耳聾少年と盲目少女
最初に違和感を感じたのは鼻だった。
冷たいものがポタリと落とされたような、滅多に感じることのない違和感。
まさか、と思って曇天を仰ぐと待ってましたとばかりに空は次々と涙を流し始めた。
空の泣き顔を見ながら僕は絶望する。
「うそだろ」
傘は学校に忘れてきたため、僕はその水滴から身を防ぐ術を持っていない。
『今日の午前中どんよりとした空模様ですが、午後には晴れるでしょう』
にっこりと笑っていた天気予報のキャスターのそんな言葉を信じた僕が馬鹿だった。
舌打ちをして鞄をかばうように抱きかかえて走る。
どこか雨宿りができそうな店を探すが、
目に付くのは美容院や女性用の服屋、飲み屋など、男子中学生の僕には入りにくい店ばかり。
今日は本屋に寄るためにいつもは使わない道で下校しているため、
どこにどんな店があるのかも分からない。
そんな僕の状況を知るよしもなく空は泣きさけぶだけ。
容赦なく威力を増す雨に、諦めという言葉が頭をよぎったそのとき、バス停が目に入った。
屋根と椅子がある。天の助けとばかりに緩めかけた歩調を速めてその中にはいり、
そのバス停には先客が一人いたため椅子に座るのは遠慮して椅子の後ろに立ち、鞄の中を確認する。
中には教科書が数冊と今日買ったばかりの画集が入っていた。
教科書は若干湿っているようだが、奥に押し込んでいたおかげか画集は無事のようだ。
ほっと胸をなでおろす。
鞄を閉め、ふと先客の女の子をよく見るとそれは僕の通っている中学校の制服だった。
そういえば、見たことあるかもしれない。
もっともどこかの教室の隅で友達らしき人と話しているのを見ただけだから、絶対に彼女だという確証はないのだけど。
彼女はイヤフォンで音楽を聴いて本を読んでいるため、僕には気づいていないらしかった。
ただ単調にページをめくり続ける。まあ、気づいたとしても話すことはないだろうけど。
音楽なんかを聴く子と話が合うとも思えない。
女の子から視線をはずし、空を睨む。
どこが晴天なのだろうか、大粒の雫が建物や地面にあたって騒音を立てていて、うるさくて嫌になる。
学校の騒音よりはましかもしれないけど。
くだらない話題で熱心に議論している無駄に高い女子の声とか、
先生の言うことを聞かないで走り回っている男子たちの立てる音は、
耳障りで仕方ない。
思わず耳をふさいだことなんて何回あるだろう。
もちろん僕だって友達と話すくらいのことはするけど、
別に声がなくったって文字や仕草、絵、他にもいろいろ考えを伝える手段はたくさんある。
人間らしいものはいくらでも残る。
実際に言葉がなかった時代はあったのだから。
なのに、音というものは常に僕達に付きまとうのだ。
騒がしいのが嫌いというより、音という感覚が嫌いなんだ。ただただ、意味がない。
音楽なんてそれの代表的な例だ。
たまにかろうじてたまにクラシックを聞いたりするけど、
それも本当に極稀なことで、本当は音がまったくない方が落ち着く。
いつかそんな話をクラスの女子にしたところ「え、じゃあカラオケで何歌うの」と聞かれてしまった。
なんで音楽の基準がカラオケなのかがが理解できない。
カラオケなんてただ部屋を提供するだけの店じゃないか。
あんな店、僕にいわせればぼったくりとしか思えない。
そう公言する僕を友人達は声をそろえて「変わっている」という。
僕に言わせれば音なんてただの空気の振動なのに、そんなのに感動する君らの方が「変わっている」。
相変わらず水滴をおとして轟音を立てる雨雲を睨む。
嗚呼、早く帰って静かなところでフェルメールの画集を読みたい。とため息をついたときだった。
雨音に混ざってかすかに旋律が聞こえてきた。
最初は女の子のイヤフォンから音もれしているのかと思ったがどうも違うらしい。
本を読むために顔を伏せているために分かりにくいが、口が動いている。彼女が歌っていたのだ。
変な奴。
率直な感想はそんなものだった。
僕という第三者の存在に気づいていないから、気が緩んで歌ってしまったのだろうけど。
いつもの僕ならこんなの無視して他の事を考えるのに、
今日はどういうわけかその歌声に耳を傾けていた。
その声まるで冬の空のように澄んでいて、春風のようにやさしくて、
僕の耳にすんなりと入り込んできた。
女の子の声なんて高いだけで頭が痛くなるだけって思っていたのに、僕が知っているそれとは全然違った。
歌声に思わず聞き入ってしまう。
すこし雨が弱くなったかな。
空を仰いでなんてことを考えながら歌声を聴いていると、突然声が途切れた。
どうしたのかと顔をと女の子に向けると、彼女は僕の方を振り向いて目を丸くしていた。
どうやらやっと僕の存在に気づいたらしい。
彼女の顔は赤絵の具を顔に一滴たらしたように赤くなり、あわてて本に視線を戻した。
本当はここから逃げたいだろうけど、この雨のせいでそれができないのだろう。
それきり流れる気まずさ。
雨の音と女の子が本のページを繰る音だけが支配する。
彼女はいつのまにかイヤフォンをはずしていた。同じ失敗をしたくはないからだろうか。
「……どうして、歌ってたの?」
あまりの気まずさにとにかく何か話さなければという妙な使命感に駆られてしまい、口を開いたが墓穴を掘ってしまった。
女の子の肩がビクリと震える。
しかし出してしまった声はもう消すことはできない。
これだから、声は嫌いなんだ。文字なら消してしまえるのに。
とりあえず冷や汗をかきながら相手の様子を伺う。すると、女の子はこちらを振り向かないで答えた。
「わ、私しかいないと思ってたし……雨の日って音が聞こえにくいから誰か通っても大丈夫かなって思って……。」
彼女の口から発せられた小さな振動は、雨音にかき消されそうになりながらも僕の耳に届いた。
後ろから見ていても耳まで真っ赤に染まっていることが分かる。
「上手、だったよ。少なくとも、音楽が嫌いな僕が聞きほれるくらいには」
そんな彼女にむけてかけた言葉は賞賛だった。もちろんお世辞ではない。
何故だか分からないけど、彼女の歌声はいつものように不快に感じることがなかったのだ。
無音に包まれたときのようにとても落ち着いた。
「え……音楽嫌いなんですか?」
しかし彼女は目をまるくして関係のないところに食いついてきた。
僕は戸惑いながらもうなずいて訂正する。
「というか音が嫌いなんだ。声もいらないと思う」
「どうして?」
「だって、ただの空気の振動じゃない。それのなにを好きになれっていうの?」
「音は一人ぼっちじゃないって教えてくれるし、声は自分の気持ちを伝える手段ですよ?
声がなかったら私たちもこうやって話すことはできません」
「声がなくても伝えることはできるよ」
肩をすくめながら素直に答える僕に、彼女は相変わらず真っ赤な顔で言い返してきた。
「ただの空気の振動が人の心を動かすこともあるんですよ。
まるで魔法みたいに、幸せにしてくれたり、元気付けてくれたり。感動させてくれたり。
……そう考えるとなんだか素敵じゃないですか?」
正直驚いた。
僕の音嫌いを人に話すとそれを聞いた人は大抵「変わってる」と一刀両断するだけで、
ここまで反論してくる子はいなかったのだ。
すこし面白がって言い返す。
「言葉には意味があるからね。確かに伝えられたことによっては感動することもあるかもしれない。
でも、こういうのはどう? こんな雨の音みたいな雑音」
そういって空を見上げる。さっきは少し止みそうだったのに雨脚が少し強くなってきたようだ。
「雨音は……好きですよ。心が落ち着きますし」
「なんで?」
彼女は答えを探して一瞬視線を宙をさまよわせたが、
答えが見つからなかったのか少し悔しそうに口を尖らせて小さな声で「わかりません」と言った。
きっと感覚的に好きだから答えようがないのだろう。すこし意地悪な質問をしてしまったかな。
と、反省をしながら、少しだけ話題を変える。
「……僕は雨は嫌いだけど雨上がりは好きだな」
その言葉に少し首をかしげながら「どうして?」と聞かれた。
さっきの仕返しというより純粋に疑問に思ったのだろう。
「水溜りにさ、青い空が写って綺麗じゃない。それに運が良ければ虹が見れる」
「そういう考え方もあるんですね」
まじめな顔でそう返された言葉の意味がよく理解できず「え?」と聞き返す。
すると彼女は僕から視線をはずし、まっすぐ前を見据えた。彼女にならって僕も同じ方向を見る。
目の前の道路では色とりどりの車がしぶきが上げながら次々と通り過ぎていく。
「私、見ることにあんまり魅力を感じないんです。
曖昧ですぐに変化してしまうし、本当に綺麗なものって見たことないから。
虹だって絵本で見るのみたいにきれいなものなんて見たことありません。絵だってなにが上手くて何が下手なのか分からないです」
彼女は一気にまくし立てるように言うのではなく、ゆっくり歌を口ずさむように言った。
すねているようにも見える。
しかし、その意見は絵や風景を見ることが好きな僕にとっては信じがたいものだった。
「変化するからいいんじゃない。一瞬の儚さというのかな。むしろ一瞬だからいいんだ」
すこしばかりむきになって言う僕の顔を女の子は珍しいものを見るかのように覗き込んだ。
「どうしたの?」
「いえ、初めてだったから。私を変と言わないで意見を述べてくれた人」
「それは君も同じでしょ。僕が音が嫌いといったとき僕を変だといわなかった」
ふと気づくと雨は小雨程度の強さになっていた。もう音はほとんどしない。
帰るならば今がチャンスだ。
今なら制服や鞄がびしょ濡れになるという事態は避けられるだろう。
しかし僕も彼女もそこから動こうとはしなかった。
きっと僕も彼女も小雨になったことよりも大切な大きなチャンスを見つけたからだ。
嫌いなものを好きになれるかもしれないというチャンス。
しかし、それをどうやって相手に伝えればいいのか分からない。
しばらくの沈黙の末、それを破ったのは彼女だった。
「あの、もしよかったら見る楽しさというのを教えてくれませんか?」
飾りをつけない率直な言葉に面食らった。思わず口ごもる。
僕のその様子を見て彼女は口ごもりながら、あわてて言葉を付け加える。
「あ、いえ……その……えっと、私は見ることに魅力を感じることができないから、貴方のように綺麗だとか感じることはできません。
だから私には見えない貴方の世界を教えてほしいんです」
真剣に言う彼女。僕は少し考えてそれに条件をつけた。
「じゃあ、僕には音の魅力を教えてよ。僕には聞こえない音のことを」
同じように飾りをつけずに率直に言うと彼女は微笑んで答えの代わりにイヤフォンを取り出し、僕に差し出した。
それを受け取って方耳につけると、先ほど彼女が歌っていた曲が流れ出す。
それは空気を振動して僕の鼓膜を震わせ、体中を震わせ、脳を震わせた。
僕にとってただの振動だったものが音楽に変わった瞬間だった。
「一緒に帰りましょう」
音に混ざって聞こえてきた声に僕はうなずいた。
彼女はそれを確認すると立ち上がって歩き始める。僕は自然とその隣に並んだ。
大好きな雨上がりの道を、大嫌いな音楽を聴きながら帰る。
さて、まずどんなことから教えてもらおうかな。
ふと見上げると空はいつの間にか、泣き止んでいて、
雲の切れ間から空色が覗いていた。今は雨の代わりに太陽の光が降り注いでいる。
そして、うっすらと見えるあれは、虹。
七色のそれはおおきなアーチを描いているそれは、絵本では”架け橋”と表されることが多い。
僕たちのこころにもあんな綺麗な架け橋がかかるといいな。
なんて考えながら僕は静かに七色の架け橋を指差した。
「ねえ、見て――」
ひとつだけ。
タイトルは「ジロウショウネントモウモクショウジョ」と読みます。




