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狐に嫁入り  作者: すい
狐に嫁入り
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生贄の少女

今宵は望月である。

 一年に一度の祭りの夜、常では暗く静けさに満たされる麓の村は、戌の刻になっても騒がしい。

本殿まで聞こえる人々の声に呆れ果て、彼はくしゃりと参道の砂を踏んだ。踵を返した先にある大きな木は、人間に言わせれば神木というらしい。

彼はその神木の枝の上で静かに月を見るのが好きだった。

本殿をぐるりと回って目当ての神木の前に立つと、ふと何か、小さな気配を感じた。久方顔を合わせていない同居者が隠れて己を脅かそうとしているのかと一瞬疑ったが、神木の根元を見たときに、それは杞憂と知る。

「あー……」

人間の赤子だった。襤褸布に巻かれ、尻もちをついたような格好で座り込んでいる。黒よりも少し赤っぽい髪色が、闇夜の中でもはっきりとわかった。

赤子はぱちりと開いた両の目で彼の顔を見ると、紅葉のような小さな手のひらを伸ばした。あー、だの、うー、だの、彼には全くわからない言語で話しかけてくる。

「………」

彼が己に手を差し伸べないのを見ると、赤子は不満そうに、ぎゅ、とつるつるとした眉間に皺をつくった。

途端に火のついたように泣きだした赤子の様子に、彼はようやく正気に返った。

「あああああ、ぅあああああ」

「……っ」

彼はこのように煩い生き物など扱ったことがなかった。いや、この場にいない同居者も煩いが、この生き物はそれの上を言った。

彼は迷った末に赤子に手を伸ばすと、おっかなびっくり、抱き上げた。

「……あう」

抱き上げると、赤子は満足そうに静まった。そして、大きく顔を歪ませた。それが笑顔だと気づくと、彼は何やら胸に湧きたつものを感じた。それは彼の本性ゆえの慈愛だったかも知れないし、本分ゆえの同情だったかもしれない。

「赤」

呟くと、その想いは確かになった。もう、逃げられない。

「赤」

もう一度呟いて、彼は己がその赤子の虜になったのだと気づいた。


✤✤✤



   一  生贄の少女



騒がしい夜が過ぎて、静かな朝が訪れた。

マツリは煎餅布団を片付けて、破れた障子の隙間から見える白んだ空を眺めた。

雀がちゅんちゅんと鳴いて、マツリを仕事に急かす。世話になっている伯母の少し怒ったような声が聞こえた。伯母は厄介者のマツリをこの歳になるまで育ててくれた恩人だが、どうにも怒りっぽくていけない。

マツリの母親は彼女が三つの時に彼女を置いて村を出ていった。もともと父親はいない。捨て子のマツリを養うのはこの家の貧しさでは相当苦労したことだろう。その苦労がもともと優しい性格の伯母を怒りっぽくしてしまったのなら、マツリは申し訳なくて頭が上がらない。

己を呼ぶ声に慌てて立ち上がったマツリは、大きく返事をして襖を開けた。

「マツリも言ってやんなよ、このろくでなしが、あんたを買おうっていうんだ」

伯母の姿を見つけるなり、マツリはそう言われて瞬きを繰り返した。勝手口で伯母と口論していたのは、村を治める家の主、弥平であった。

「人聞きの悪い。わしはただ、あんたんとこのマツリが一番適任だでゆうただけだ。親もいねえんだし、あんたの生活も楽になろう」

弥平は頭をぼりぼり掻いて言い訳した。その視線からマツリを隠すように間に立って、伯母はふん、と鼻息を荒くする。

「この十二年マツリを育てたのは神様に食べさせるためじゃないよ。あたしの子を買おうってんなら村中の有り金全部用意するんだね!」

伯母に睨まれて、弥平は少し顔を赤らめる。マツリはこの小太りの男が、美しい伯母のことを好いているのを知っていた。

「お金がもらえるんですか?」

マツリはつい、この男が伯母を見るのをやめさせたくて声をかけてしまった。

弥平は蟇のような顔をマツリに向けて笑んだ。蟇の子は蟇であるのと同じく、蟇の顔は蟇でしかないのだとマツリは学んだ。

「ああ、たんとな。伯母さんは毎日白飯が食べられるようになる」

「白飯が……」

「マツリ!この男の言うことなんか聞くんじゃない!」

この場にマツリを呼んだのは己であるということも忘れて、伯母は怒鳴り散らした。

「伯母さん、あたし伯母さんに白飯食べてもらいたいよ」

「何を言うんだいこの子は。あたしは子供に養われるほど歳とっちゃいないよ。この男はあんたを神さまへの生贄にするつもりなんだよ。人一番臆病なあんたがそんなお役目できるもんか。わかってるのかい?食べられちまうんだよ」

「食べられる……」

ぞ、と背筋が凍った。青ざめたマツリの顔を見て、そら見たことかと伯母が眉を持ち上げる。

「わかったらとっととお行き、この蟇男!」


伯母が弥平を追い払った後、朝餉の支度をしながらマツリは考えていた。

(伯母さんはああ言ったけど、本当は毎日白飯が食べたいにきまってるよ)

椀に盛る粟飯を混ぜる。いつもの手ごたえがなんだか悲しい。マツリという厄介者がいなければ伯母はお腹いっぱいとは言えずとも、たまには白飯をかき込むことができるのだと思うと、いてもたってもいられなくなる。

(食べられるのは怖い。だけど、)

密かに心をきめて、マツリは盆を運んだ。


畑に野菜を収穫しに行った伯母と家族の目を盗んで、マツリは家を抜け出した。

家の者に黙って出かけるのは初めてのことだった。マツリは自分の行動力に驚きつつ、逃げ出したくなる足を留めて、弥平の屋敷を訪れた。

「おおう、来ると思っておった。これで狐さまも満足だ」

(……狐さま?)

村を囲むようにして在る山の北の中腹に、村民が口を揃えて『お化け神社』と囁く古びた神社がある。

そこには狐の神様が祭られていて、夜な夜な神社からさ迷い出ては、口笛を吹いて踊るとか、人間の女を攫っていくなどと噂されている。その姿は神々しい白い大狐であるともいわれるし、黒い髪の飄々とした青年であるともいわれる。

村民はお化け神社のことをよく思っていない。昨日行われた祭りも、お化け神社のためではなく、南の清廉神社のためだ。無視しているとも言っていい。

そんな宮司もいない、打ち捨てられているといってもいいほどの神社に何故生贄が必要なのか。マツリは問いたくなったが、弥平はマツリに口を開かせる間も惜しいらしく、慌ただしく女を呼んでマツリを着飾らせた。


✤✤✤


おそらく今後生きていても二度と着ないであろうという豪奢な着物を着せられたマツリは、駕籠から下ろされたままの状態で凍りついた。本日二度目である。

圧倒的な存在感で、苔が生した鳥居がマツリを迎えた。その後ろに見える百段はあるかと思える長い石段の横を、手入れされずに自然な状態の森が覆っている。木に呑みこまれて、洞窟のようになっているその様子は、その先が魔の住む異空間であると警告してきているかのようだった。

マツリが振り返ると、彼女を乗せていた駕籠も運んだ男たちも、弥平すらいなかった。

(怖い)

初めて見るお化け神社は想像のはるか上をいっていた。

(でも、行かないと)

思い着物を引きずって、石段を上ってゆく。金は伯母のもとにすでに届けられた。後は己が役目を果たすのみであると気を奮い立たせる。がくがくと膝が笑った。

木々で覆われた隙間から、太陽の光が細く入っていた。その強さに、マツリは昼餉の用意をせずに家を出てきてしまったことを思い出した。

(もう昼餉の時間なのに、ごはんが無くててっちゃんは泣いちゃうかなぁ)

てっちゃんとは伯母の息子で、今年四歳になる悪餓鬼である。

(ああでも、てっちゃん、今日から白飯お腹いっぱい食べれるよ。いつも食べたいって言ってたもんね。良かったよね)

着物の重さで重心が傾いだ。マツリは一段と豪奢な上着を脱いで肩に担いだ。体力には自信があったが、長い石段を登るのには着物は不自由すぎる。

(これで、良かったよね)

視界が歪んで見えた。何だろうと思い目をこすって見ると、水滴が手の甲についた。汗が目の中に入ったのだと、マツリはそう、自分に言い聞かせた。

逃げることもできた。しかし、マツリはそうしなかった。伯母の家にも村にも戻れないのなら、マツリにはもう居場所がなかった。


長い長い石段を登り終えると、細かな砂が敷き詰められていたと思われる、参道のような場所に入った。

思われる、参道のような場所と表現するには理由がある。ここが神社であるというひいき目で見なければ、ただの獣道であると錯覚しそうなほどに背丈の高い草が青々と茂っていたためだ。長年人が足を踏み入れていないという事実をその目で確認して、マツリは恐ろしいのを我慢して草を分け入っていった。

別段、目的地はなかった。鴉が翼をはためかせながら頭上を飛び、虫が耳のまわりを飛ぶ音を聞いて、飛び上るほど怯えながら進んでいく。蟇が跳ねたときには弥平を思い出して、早く狐さまとやらが出てきてひと思いに食べてくれればいいのにとさえ思った。

鳥居と同じく苔むした灯籠を見つけてようやく、己の歩いている場所が参道なのだと確信したころ、なにやら、遠くないところで人の声が聞こえたような気がした。

――あう、あう、きゃ、きゃ

初めは、狐さまが己を食べに来たと思った。恐ろしくて蹲り、耳を塞いでいるうちに、はて、今のは赤子の声ではなかったかと思い始めた。

――あああん、ぁあああああ

動くこともできずに震えていると、赤子の声は火がついたように泣きだした。

マツリは、昔てっちゃんの世話をした時の条件反射であろうか、何とかしなければと立ち上がった。石のように動かなかった身体が赤子を求めて動き出した。

泣き声は前方、右から聞こえた。等間隔で置かれた灯籠を見ないようにして過ぎ去り、草を分けて参道の道から外れるようにして進むと、昔は社務所に使われていただろう建物があった。

その外観があまりにも恐ろしげなので、マツリはまたも怖気づく。木々で光が差さない荒れ地に朽ちかけた社務所――中からは絶えず赤子の泣き声がして、早く、早く来いと急かしてくる。

マツリは戸口に手をかけたまま固まった。

(もしも、中にいるのが、赤子の声で人をだますお化けだったら……)

食べられる。

戸口にかかった手を離すこともできず、マツリはしばらく迷っていた。怯えていたといってもいい。赤子は泣き続け、ある時、ひ、と一声泣いただけで黙った。その声があまりにも切なく響いて、マツリは意を決して手に力を込めた。

「そこで何をしている」

驚きすぎて声も出なかった。戸口に集中していた頭が状況を理解できずに混乱する。マツリは戸口から手を離して勢いよく後ろを振り向いた。

美しい男が、そこに立っていた。

「……」

「邪魔だ小娘」

形のいい唇が放った辛辣な一言の意味を一瞬遅れて理解して、マツリは戸口から飛びのいた。男はそんなマツリの様子などどうでもいいとばかりにそれきり視線をよこさず、迷いなく戸口を開けた。

ふわふわとした白い髪が目の前を通り過ぎていく。マツリはその姿を凝視した。

顔を見ていなければ老人だと思っただろう。色素の薄い金とも琥珀とも見える目のすぐ下には、下瞼を縁取るように模様がある。見たこともない白い着物をふわりと覆うように、肩にかけられた薄紫色の布が風に揺れていた。

この世のものとは思えなかった。

「赤」

呟いた声は村の男たちなど足元にも及ばないほどに美しい。魔に魅入られるとはこのことかと、マツリは男を見つめながらぼんやりと思った。

(……赤?)

恐ろしいという気持ちは消えていなかったが、男への興味のほうが勝った。こちらを全く気に留めていない様子を見て、マツリは首だけ戸口の奥に入り、恐る恐る覗き込んだ。

「だー!」

「!」

満面の笑みで男に抱かれているのは、襤褸布に包まれた赤子だった。

やはり、先ほど泣き続けていたのは本物の赤子だったのだと確信して、マツリは途端に申し訳なくなった。

「あーう、うー!」

赤子が戸口に佇むマツリを見つけて、愛想良く手を伸ばした。その手を掴む資格はない気がして、マツリは一歩後ろに下がった。不満そうにする赤子を男がゆらゆらと揺らしてあやす。マツリにはその仕草がなんだか少しぎこちなく、頼りなく見えた。

「まだいたのか。迷子か」

その言い様と眼光の鋭さにマツリは竦み上がる。びくびくとして何も話さないマツリに興味をなくしたのか、男は赤子を抱きあげたまま社務所を出た。

「あ、の……!」

震える声を何とか出して、マツリは男を引きとめた。男のほうはとにかく、赤子はどう見ても人畜無害に見える。マツリはここが狐の神社であることを疑い始めていた。

「ここは、その、私は……」

何をどう言って説明すればいいのか分からず言い淀んだマツリの姿を、上から下まで眺めて、男は一人で納得したように頷いた。

「ああ、約束の花嫁だな。あまりに地味だったので気がつかなかった」

「え、あの、」

「来い」

短くそう言った男は、マツリの見間違いでなければ、宙に浮いていた。おい茂った草の上を暗闇の奥に向かって飛んでいく。

その姿が見えなくなって、マツリは己の頬に手を伸ばした。

「痛い」

抓った頬はやはり痛みがある。夢ではないのだ。

狐につままれたような心地のまま、マツリは言われた通りに奥に進んでいった。

幸い、男からの衝撃のおかげで周りからの恐怖はさほど感じられなかった。


進んだ先の拝殿の前で、男は赤子とともに待っていた。開口一番「鈍い」と静かに罵倒されて、マツリの恐怖は頂点に達しそうだった。

拝殿の両脇には黒い狐の像が一対置かれていた。他の神社では狛犬が置かれている場所である。マツリはそれを見て視線を男から反らしながら、切り出した。

「あたし、狐さまの、その、生贄に選ばれてここに来たんです。あの、でも、もしかして、ここは違うんですか?それとも神さまなんていなくて、あなたたちが普通にここで暮らしている、とか」

最後はそうであったらいいのに、と期待を込めて言った。しかし、男はそんな些細な期待をものの見事に打ち砕いて見せた。

「ここは狐の神社だ。そして私が主の狐だ。お前は私が欲してここへやって来たのだ」

「あ、あなたが、狐さま……!」

ずい、と男は腕の中の赤子をマツリに差し出した。意味が分からずマツリが戸惑っていると、男――狐さまは眉を吊り上げた。その顔の険しさに慌てて赤子を受け取った。

「それは私の子の赤だ。私の花嫁は私の子の面倒をみるのが務めだろう」

「は、はぁ……?花嫁って、誰がですか?」

「お前に決まっているだろう」

マツリは目を見開いて驚いた。

「私が、あなたの、花嫁……?」

うん、と狐さまが頷いた。赤子がそれを見て嬉しそうに笑った。

きゃ、きゃ。きゃ、きゃ。


この日から、マツリの育児生活は始まった。


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