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狐に嫁入り  作者: すい
月夜の狐火
11/20

新月

(夢……?)

 カグヤは朝日を見ながら、ぼうとする頭で考える。

(幼い口調の女性――金色の、)

 女性は夢の中で何を言っただろう。

(次に月が満ちるまで――?)

 カグヤは頭を振って、考えを振り切った。考えれば考えるたびに、思い出せなくなっていく。

 一つ確かなことだと思うのは、夢で見た情景は、そのままカグヤの失った記憶であろうということだけだった。

 カグヤは木に寄りかかりながらも、己の足で歩けるようになった。黒狐はカグヤが立つと、その足の周りをぐるぐると回って嬉しそうに吠えた。

「こん!」

「ありがとうございます、コッコさん」

 怪我の回復を祝ってくれているのだと解釈して、カグヤは狐に礼を言った。傍で見ていた白狐は苦笑する。

「狐に礼を言うのか」

「いけませんか?」

 白狐は答えなかった。はしゃぐ黒狐を腕に抱き、カグヤの顔から眼を反らす。

「もう、人里に戻れるのではないか」

「いいえ。まだ山を降りるのは無理でしょう」

 白狐の目がカグヤを向いた。カグヤは視線を受けて、微笑みかける。

「そんなに帰ってほしいですか?」

「……」

 言葉に迷った白狐は、「ああ」とも「いや」とも聞こえるような声を出した。話を反らすように、巣に聳える大木を見上げた。青々と茂った梢が朝日に煌めいて、眩しい。

「じきに新月だが……この大木の上で見る満月は美しい」

「それは満月を一緒に見ようとのお誘いですか?それまで帰るなと?」

「……本当に情趣のわからない女だな」

「それ、意味がわかっておっしゃってます?」

 白狐の頬が引きつった。カグヤはその様子に、やはりくすくすと笑う。

「ビャッコさまは、満月がお好きなのですか?」

「ああ」

 素直に頷いた白狐は、黒狐の背を撫でた。黒狐は顔を上げて、ふすふすと鼻を鳴らした。

「やかましい」

 何を言われたのか、白狐は眉を寄せて黒狐の頭を軽く叩いた。黒狐はそれに怒って、ひょいと白狐の腕から飛び降りたかと思うと、さっさと森の奥に行ってしまった。

「あらあら」

「お前はどんな月が好きなのだ?」

 問われて、カグヤは一瞬言葉に詰まった。

 ――『次に月が満ちるまで』――

「わたくしは、新月が好きです」

 そう答えていた。白狐は首を傾げる。

「月が見えないではないか」

「それでいいんです」

「月が嫌いなのか?」

 そうではない。カグヤは言いかけて、沈黙した。言いようのない焦燥感が、満月が近づくのを感じると同時に襲ってくる。この感覚が嫌なのだ。

 沈黙を肯定と捉えて、白狐は憮然とした。その不機嫌に気づいたカグヤは、言葉をかける。

「貴方と月を見るのが嫌とは言っていませんよ?」

「……赤」

 責めるような声。カグヤは笑った。

「約束です。この木に登って、満月を一緒に見ましょう。ね?」

 白狐の無表情の中に小さな喜びを感じ取って、カグヤはもう一度、声を上げて笑った。

 新月が明日に近づき、月は狐が引っ掻いたような細い形をしている。

 カグヤと黒狐が寝静まるのを待って人里に下りてきた白狐は、ふん、と鼻を鳴らした。

 細い月と星の光で僅かに照らされる村は、静かすぎるほどだった。物音ひとつせず、怯えて警戒しているようにも思える。焦げた大地に、点々と残る家屋は、白狐が意図的に残したものだ。

 実際、白狐はこの村にとって恐怖の対象でしかないのだろう。二日と開けず白狐がこの村を焼き打ちに来るのは、人間を常に恐怖に曝すことが目的だ。長いこと己と兄弟たちが味わった苦しみを人間たちに与え、そして――。

(狐金……お前を取り戻すためなら、私は何でもしよう)

 真新しい社が南の山に見える。朱色の鳥居が、妹のように思っている存在の血を吸って染まったように思え、吐き気を覚える。

 妖の力が、月の衰えに応じて弱まっていくのを感じつつ、早く満月になればよいのにと思う。次の満月のとき、白狐の妖としての力がまた一段と強くなる。

 そうなれば、こんな村も人間も、あの忌々しい神社も消し去ってやれる。

 求めるのは平常――三匹の狐が暮らす、未来。

『約束です。この木に登って、満月を一緒に見ましょう』

 そんな暇はないのだ。脳裏にちらついた笑顔を振り切った時だった。

「ばけもの!」

 声と同時に、白狐の肩に何かがぶつかった。転がった石ころを見てから、振り返る。

 子どもだった。

「村から出てけ!」

 大人たちは子どもが化け物相手に一人立ち向かっているのに気付いているだろう。それでも、息を顰めて家の中に籠っている。

 白狐は焦げた大地を踏みしめ、子どもに向かって歩んだ。怯んだ子どもは逃げようとするが、白狐の足に敵うわけがない。あっという間に捕らえられた。

「兄ちゃん!」

 物陰に隠れていたもう一人が出てきて、初めの一人の首を絞めようとする白狐の腕に纏わりついた。白狐は無感動にそれを撥ね退ける。

「やめろよ、兄ちゃんを離せ!」

「石を投げつけてきたのはそちらのほうだ。家の中で死んだふりをしていれば助かったかもしれないのに、馬鹿め」

 もがく子どもを押さえつけて、首にかけた指にゆっくりと力を込めていく。子どもは恐怖を顔に張り付ける。

(恐れろ)

『貴方が恐れているのでしょう』

 白狐は子どもから手を離した。喚いていた弟が、解放された兄に駆け寄る。

 女の言葉が、白狐の手を止めた。白狐はその事実に驚愕する。

(何故、殺せない。私は恐れてなどいない)

 二人の子どもは、手を取り合って逃げ出した。凍りついたように動かない白狐に、捨て台詞を残して。

「お前なんか――お前なんか、巫女様が、カグヤ様が必ず退治してくれるんだからな!」

 白狐はその言葉で、己の身に起こっている現象が何だかわかった気がした。


 怒りにまかせて、残していた家屋もすべて焼き尽くしてしまった。

 いつの間にか登っていた朝日が目に眩しく、白狐は少しだけ、涙を零した。

「ビャッコさま……」

 日の光の下で見る己の着物は、月の下で見たときよりも衝撃的だったのだろう。それに加え、昨晩はいつもよりも多く殺してしまったから、派手に汚れている。

「どうして、泣いているのですか。また、恐ろしい目にあったのですか」

 カグヤはやはり、白狐の想像外の言葉をかけた。ただ光が目に染みただけだというのに、何故そんな顔をするのだと、白狐は言いかける。

 しかし、出てきたのは違う言葉だった。

「出ていけ。私に構うな」

「……?」

 カグヤは惚けて首を傾げる。その口が何か言う前に、白狐は声を荒げた。

「裏切り者が!私の目の前から消えろと言っているのだ!」

 カグヤの目が大きく見開いた。訳が分からないと、全身で訴えかけている。

 怒声を聞きつけて、黒狐が林の中から頭を出した。その姿を庇うように、白狐は背を向ける。

「村の者が言っていた。お前は私を殺しに来た巫女だろう!」

「なんのことです。わたくしは、」

「記憶のない振りなど――人間のやることとは、なんと姑息な!」

 白狐の全身からにじみ出る殺気に、カグヤは怯んで声が出せない。

「くぅ、くぅ」

「止めるな黒。やはり――やはり人間などと共に生きるのは無理だったのだ。赤も所詮、我らを虐げた人間の一人だったのだ」

「きゅぅ……」

 黒狐が悲しげに鼻を鳴らした。

「出て行かぬと言うのならば――その手で私を殺そうというのならば、この場で殺す!」

 白狐の目は本気だった。カグヤはその迫力に気圧されて、身を翻す。

 白狐は逃げ出したカグヤの背を追うことはしなかった。

 カグヤは木々の間をよろよろと駆けていた。完全に治ってはいない足を引きずりつつ、混乱する頭を落ち着かせようとする。

(何故。何故なの……)

 記憶は未だ戻らない。カグヤには、白狐と己の間で起きているすれ違いの正体が判らなかった。

「何故だと思う?」

 木に寄りかかって息を整えていると、目の前に少年が立っていた。

 朝日を浴びて茶金に輝く髪を持つ少年は、同色の目を細めて、愛おしげにカグヤを見つめた。

「それはね、君が僕らの巫女だから」

「……みこ?」

 釈然としない様子のカグヤに向かって無邪気に笑って、少年は木々の間を指さした。

「行ってごらん。きっとすべてを思い出すよ」

 カグヤが少年の指さす方向を見て、もう一度少年を見た。しかし、すでに少年の姿はどこにも見当たらなかった。

 狐に抓まれたような心地がしながらも、カグヤは素直に少年の指さした木々の間へと歩いて行った。

 途端、足元が崩れて、カグヤは悲鳴とともに小さな崖を転がり落ちた。

 目が覚めたのは、新月の夜だった。また記憶を失ってもおかしくはない激痛を頭に感じながら、カグヤは促されるままに身を起こした。

「大丈夫ですか、巫女様!」

「カグヤ様、心配いたしました。よくぞご無事で!」

「勾玉と刀は掘り起こしておきました。山にお入りになって、土砂崩れに巻き込まれたのですね」

 翡翠の玉のついた首飾りと朱色の鞘に納められた刀を渡されて、カグヤは眩暈を感じながらも、唐突にすべてを思い出した。

「あぁ……」

 嗚咽を漏らして、カグヤは泣いた。

(今までのことが、全て夢であれば、どれほど良かったことか!)

 恐らく随分前から消えた己を探して山に分け入ったのであろう村の男たちが、カグヤの涙に困惑している。

 カグヤは巫女だ。都から、辺鄙な田舎に狐の神社ができたと聞いて、調査のためにやって来た。

 そこで思いもよらぬ凶事に見舞われた村人を救うべく、清廉神社の狐姫に会いに行ったのだ。

『いっそのこと、妾もあの者も、そなたの手で殺しておくれ。次に月が満ちるまでに。あの者……白狐を』

 カグヤは山に分け入った。泣きじゃくる狐姫と村人の平安のために、誰にも何も言わずに、一人で。そうして出会った美しい男。

(白狐さま!)

 己を救った男こそ、人里を蹂躙する狐の妖怪であった。

 カグヤはよろりと立ち上がった。

「カグヤ様、どこへ」

 男の一人が、カグヤに触れようと手を伸ばした。カグヤはその手から逃げるように、傷む体をおして走り出す。それを追いかけようとする男たちに振り返って、カグヤは言った。

「いらしては駄目です。わたくしは妖狐を退治に参るのですから」


 星だけが頼りの暗い闇の中、白狐は一人、大木の枝の上で空を見ていた。

(やはり、新月など面白くもなんともないではないか)

 朝、カグヤの背中を見送って、そのままの足で大木に上った白狐は、黒狐が構えと甘えてくるのも無視して、今までただ、魂が抜けたようにぼうとしていた。

(赤)

「白狐さま」

 聞きたくなかった声が聞こえた。カグヤは勾玉を首にかけ、左手に朱色の鞘を持って白狐を見上げていた。

「降りてきて下さいまし」

「殺されに戻って来たのか」

 白狐は軽やかに大木から地面に降り立った。

 二人は静かに対峙した。

 初めに口を開いたのは、カグヤだった。

「これだけは信じてください。わたくしは、貴方を騙すつもりなどなかった」

 白狐は表情を変えない。

「お前はどうせ人間だ。信じることなどできない」

「……」

「私に言葉をかけて呪った――人を殺すなと。人を恐れろと呪った」

 カグヤは首を横に振った。

「わたくしの言葉のせいではありません。貴方が変わったのです」

「私は変わらない。人を根絶やしにして、いつか必ず、あの日々を取り返す」

「妖怪になってしまっては……人を殺してしまっては、もう戻れないのですよ?」

「っお前は、」

 白狐の顔が、一瞬泣きそうに歪んだ。

「お前は、私を責めないと言ったではないか!」

 カグヤは黙って、首にかけていた首飾りを外した。怯えたように身をすくませる白狐の目の前に立ち、手を握る。

「この手にかけた命の分だけ、私も共に祈ります」

 言って、素早く首飾りを白狐の腕に巻きつけた。白狐は驚愕する。

「月の満ち欠けで力を作用される貴方は、新月の夜には無力」

「裏切った……お前はやはり、裏切り者だ」

 白狐は呆然とそう言って、大木に背を打ちつけた。ずるずる、と地面に座り込む。

「――ガネ、黒……あ、か……」

 声にもならない音が、そう言った。カグヤにはそう聞こえた。

 白狐はそのまま、呼吸を止めた。

 カグヤは、まるで眠ったような、その美しい姿を時が忘れるほど見入っていた。

 しばらく経って、先ほどカグヤを助け起こした男たちが手に鍬や鋤を持って現れた。

「カグヤ様、助太刀に参りました!」

 男の手には、見覚えのある黒い塊がぶら下がっていた。カグヤはぞっとして、声を上げる。

「その子を離してください!」

 男は一瞬何のことかわからないという顔をしたが、すぐにカグヤの視線に気づいて、笑った。

「ああ、これですかい。丁度通りがかった罠に引っ掛かってたもんで、鍋の具に、」

 男はそれ以上言えなかった。カグヤが抜き身の刀を男の眼前に突きつけたのだ。

「離しなさい」

 男は腰が引けながら、黒い塊を地面に置いた。塊は素早く起き上って、カグヤを無視して白狐のもとへと駆け寄った。カグヤはその元気な様子にほっとする。

「あ、あれは!」

「狐の化け物!」

「カグヤ様……」

 説明を求める目を向けられたカグヤは、刀を納めて眉を顰めつつ答えた。

「封じの勾玉で眠りにつかせました。わたくしが死ぬまで目覚めることはないでしょう」

「それは、また目覚めることもあるかもしれないと……?」

 男たちの目に危険な光が宿ったのを見て、カグヤは瞳を厳しくする。

「『狐狩り』」

 男たちは、は、と目を見張った。

「この近辺で、それが流行ったのは聞き知っています。そのせいで、この近辺で残った狐はもう、この白狐と黒狐だけになってしまいました。貴方達は己の罪で罰を受けたのです。それでも、これ以上罪を重ねるおつもりですか」

 男たちは納得していないようだったが、その場は黙った。

 カグヤは白狐と、その頬を一生懸命舐めている黒狐を見た。

「わたくしは一生かけて、人と彼の罪を浄化します」

 涙は流れてこなかった。強い決意で押し込められたのかもしれない。

「いつかきっと、彼は目覚める。わたくしはそれまで、彼を浄化し続ける」

 カグヤはぎゅ、と刀を握った。

 新月の夜。巫女は見えない月に誓った。

―――――

 巫女はその場所に社を建て、生涯を、たった一人の狐に捧げた。

 御神木の根元、狐が目覚めた時、巫女は既に、この世に別れを告げていた。

 狐は知っていた。彼女が一生かけて、己に囁いた言葉を。祈りを。懺悔を。

 年月を経て清らかな光に包まれた狐は、その社の『神さま』になった。

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