にしろ……」
黒狐は頭が痛くなるのを感じつつ、社務所を出て行く二人を見送った。
「んぅー」
赤が五月蠅そうに身じろぎした。
「こんこんこん、」
「ぽんぽこぽん、」
狐姫と少年が月を背景に軽快な足捌きで妙な動きを繰り返している。
腕の中で本当に眠ってしまったマツリを社務所に送り届けに来た狐さまは、マツリを横抱きにしたまま困惑した。
「黒……」
「お月見踊りだってよ」
無理矢理外に引っ張り出された黒狐が人間の姿で赤を抱いて立っているのを見て、狐さまは状況確認のために名を呼ぶが、帰ってきた答えはまったく意味のわからないものだった。
「あれは誰だ?」
狐さまが視線で少年を指すと、黒狐は歯切れ悪く答えた。
「あれは……清廉神社に村からの供物を運びにいく役目の……ガキだよ」
「人の身でここまで来られるとは、大した人間だな」
「お、お前さんまで……」
すっとぼけているとしか思えない。それとも、それほどに少年の力が強いということだろうか。
(狐が狸に化かされてやがる……)
それも無理もないか、と黒狐は思いなおした。そして、マツリを抱えたまま社務所に入っていく狐さまに便乗して、逃げるようにその場を離れた。
赤をマツリの横に寝かせると、赤はすり寄るように眠るマツリの着物を掴んだ。
漏れ出そうになる笑みを堪えて、黒狐はマツリを布団の上に寝かせたまま動かない狐さまを見た。狐さまはマツリと赤の寝顔を優しい瞳で見つめている。
(人間なんかに、まーた、惚れちまいやがって)
黒狐は思って、狐さまの顔から目を反らした。
(やっぱり――俺様がなんとかしねぇとなぁ)
黒狐は少年の笑顔を思い浮かべる。
(気は進まねぇがなぁ)
「これ、黒狐!」
外で踊っていたはずの狐姫と少年が、黒狐を呼びに部屋にずかずかと入って来た。
「な、なんだよ」
「黒い狐さんも踊るんだよ!ほら、赤ちゃんは白い狐さんにまかせて!」
「はぁっ?」
二人がかりでぐいぐいと引っ張られて、黒狐は顔を引きつらせる。
「せっかく人間の姿になったのじゃ。踊るのじゃ!」
「お前、酔ってないよな?」
「素面じゃ!ひっく」
(いや、これは思い切り酔ってる)
黒狐は少年の顔をじろりと見た。少年は無害そうな顔にさらに無邪気な笑みを浮かべて、黒狐の眼光を受け流した。
「失恋にはお酒が一番だと思って飲ませちゃった。てへ」
(この狸!)
黒狐は心の中で罵倒した。何がてへ、だ。ちょっと可愛いと思った己を殴りたい。何しろ外見は人畜無害な年端もいかない少年だ。マツリと同じか、少し下かもしれない。
「お・ど・る・の・じゃ!」
頬を真っ赤にした狐姫はご機嫌だ。遠巻きに見ていた狐さまは少し身を引いている。
「白いの、がつんと言ってくれ!」
狐さまは関わり合いにならないように気配を消すことを選んだ。黒狐はずるずると外に引きずられた。
「裏切り者ー!」
「お月見踊りじゃ、お月見祭りじゃ!」
「ぎゃあ!馬鹿、狐火出すな、こんなところで!」
「ぽんぽこぽんぽこ!」
楽しげに踊る狐と狸に挟まれ、黒狐は振り回される。
「こんこんこん、」
「ぽんぽこぽん、」
「け、けんけんけん!」
結局人の良い黒い狐は、付き合ってやるのである。
(なんで俺様がこんなくだらない狸踊りを踊らなきゃならないんだー!)
狐姫の放った金色の狐火が、夜空へ昇っていく。
社務所から出た狐さまはそれを見て、頬を緩めた。
(赤)
月の光に溶けるように消えていく狐火は、儚くも美しい。
『白狐さま』
消えゆく狐火が微笑んだような気がして、狐さまは目を細める。
彼は今、この上ない幸福を感じていた。