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狐に嫁入り  作者: すい
月夜の狐火
10/20

下弦

黒狐が戻ってこない。

 男は白い着物をはためかせて、森の中を、黒い狐の姿を探して走り回った。

 白く長い髪の毛が木に引っ掛かるたび、舌打ちをしつつ、人間の体はなんて不便なんだと思う。思うものの、妖の力とともに手に入れたこの体から、本来の獣の姿に戻ることは、男にはまだ無理だった。

 今宵は満月だ。力が最大になる今この時でも、以前のような獣に戻るには、もっと、もっともっと力が必要だった。

(黒狐)

 もうすぐ月が下りる。太陽が昇ってから彼を見つけたのでは遅い。もし、己が見つける前に、人間に見つかってしまったら――。

 男は戦慄した。

(お前も、狐金のように)

 男は足に何かが引っ掛かったのを感じて、目線を下げた。獣を捕るために人間が使う姑息な道具が、草に隠れるようにしてあった。

 くん、と男は鼻を利かせて、しゃがみ込んでその罠を調べた。ぎざぎざの凶暴な刃の間に残る黒い毛とその匂いは、まさしく彼が探している相棒のものだった。

 刃に血が付いているのを見つけて、男は激しい怒りで狂いそうになった。

(また。まただ。また。また――)

 罠は鎖が断たれていた。人間の仕業だ。男は絶望しかけた。

 その時、小さく、きゅん、と鳴く声が聞こえた。

「!」

 男は立ち上がって、声が聞こえたほうに走った。唐突に視界が開けて、足元が揺らぐ。傍の木を掴んで下を見ると、雨で柔らかくなっていた土が流れたのだろう。そこは低い崖のようになっていた。

 ごつごつとした石が点在する崖の下で、黒い狐が土に埋もれて、きゅんきゅんと鳴いていた。男が崖をかけ下り、傍に跪いて手を伸ばすと、黒い狐は安心したようにその手にすり寄った。

「黒――心配した」

「くぅ」

 黒狐は大きな目で男を見上げた。その目に含むものを感じて、男は狐を抱き上げようとした。

「……?」

 何かに引っ掛かるようにして、黒狐の体は土の中に埋まっていた。

「くぅ、くぅ」

「待っていろ。今――」

 男は狐の周りの土を掘って、驚愕した。

 土の中から出てきたのは、赤い髪の美しい女だった。長い睫毛に覆われた目は固く閉じられ、その腕は黒狐を抱いて離さないように、しっかりと固定されている。

「人間……」

「きゅう、きゅう」

「ああ。わかっている」

 男は死んだように動かない女を狐ごと抱いて、冷え切った土の中から助け出した。

 大木の根元にある巣へ戻り、男は女を横にして、気休めに木の葉を集めてその体に振りかけてやった。

 女は死んだように動かないが、生きているらしい。そのうち頬に血色が戻り、瞼が震えた。

「ここは……?」

 か細い声で呟いた女は、黒い狐を抱いて目の前に座っている男をみて、息を飲んだ。それも当然のことで、男の髪は白く、目は金色に煌めき、おまけに美しい。一目見て人間だとは思えない容姿である。

 ただ、女はそうは思わなかったようで、宵闇に紛れる男の姿に驚いただけらしい。未だ健康には見えない顔に笑みを浮かべる。

「あの冷たいところから、助けて下さったのですね。有難う御座います」

 男は答えず、狐を膝に置いて毛並みを撫でていた。

「ここは一体、」

「何故黒狐を助けた。人間のくせに」

「え……?」

 男は女を探るように見つめていた。

「聞けば、黒狐を鎖から解き放ち、怪我の治療をしたというではないか。何故だ。土に埋もれた時、何故黒狐を放り出さなかった」

「なんのことです?」

 惚けているのだと思った。

「ふざけているとまた土に埋めるぞ」

「……?」

 女は訳が分からない、といった顔をした。演技ではないその様子に、男は怪訝に思って眉を顰める。

「忘れているのか?お前の名は?」

「カグヤです」

「どこから何のためにこの森に来た?」

 女ははっきりと名乗ったものの、それ以外のことはまるきり覚えていないらしい。困惑する女をよそに、男は納得した。

「土に流された時に頭でも打ったか」

「そんな……」

「そこらに打ち捨ててやりたいところだが……」

 男は狐の足に巻かれた布切れに触って、言葉を切った。目を瞑っていた狐が鼻先を上げて男を見る。視線がかち合って、男は溜息をついた。

「黒もこう言っている。元気になるまでここに居てもいい」

 女は不安の中に小さな希望を見つけて、男を見上げた。

「ありがとうございます……」

「寝ろ」

 男が立ち上がった。女――カグヤは去ろうとする男に問いかけた。

「あの、貴方さまのお名前は?」

「白狐だ」

 短く答えて、男は木々を分けて去っていった。

「ビャッコさま……」

 カグヤは呟いてから、降りていく満月を見た。

 何故だかとても、悲しい気持ちになった。


 カグヤに与えられた巣は大木の根元にあるために雨に当たることはなく、また、真夏の日差しを遮ってくれた。カグヤは土砂に流された時の手足の怪我以外は元気になり、木の実や魚をくわえて持ってくる黒狐と遊ぶこともできるようになっていった。

 しかし、三日経ってなお、カグヤの記憶は戻らなかった。

「わたくしはいったい、何者なのでしょうね……」

「?」

 大木に背を預けて座り、黒狐の頭を撫でつつ呟いたカグヤは、小首を傾げる狐の愛らしさに頬を緩めた。

「コッコさん、貴方のご主人さまはいったいどちらにいらっしゃるの?」

 黒狐は再度小首を傾げた。黒狐の体に巻きついた鎖が音を立てる。カグヤは笑って、黒狐の耳の辺りをかいてやった。

 記憶のないカグヤにも、このような屋根もない山の中で暮らしていることが変だということくらいはわかる。白狐は徒党を組んだ山賊でも、世間を憂う世捨て人でもなさそうなのだが、いったいなぜこのような不便な場所で『巣』に暮らしているのだろうか。

 白狐を見かけたのはこの三日間で三度だ。一度目は初対面の時、二度目、三度目は時を忘れてカグヤと遊ぶ黒狐を連れ戻しに来た。その際カグヤが話しかけても、無視の一方である。

 いったいどうやって暮らしていて、普段はどこに居て何をしているのだろう。カグヤが疑問に思うのも無理はなかった。

 黒狐がカグヤにすり寄って、彼女の膝の上に丸まった。そのまま寝に入った黒狐は、自分を助けたカグヤのことをすっかり気に入っているようだった。

 動物に懐かれるのは嬉しい。カグヤは怪我をしている足を庇いながら、穏やかに目を細めた。

(それにしても、この辺りの山にもまだ狐が残っていたのですね)

 カグヤは思ってから、瞬いた。

(わたくしは、今、何を――)

 不意に、後方の茂みから草をかき分ける音が聞こえた。

「黒」

 耳に心地よい声を発して現れたのは白狐である。カグヤは浮かんだ考えを一旦忘れて、首だけで後方を振り返った。

 木漏れ日を浴びて輝く白い髪は老人のようにも見えるが、顔を見ればそんな勘違いを恥ずかしく思えるくらいに、白狐の顔は恐ろしく綺麗に整っていた。都の往来を歩けば誰もが振り返り、町娘が頬を赤くするのが目に浮かぶ。そんなことを一応は思うのだが、ただ、やはりカグヤは関心がないようで、白い髪を少し珍しく思う程度である。

「赤」

 白狐は寝ている黒狐を見つめた後、カグヤの顔を見てそう言った。三日ぶりに声を掛けられたと思えばそれは意味のわからないものだった――カグヤは先ほどの黒狐のように首を傾げる。

「……?わたくしのことでしょうか」

 白狐は黙して答えた。

「わたくしはカグヤですが――」

「人間の名は呼びにくい。お前は赤いから、赤だ」

 お前も人間だろう、とは、カグヤは思わなかった。赤いから。そう言われて、カグヤは己の腰まである長い髪を見やった。

「そういえば、赤いですね」

「人間にしては珍しい」

 淡々と言って、白狐はカグヤの隣に、同じく大木に背を預けて座った。意外な行動にカグヤが何も言えないでいると、白狐は目を閉じて溜息をついた。

「すぐに逃げ出すと思った」

 その意味を理解したカグヤは、同じく淡々と答える。

「貴方は確かに怪しいですが、悪い人ではなさそうです」

 怪我をおして逃げることもできたカグヤが、未だ得体のしれない己のもとを離れないのが不思議であったのだろう。白狐は目を開けて、目線だけカグヤを凝視した。

「悪い人に狐が懐くはずありません。狐は賢い生き物ですから」

「……」

 その言葉に何を思ったのか、白狐は再び溜息をついた。

「お前は肝が据わった人間だな」

「そうでしょうか?」

 惚けたように、カグヤがそう言った。

 その日から、白狐はカグヤを無視しようとはしなくなった。話しかければ答えるし、笑いかければ僅かだが反応を見せる。

 先日と同じように大木の根元で寛いでいたカグヤがそう言うと、黒狐を抱いて立っていた白狐は少し決まりが悪そうに、己の知っている人間とは一味違う感性を持つ女を見やる。

「本人に直接そう言うか?」

「駄目でしょうか?」

 問いに問いで返したカグヤに、白狐はやはり溜息をついた。

「赤」

「はい」

 窘める声にも素直に返事をした。

「お前は、本当は狸なのではないのか。そうやってのらりくらりとしているところなんかそっくりだ」

「まぁ、どんなところが?」

「そんなところだ」

 げんなりと肩を落として言ったものである。

 カグヤはそんな白狐の様子が面白くて、くすくすと笑う。けれども、何か心に引っかかるものを感じて、すぐに笑みを失くした。

(狸……)

 白狐はカグヤの様子には気づかなかったようで、黒狐を地面に下ろすと踵を返した。

「出てくる」

 それは山を出るということだ。カグヤは顔を上げて、白狐の背に声をかけた。

「二日も経たず、夜に何をしに山を出ているのですか?」

 麓の畑の野菜でも盗って来ているのだろうか。カグヤが問うと、白狐は足を止めたが、振り返りはせずに答えた。

「害虫駆除だ」

「……は?」

 カグヤが怪訝に眉を顰めたのも当然のことだろう。なおも質問を重ねようとするカグヤを許さず、白狐は足早にその場を去っていった。

 いつものことだったので、カグヤは特に気にせず、足元に寄って来た黒狐の背を撫でた。

 盗人だろうと何だろうと、白狐は己の命の恩人なのだからと、そう――思って。

 ある日の夜。

 黒狐の温かさを背に感じながら、木の葉に埋もれて眠っていたカグヤは、ふと気配を感じて瞼を上げた。

 白狐と出会った時、満ちていた月は既に下弦である。それでも少しはふっくらとした月の光を頼りに目を凝らすと、闇夜に目立つ白い髪が見えた。

「ビャッコさま?」

 呟くように声をかけると、こちらに背を向けて月を見ていた影が、ゆっくりとこちらに振り返る。

「ビャッコさま!」

 カグヤは飛び起きて、白狐に駆け寄った。温もりが突然いなくなったことに驚いた黒狐も同時に飛び上ったが、二三度瞬きしてすぐに身体を丸めて寝に入った。

「一体どうなさったの!」

 白狐の白い着物は、闇夜でもわかるほど黒く濡れていた。

「私の血ではない」

 そう答えて、白狐は着物の染みを確かめようとするカグヤの手を払った。

「嘘をおっしゃらないでください。さぁ、見せてください」

 譲らないカグヤの態度に諦めた白狐は、その場に座り込んだ。カグヤは血のついた着物をはいで白狐の体を検めた。

「お前……それでも女か」

 カグヤは聞こえていないふりである。

 白狐の体には小さい傷こそあったが、着物が濡れるほどの大きな傷はなかった。カグヤが見上げてくるのを、白狐は見つめ返す。

「返り血だ」

「………」

 さすがのカグヤも絶句した。白狐は素早く着物を元通りに着直した。

「逃げたくなったら逃げればいい」

 言われて、カグヤは我に返る。白狐が手に何も持っていないのを見て呟く。

「物盗りではないのですね」

 がくり、と肩を落とした白狐に何か言われる前に、カグヤは濡れた白狐の手を握った。

「……っ」

「恐ろしかったでしょう」

「お前は、何か勘違いをしていないか」

 無頼者に襲われて返り討ちにしたとでも思っているに違いないと、白狐は胡乱な眼を向ける。真実は告げずに、言葉を紡ぐ。

「私は人を殺した」

 カグヤの表情は変わらなかった。恐れるでも悲しむでもなく、まっすぐに見つめてくる。

「私が、恐ろしくないのか」

「貴方が恐れているのでしょう」

 月夜に照らされて、遠くで煙が上がっているのが見えた。カグヤはそれに気づいていない。白狐はカグヤに手を握られることで初めて、己の手が震えていることに気づいた。

「耳を閉ざさないで。わたくしの声を聞いてください」

 怯える白狐に、カグヤは語りかける。

「虫のさざめきが、貴方を呪っているように聞こえるのならば間違いです」

 白狐は震える手に力を込めた。

「風は貴方を許し、貴方を守るために身を寄せるのです」

 カグヤは右手で握った白狐の手はそのままに、左手を白狐の右頬に添えた。

「わたくしは貴方を責めません。だからわたくしに怯えないで」

 下弦の月の下、白狐はいつまでもカグヤの顔を見つめていた。

―――――

 のう。のう、カグヤ。

 妾は恐ろしい。

 あの者がこのまま、妾のために――を重ねていくのが恐ろしゅうてたまらないの。

 ねぇ、妾はどうしたらよい?どうしたらよかったの?

 あの者が村に火を――ち、――に塗れるたび、切り裂かれるように――が痛いの。これは何?

 ああ、こんなに。こんなに痛いのならば。

 いっそのこと、妾もあの者も、そなたの手で――ておくれ。

 次に月が満ちるまでに。

 あの者……――コを。

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