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Eclipse  作者: 楪美
9/41

4,Chasing

Eclipse1-④ Chasing







バンッ と割れるような音に、一気に視線が集まったのを感じた。




ノートパソコンを平手で叩いただけで注目される意味が分からなかったので、構わず今度は拳を作って叩いてみる。相変わらず「送信中」の表示のまま微動だにしない画面が、機嫌を直すことはなかった。丸一コマおよそ90分の間ずっとメールを送信し続けているパソコンの執念もなかなかだけど、感心している暇はない。



諦めて何度クリックしても反応しないパソコンを閉じ、リュックにしまって私は席を立った。再び感じた視線に振り向くと、後ろのテーブルに座っていた男子学生のグループが、何か口を動かしながらこちらを見ていた。ヘッドホンを外すのが面倒だったので、ストーンズの「サティスファクション」のサビを聴きながら、そのまま目を合わせたままにしておく。何秒かした後彼らは視線を逸らし元の方へ向き直ったので、私もリュックを背負いカフェテリアを出た。








長い夏休みが終わって初日のせいか、いつもは道を埋め尽くすほどの学生が今日は幾分まばらに思えた。塗料の剥げかけた古い建物と、見上げれば首が痛くなるくらいに高いビルが混在するキャンパス内を、まだ湿り気の残る風が吹いていく。




散歩するだけで1時間は潰せそうな広い敷地を横切り、統一性のない建物の中でも一際レトロな造りの図書館へと足を運んだ。



国内屈指の蔵書と広さを誇り、区の文化財としても指定されているこの図書館は、長い時は半日以上も居座れるお気に入りの場所だった。どこもかしこも人と話声で溢れている学内で、ここだけは唯一常に心地よい静寂が流れている。最早顔見知りとなった職員さんに会釈し、IDカードを端末に通す。緑色のランプとともに扉の開いた改札機を通り、本の乾いた香りが満ちる中へと入った。




エレベーターで昇った最上階の洋書、洋雑誌スペースに席をとり、リュックからノートパソコンを取り出す。開いた画面は予想通り「送信中」のままだった。少し考えた後、一息に電源ボタンを長押しした。2秒数えて、指を離す。頑なにフリーズしていた画面が、ホームに設定しているロンドンの街並みに戻った。左端に並んでいたアイコンが何回かに分かれて徐々に消え、終了しています のメッセージと一緒に真っ黒になった。



キースのギターソロを唸らせるヘッドホンをはずして首にかけ、パソコンのモーター音が完全に止んだのを聞き届けてもう一度電源のボタンを押した。一度は萎んだ回転音が、再び動きだし高くなっていく。私の不機嫌顔を映していたディスプレイはウィンドウズのロゴが一瞬だけ見えたあとまた黒くなり、画面上の方に白抜きの英数字の列が現れた。



ここまで来れば、一安心。



中学を卒業する時に譲り受けたこのノートパソコンは、中身のOSこそ定期的にアップデートしているものの本体はだいぶ型が古く、気紛れな上に寝起きが悪い。頭はキレるのに扱いにくいところは、元の持ち主に似たとしか思えなかった。



ディスプレイがビック・ベンに戻ろうと奮闘している間に、携帯電話を開こうとして床に落としてしまう。もともと人がいないフロアで、こちらを見ている人は誰もいなかった。いつ行っても、喋り声と暇人で溢れているカフェテリアとは大違い。ここにいるのは、課題や読書、ネット、お絵描き、睡眠など、それぞれの世界に没頭している人たちばかりだ。程よい距離感と、広いデスク、そして好きな音楽がある。それだけで、何時間でも何日でも、ここにいられる気がする。



拾い上げた携帯電話はこれまた厚みのある旧式型で、白の塗料が剥がれてところどころに銀色の傷がついている。すでに機種変更に必要な期日も繰り越し料金も充分だが、こちらは気分屋なパソコンと違って素直に言うことを聞いてくれる。高機能のスマートフォンやタブレットが次々と登場してくる中、寿命を全うするまではと使い続けているうちに、春が来て、夏が過ぎた。散々落としたり、時には踏んづけてしまったりと丁寧とは言えないような扱いをしている割に、よく頑張ってくれている



はずだった。



「…うっそ」



開いた画面にはひびが入り、液晶がもれてカラフルな模様が出来ていた。アーティスティックなセンスすら感じるほどに綺麗な虹色の彩りは、このヴィンテージ携帯が務めを終えたことを悟るには充分だった。



念のためボタンをプッシュしてみても待ち受け画面のウィンザー城が出てくることはなく、モダンアートのような極彩色の模様が操作に合わせて万華鏡みたいに動くだけだった。操作回路自体は壊れていないようで、使おうと思えば電話くらないならできるのかもしれない。



指先が覚えている動きを頼りに、電話帳を呼び出し発信履歴と思しき画面で通話ボタンを押そうとして、やめる。



ここ最近、少し甘えすぎている。



昨日電話した時、その口調にこそ変わりはなかったけれど、苛立ちのような焦りのような不穏な感じは明らかに電話越しに伝わってきた。呼べばいつでも駆けつけてくれるあの人は、本当はいつも時間ややるべきことに追われている。私の前ではいくらか無理をしないようにしてくれている風でも、気づかずにはいられない。そういうところは、兄弟で似ているものだなとも思う。



電源ボタンを押し、七色のモザイクに浸食された元待ち受け画面に戻して携帯電話を閉じ、パーカーのポケットにしまう。



同じくヴィンテージのかわいいパソコンが、とっくにロンドンの街並みを映して出番を待っていた。










私の街の夜は明るい。



いつもと違う改札口を出て、いつもは歩かない通りに足を踏み入れるだけで、色も、音も、空気も変わる。



週末の副都心は、まだ日の沈まない明るいうちに埋め尽くされる。太陽が沈んだところで、暗くなるどころか眩しさを増していくだけの街に、東京中、もしかしたら日本中、世界中から、陽気な、あるいは狂気的な夜を迎える人たちがこぞって集まってくる。



歓楽街、夜のない街、欲望の街、と、誰が呼び始めたかわからない名前がいくつもついていたところで、私にとってはモノも人も充分すぎるホームタウンでしかない。



そのホームタウンで、私は迷っていた。



この街で携帯電話を手に入れることは造作もない。大型電器量販店はもちろん、各携帯電話会社のショップなどは5分歩けば必ず1件は見かけるほど乱立している。歌舞伎町や南口付近に至っては、店に入る必要すらない。路上に座り込んでいる日本語の怪しいお兄さんに声をかければ、個人情報なしでその場ですぐに渡してもらえる。手段を選びさえしなければ、国内では発売していない最新型の端末を持つことだってできる。相応のお金と、覚悟さえあれば。



貧乏学生の私には、駅前の量販店で自分と年の変わらないような女の子がかわいい声を出して宣伝している、一つ二つ前の端末が関の山だった。それでも、繰り越しで貯めたポイントと家に郵送されてきていたクーポンを併用して、実質支払ったのは手数料の数百円で済んでしまった。念願、とまではいかなくても、道行く人やコマーシャルなどで見かけて憧れていたスマートフォンを買えたのは素直に嬉しく思えた。



問題は、パソコンの方だった。



図書館で一発で立ち上がってくれたのは、最後の力を振り絞ってだったらしい。レポートの編集中に突然勝手にシャットダウンしてしまい、そこからはいくら電源ボタンを連打してもうんともすんとも言わなくなってしまった。データはUSBメモリに保存してはあるけれども、課題やバイトに追われる学生の身に、パソコンなしの生活はさすがに厳しい。そうでなくても、私には携帯電話以外にどこにでも持ち運べる情報源がなくてはならない理由があった。



携帯電話を購入したお店のパソコンコーナーからは、足を踏み入れる前に引き返した。スペースに入るまでに目に入った値札は、とてもではないが手を出せる数字ではなかった。2週間ほど絶食すれば買えなくもないかもしれないけれど、学校を含め、「活動」ができなくなってしまえば元も子もない。



大型店舗で新品を買うことは早々に諦め、新宿通りに沿って四ツ谷方面に向かった。国内随一の盛り場であろうと、少し歩けばデパートや居酒屋の看板にオフィスビルが混じってくる。さらに東へ行けば、住宅街も学校も児童公園もある。昔ながらの飲み屋や個人経営のお店が並ぶ商店街は、見た目はだいぶ寂しくても地元民にとっては馴染みのあるエリアだった。いつだったか散歩のときに見かけたリサイクルショップがこの辺りにあったはずで、頭の中の記憶を頼りに歩き回ったものの、それらしき店は見つからなかった。



商店街の一店一店が通り沿いにあるタウンマップには記載されている訳がなく、頼みのインターネットは、液晶の割れた携帯電話では使えない。早速働いてもらおうと意気込んだスマートフォンは、バッテリーが充電されていなかった。そもそも、リュックの中にある箱詰めされたままのハイテク端末では、私の機械センスと能力ではネット検索にこぎつけるより店が閉店する方が早いことは目に見えている。近くのネットカフェに入るのは、財布と相談する間もなく却下した。



このまま家に帰って買い立てのスマートフォンと格闘するか、駅前の家電量販店に戻って半月分のご飯とサヨナラするか。



ストーンズからマイケル・ジャクソンに変わったプレイリストをお供に賑わい始めた通りをうろつきながら、私は迷っていた。




マイケルが連呼する「BAD」が流れる頭の中を、一つだけ、時間もお金もかからない選択肢がよぎる。



映らない携帯電話からもかけられる、もう一つの番号。



何度も忘れようとしても結局忘れないそこへの電話一本で、パソコンはおろか欲しいものならなんだって、明日になる前に届けてくれるに違いない。食費だって抑えなくて済むし、音楽もダウンロードでなくCDで聴けるようになれば、読みたい本も図書館で借りずに本屋で買えるようにだってなる。




代わりに失くすものなんて、なんの価値もないちっぽけな自由と、プライドとも呼べないようなこだわりだけ。




ポケットの中のプレーヤーの音量を上げ、くだらない思考をかき消す。ついでに、曲も「BAD」から「Leave me alone」に変えた。マイケルのハイトーンな声を乗せたビートは、歩くリズムにちょうどいい。パソコンと箱入りの携帯でぱんぱんのリュックを背負い直し、再び駅方面に向かった。



デパート街の空が藍色に染まり始め、ビルを彩る看板が眩しい。明るい街の中、バラバラな足並みに混じって目的地の定まらないまま進む。



何百、もしかしたら何千回と通ったこの道で、何万人の人とすれ違ってきたのか なんて考えてみる。時には、どこかで会っている人が隣を歩いているかも知れない。毎日毎日同じ時間に、ここを散歩の通り道にしている人がいるかも知れない。それでも、こうしてほんの少しの偶然のもと、今私はここに歩いて、大勢の人と空間を共有している。どんなに小さくて、どんなに同じに見えていても、何かが変わっている限り、退屈なんてどこにもない。



伊勢丹がそびえる交差点を渡るところで、歩行者用の信号が点滅した。長い信号待ちに捕まるまい と横断歩道を走り抜ける人たちが入り混じる。赤に変わったライトに構わず飛び出す背中を見送りつつ、歩道のへりで私は足を止めた。ヘッドホン越しに、列を作っていた車のエンジン音が聴こえる。タクシー、セダン、バス、広告車、バイク、ワゴン車、またタクシーと、次々に通り過ぎる車と、ついでにその運転席に座る人の人相を眺めていれば、信号待ちも楽しくすら思えてくる。



車両用道路の信号が変わり、並んでいた車の列が、待ちくたびれたように右折してきた。何かのキャラクターが描かれた都営のバスが勢いよくカーブして、目の前30センチほどのところを通過する。



そのキャラクターが何かはわからなかった。



ちゃんと見ていれば、認識できていたかも知れない。



私の目が捉えていたのは、向こう岸の人の群れから頭一つ分飛び出ていた、忘れもしない顔だった。



サングラスをかけていて、記憶の中のそれとは髪型も色も違っているけれど、



間違える訳がない



3年も一緒に暮らしていた男を





叫んだ声は、クラクションとエンジン音に紛れて消えていた。



こちらを眺めていたその人が、踵を返して背を向けるのが見えた。




逃がさない




思う前に、身体が動いていた。



行き交う車の間をすり抜け、アスファルトの道を蹴り進む。背中のリュックが、重力に弄ばれて上下に踊る。



追いかけてくる視線と、人差し指をあとに、人波の中左右にぶれる一つ分飛び出た頭を追う。



スピードはこちらの方があるはずなのに、距離は縮まらない。



遠くから響くクラクションに、反射的に歩道側に身を寄せる。



路上駐車のミニバンが、目前に立ちふさがっていた。



リュックの肩紐を握りしめてアスファルトを蹴り、車のボディに脚をかけてその屋根に跳び乗る。



大した高さではないのに、とっくに耳から取れていたヘッドフォンのせいで、歓声が耳鳴りのように劈いた。そのざわめきに、ターゲットが一瞬だけ振り向く。




サングラスなんて、らしくない




軽自動車の狭い屋根から、その頭めがけて跳んだ。



引力など感じる間もなく着地した歩道に、その姿はない。



こちらを見て突っ立っている通行人の群れの隙間に、アルコットの角を曲がって走り去る影がちらつく。




叫ぶ前に、その後ろ姿を追った。












コンクリートジャングルとか、ふざけた呼び名だよな




考えた奴に聞いてやりたいよ。てめえは凶暴な肉食動物やら原住民やらしかいないジャングルに行ったことあんのかってさ




比べる間でもない。ここは確かに息苦しいが、生きるのに必要なモノ以上に、生きるのを楽しめるモノが溢れてる。




そいつに埋もれて呼吸困難になるのも、うまく使って人生謳歌すんのもてめえ次第だ。




なあ、ルナ




おまえはこの街で、どう生きる?















喉に、血の味が広がる。



なんて言ったら、あの人は、おまえは血を飲んだことなんてあるのかって、私を小馬鹿にするはず。



口元から漏れそうになった笑いを堪えて何度目かの踊り場を勢いをつけて跡にし、螺旋状に続く階段を一段飛ばしで蹴っていく。



東口の飲食店街に乱立する雑居ビルは、高くてもせいぜい10階建てがいいところ。楽勝、とは言えなくても、リュックの重さと走ってきた分を差し引いたって、階段で登り切るのに躊躇う高さではない。脚も、喉も、肺も、身体中の感覚が熱で鈍っている中、くだらないことを考えられるくらいには、冷静さを取り戻してはいた。どんなにヒートアップしても、頭が飛んでしまえば、そこで終わる。



頭上から降ってくる足音に耳を尖らせつつ、機関車のパドルみたいに、呼吸と脚のリズムを合わせる。錆び付いた鉄の匂いと、2つの靴音、それに日が沈みかけてオレンジ色が染まった視界だけが、感覚を支配していた。




走って走って、頭に何も浮かんで来なくなって、真っ白になればいい、と思うこともある。



五感を忘れるほど熱くなって、考えることすら忘れてしまったら、身体が命じるまま、脚が動くまま、どこまで走れるのだろう。体温と脈拍に反比例して温度の下がっていく思考が完全に冷温停止しても、この脚は、止まらないでいてくれるのだろうか。



感じるままに、たた楽しんでいた、あの頃みたいに。




ふと周りが明るくなり、鉄格子の隙間から差していた夕陽が、頭上から降り注いだ。



最上階の階段の終わりにあったのは、屋根がわりの踊り場ではなく鉄柵のような門だった。長い間閉ざされていたらしいことは、遠くからでも見える錆色でわかった。門の中央に辛うじてかかっている危険 と書かれた看板は、ところどころ文字が剥げていて意味をなしていない。



そのとれかけた看板のすぐ下に、南京錠のかかったチェーンが見えた。こちらも真っ茶色になっていたが、それなりの太さがある分頑丈そうだった。



行ける



最後の一段を思いきり踏みしめ、脚に鞭打って助走をつける。



飛びついた門はやはり錆び付いていて、ざらついた手触りが手のひらと指に染みた。腕を伸ばし門のてっぺんに指をかけ、掴む。一瞬の差でさっきの鎖を踏み台代わりに足先で蹴る。腕の力で身体を一気に引き上げ、板一枚分の足場に両足でよじ登り、そこから灰色のコンクリートの地面へと飛んだ。



じん と、脚に電流のような痛みが走る。思ったよりも高さがあったのと、背中のリュックのせいだ。



勘が鈍ったな なんて思う前に、駆け出していた。ロボットの顔みたいな室外機が吐き出す濁った風が、横からぶつかってくる。ぐしゃぐしゃに乱れた髪の隙間に、夕陽に浮かぶ影を見た。金網のフェンスの向こう、すすけたコンクリートの果てに、まっすぐ佇んでいる。



「ハルくん!」



張り上げた声に、影がゆっくりと動く。



こちらを振り向くことなく、無機質な絶壁に吸い込まれるように落ちて、消える。



戸惑いも、驚きも、迷いもなかった。



その果てに辿り着くまでに、何秒もかからなかったように思えた。



さっきの門よりずっと高い金網も、ねずみ返しのように反り返った頂上も、その先の数センチしかない足場に飛び降りるのにも、恐怖なんて少しも湧いてこなかった。



音を立てて風が唸る空に、身を乗りだす。遠い地上に、その姿はない。



細い路地を挟んで正面に建つ、こちらより少し低いビルの屋上を見据える。いない。



止まりそうな呼吸を意識して繰り返し、辺りに視線を張り巡らせる。



と、その下方の壁に、動く影が見えた。風に振り乱れる髪を抑えて、目を凝らす。



人が、正面のビルの壁を、ワイヤーのような、細いロープのようなものを手繰ってもぞもぞと登っている。自衛隊やレスキュー隊の人が、訓練でやっているようなあの登り方だ。そうでなければ、アクション映画俳優か。



どっちにしても、こちらに背を向けてひたすら上を見ているその男は、散々人を走らせておいて私から逃げようとしている、理解不能な大バカには変わらない。



途端に、石が転がるように、重い鼓動が身体を揺さぶり始めた。渇ききった肺と気管が、空気を求めて激しい呼吸を繰り出す。身体に篭っていた熱が、火を噴きそうなくらいに頭に昇る。代わりに、思考だけはすうっ と冷めていった。



隣のビルの屋上に到達した彼が、手すり代わりの柵の上に立って、こちらを見ていた。私も立ち上がって、じっと睨みつけてやる。



対峙していたのは数秒で、その影がひらりと柵の向う側に降りた。そのまま、広い屋上にぽつんと突き出ていた小屋のような建物の中に消える。声を張り上げて呼んでもよかったけれど、届く気がしなかった。散々無視されてきた怒りが、今更になって脹れてきた。



リュックの肩紐を締め直し、スニーカーの爪先を鳴らす。



飛べたら と思う。



羽も、魔法も、超能力もない私は、空に踏み出したところで、何も掴めず落ちるだけ。



遠くに映るアスファルトを見下ろす。



飛べなくたって、辿り着ける。



絶壁に見えるビルの壁にも、足場なんていくらでもある。



それまで立っていたコンクリートの縁を指だけで掴み、一瞬空に浮いたのち脚先に触れたパイプの留め具に体重を預ける。壁に沿って垂直に降りる配水管は、伝って降りていくには太さも強度も足りない。迷う前に、足元に僅かに見えていたひさしに向かって飛び降りた。



あっ と思った時にはいつも遅い。



スニーカーの先を掠めたひさしが、目の前を通り過ぎる。



咄嗟に伸ばした手の筋が、悲鳴をあげた。冷たい窓枠に引っかけた指に全体重とリュックの重みが集中し、痺れのような痛みが走る。足を動かしても、触れるものは何もない。鼻先にある薄汚れた窓ガラスに、おばけみたいな影がぼんやりと映っている。



喉を動かして渇いた口内を湿らせ、壁と身体の隙間から真下を覗く。さっきと同じ色が見える。足元に、ひさしがある。



指の力を抜き、壁を滑るように落下した。



みし っと、嫌な音がする。ざらついた壁に添うようにへばりつきながら、足から上へ順番に身体の向きを変えた。日が落ちて濃紺色に変わった空と、反対に明るく灯った街が、目の前に広がった。



息をつく暇もなかった。隣のビルの入り口から道路へ、猛スピードで走っていく男が見えた。こちらを見向きもしない。



一度は引っ込んだ、大声で叫びたい衝動が一気に戻って来た。考えも躊躇いもなく、私は跳んだ。



ひさしとひさしの間を飛び越え走り、電気のついた、壁に並んで取り付けられているテナントの看板のひとつに飛びつく。手足を使い看板と看板を伝って、一番下まで来たのと同時に、脚を離し再び指だけでぶら下がった。関節の痛みが来る前に、全身の力を抜いて宙に浮く。



程なく来たアスファルトの道路の感触を確かめる前に、夕闇に消えかけていた後ろ姿を追いかけた。




少しでも近づきたかった。



いつも、私のずっとずっと先にいて、止まって待ってくれることなんて絶対してくれなくて。



それでも、たまに振り向いて、わざとゆっくり歩調を緩めたりして。



意地が悪い。



追いつけないことなんて、知ってるくせに。




走ったまま、もう一度名前を呼んだ。



呼吸にかき消された声は、自分の耳にすら届かなかった。



それでも、止まりたくなかった。



拳を握り締めて、腕を振り、脚を上げる。



遠すぎて見えなくなっていた後ろ姿を、暗く伸びる道の果てにとらえた。



その影が、ふっ と視界から消える。



混乱しそうになった思考を叱りつけ、抑えた。



角を曲がっただけだ。消えたりしない。また建物に入って撒こうとしてるのかも。



どちらにしても、これで少しは近づける。



果てのない真っ直ぐな道で背中を眺めるのより、険しくても、少しでも近くへ行けるのであれば。




この角を、曲がれば




突っ込んだ路地の先に現れたのが、何なのかわからなかった。



脚を止めきれず、尻餅を通り越して背中から冷たいアスファルトに倒れた。



起き上がれない。



地べたに転がって完全に身体の動きが止まってしまい、それまで押し止めていたサインが、どっと舞い戻って来た。



肺が燃え出しそうなくらいに熱い。頭の中が疼くようにガンガン鳴っている。地面についた手に至っては力が入らず、脚も、肩も背中も、金属の塊になったみたいだった。



このまま大の字に寝転びたい。



そんな風に思って、全身脱力する寸前だった。



「大丈夫か」



上から声がして、首だけを動かす。



男の人だった。まさか、と思い疲れを忘れて飛び起きる。



「あ」



変な声が出てしまった。ルーチェの、マスターじゃない方の店員の彼が、ビールのケースを両手に立っていた。見回してみれば、確かに一昔前の煉瓦造りの壁と、見覚えのある階段があり、ルーチェの店先の横の路地だった。声をかけてくれたその人の髪は黒に戻って短くなっていて、おまけに髭もなくなっていたけれど、声と雰囲気ですぐにわかった。顔見知りでほっとした反面、落胆が混ざってよくわからない気分になる。



「ごめん、俺ぶつかった?」



呼吸が邪魔をしてうまく応えられなかった。あの、とかえっと、とか意味のない言葉を繰り返しながら、走ってきた男がいなかったかを訊ねた。



「背が高くて、茶髪で髪を一つに結んでて、グレーの服で。あ、サングラスもかけてて」



彼は首を振るだけだった。




無駄だった



また、置いていかれた




一気に疲れた気がした。



足がふらつく。頭がぐらついた。




ガシャン と大きな音がした。



地面に置かれたケースに目をやるのと、手首を掴まれるのが同時だった。声を出す間もなく、煉瓦造りの壁に沿った階段の裏に引っ張られ、半開きになっていた扉の中に引きこまれた。身体はおろか、思考もついていかないまま、手首を強く掴んでいる彼の手から伝わってくる脈だけが、リアルに感じられた。



彼は黙ったまま、ドア越しに外に注意している。



その目は、さっきまでとは別物だった。



鋭い、なんてものじゃない。



視線の先にあるものの息の根を止めるような、突き刺すような目だった。



ほんの数十秒だけ経ったかもしれないし、数分経っていたかもしれない。彼が悪い と言って手を離した時には、呼吸も動悸もすっかり収まって、どこからかの料理の暖かい匂いに気付けるほどになっていた。



「なんか、訳あり?」



お店の勝手口らしいその狭い入口には、段ボールや酒瓶のケースが積み重なっていて、水気でじめじめしていた。天井に一つだけぶら下がった裸電球がぼんやりと灯ってはいるけれど、あまり役に立っていない。奥の方にこれまた見覚えのあるパーティションの模様が見え、その隙間から明るい光が差し込んでいた。



「訳あり、って?」



意味は分かっていた。ドアの近くに置いてあった姿見に映った私の髪はぼさぼさで、おまけに白のパーカーはほこりやら煤やらで汚れ放題だった。何でもない、と言ったところで悪あがきにしかならない。



「いや、いい」



ふい とそっぽを向いた彼は、ドアから出て行った。その行動の意図がわからず、とりあえず鏡の前でぐしゃぐしゃだった髪を手で梳き、パーカーの汚れをはたく。手がうまく動かず、リュックを肩から降ろす。破れかけたサンダルが脱ぎ散らかしてあった三和土のところにリュックを置くと、硬くて、でも薄いプラスチックが割れたような、嫌な音がした。



「うわあ」



おそるおそる取り出して見たパソコンは、蓋の真ん中のロゴが綺麗にひび割れて真っ二つになっていた。中身だけでなくハードの方も限界だったところに、私の全体重とアスファルトの板挟みになったなれの果てだった。



蓋を持ち上げて開けると、パラパラ と割れた破片が落ちた。電源ボタンを押しても、やっぱり反応はない。今更丁寧に扱ってもどうしようもないのはわかっていた。それでもゆっくりと、これ以上壊れないように蓋を閉じた。



無惨に割れてしまったロゴを見て、もう何をしても無駄なように思えてくる。



どう足掻いても、本当は誰かの手のひらで遊ばれているだけで、何も変わらないような気がしてきてしょうがない。



ちくん と右の肘あたりに痛みが走った。七分丈の袖を捲ると、血が出ていた。空気に触れた擦り傷は、腕を浸食するように疼いていく。



傷口に触れば痛みが広がる。



そうしたら、いっそ




「ひでえな」



後ろから降ってきた声に、肘に伸ばしていた指を止めた。いつの間にか戻って来ていた彼が、しゃがみこんでいた私を通りすぎて、可哀想なパソコンを覗きこんでいる。



「ひどいよね」



言われなくてもわかっていた。捲っていた袖を直し、リュックにしまおうとパソコンを抱える。



「持って帰んの、それ」

「一応。新しいの買うまで」



もともと無理に詰め込んでいたリュックに押し込んでも、うまく入らなかった。もう帰りたくなくて、抵抗しているのかも知れない。機械にまで愛想を尽かされるなんて、笑えてすら来なくなる。



悪戦苦闘している私の目の前に、指の長い、大きな手が現れた。リュックの口を引っ張って、広げてくれている。中でぐちゃぐちゃになっていた箱入りの携帯電話やらペンケースやらを取り出し、一つずつ整理して入れていった。



「ありがとう」



再び満杯になったリュックを背負ってお礼を言う。前と同じように、彼は少しだけ目を細めて頷く。髪が短くなってよく見えるようになったせいか、その表情の微妙な変化がわかりやすくなったような気がした。



「血、ついてる」



彼が私の肘を指差す。さっきの傷の血が、パーカーの袖に滲んでいた。私が大丈夫、というより早く彼はお店とは逆の方の部屋に入っていって、消毒液と絆創膏を持ってきてくれた。



「腕、出して」

「大丈夫、自分で」

「いいから」



相変わらずの愛想のない言い方だった。初めて会った時といい、優しいのかなんなのかわからない。それでも、真剣に傷口を手当てしてくれる目を見ていると、悪い気はしなかった。



「掠り傷だって、処置が悪けりゃ跡に残るんだ」

「放っておいても治っちゃうのに」

「怪我なんてしないに越したことはないだろ」



彼が顔を上げて、目があった。綺麗な黒い瞳だった。少し、羨ましく思った。



その目は、真っ直ぐ私の目を見たままだった。



どきん と、心臓が跳ねる。



嫌な予感がした。



「ねえ」



言いかけたのと、みし っと何かが軋む音が被さった。



二人同時に、音の方向に目を向ける。



口許には笑みを携えたマスターが、血走りそうなくらいに見開いた目で、こちらにずかずかと向かってきた。



「晃斗お…」



不協和音のような何かが鳴っていると思ったら、マスターの唸り声だった。



「んの野郎、てめえって奴ァ!!」

「なんだよ!!いてっ、離せ!!」

「仕事中に女とよろしくやるとはいい度胸じゃねえか!!しかもよりによってルナちゃんに手出しやがって、このケダモノが!!」



はぁ!?と私と彼の、晃斗さんの声が重なった。胸ぐらを掴まれた晃斗さんはマスターの頭を押し返し、噛みつかんばかりに吠える。



「バカ言ってんじゃねえよエロ親父が!!どういう目してたらそういう風に見えんだよ」

「鼻の下伸ばしながら女に手出してる奴に言われたかねえな」

「伸ばしてねえよ!!手も出してねえ!!やべえのは目じゃなくて頭みてえだな」



晃斗さんが最後まで言う前に、堪えられず吹き出してしまった。何がツボに入ったのかは、自分でもわからなかった。ただ、肺が取り戻した酸素を使い果たして、また喋れなくなるくらいには笑った。




声を上げて笑うのは久しぶりだったことに、捩れそうなお腹を抱えながら気づいた。




next



どうも、楪美です。ご覧いただいてありがとうございます!



今回は描写が多かったように思います。街しかり、走りしかり、アクション(?)しかり。

不動物を書くのもですが、動くものをかくのはもっと難しいですね…


ルナちゃんがハリウッドスター並みに走って跳んで登って落ちてまた走るのは、決してハリウッドスターのようなヒロインだからではなく、ちゃんと小さい頃からそれなりの経験を積み重ねてのものです。もちろん、超人ではないので蜘蛛の糸を自由に操ったり、落下しても不死身ってことはありません。運動神経と度胸と、あえて言えばセンスのあるフツーの女の子です。そのへんも先々きちんと書く予定ですので、お待ちいただければ嬉しいでございます。



謎の人物「ハル」はちょいと特殊なヤツですが彼も超人とかサイボーグとかではなくれっきとした人間です。いや、訳アリですが、フツーです。



そして晃斗君。彼の詳細についてももう少々お待ちを^^




さて次回は、ハッカーVS仕事人。アブナイ奴らの腹の探り合い。



ありがとうございました!!


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