3,Cross
Eclipse1-③ cross
窓のない場所は、苦手だった。
どんなに広くて、どんなに明るくても、逃れられない窮屈さと圧迫感をおぼえずにはいられない。
そこに大人数が集まっていれば尚更、すぐにでも部屋を飛び出して行きたくなるような衝動に駆られることすらある。
子供の頃は、地下道を通ることすら大きなストレスだった。今でこそ嫌だと思うことはほとんどなくなったが、ちょっとした迷宮となっている都会の地下街や地下鉄の通路などには、できるならば足を踏み入れずに済ませたい。
早い話が、今こうして地下4階の無駄に広い会議室で、無駄に威圧感を醸し出す中高年の方々に囲まれていることは、俺の人生において最も苦痛であり、また退屈な時間だという訳だ。
「では一連の事件の概要については、“ストラーダ“社代表の黒羽氏から」
定められた段取りに従って、会議は滞りなく進んでいる。
「今回レオンのコンピュータに感染し、わずか14分の間に全社員の20%のパソコンに拡散されたウイルスは、サーバーそのものを乗っとり個人情報及び顧客データを流出させるルートクラックタイプのものと判明しました。感染源は米国本社の情報管理システム部。こちらより一斉送信されたEメールを受信し、開封した社員のサーバーが同じようにウイルスによって外部からの操作が可能になってしまったと見られています」
バイトの女の子が事前に作成してくれた書類を読み上げるという単純な作業が、本日の会議での俺の役目である。
「そもそも情報管理システム部にウイルスが感染していた原因は現在調査中とのことですが、サイバー攻撃集団の仕業と見るには、厳重なセキュリティの突破が必要となるため、可能性が低い。したがってあくまで推測の域ですが、システム部内部に何かしらの問題が存在していたかと思われます」
予想どおりのタイミングで、会議室内がどよめく。
「何かしらの問題とは?」
「セキュリティが作動していなかったということか」
「すでにウイルス源が内部に存在しているのでは」
「何者かが手引きしている可能性は」
「内部の人間による犯行だということも考えられる」
好き勝手に騒ぎだ出したお偉方の口を閉ざさせるのは、30秒後。
説明を再開し、改めて質問を受け付けるのに、1分半。
その後は約1時間半、今後のセキュリティ対策の方針と、具体的な制度、予算等について議論を重ねる。役員会議という名のその討議に参加する権利は、俺には与えられていない。本来ならさっさと帰社するところなのだが、オブザーバーとして後程意見を聞かせて欲しいとかで、引き留められる羽目になっていた。
筋書きをなぞる行為に意味があるのかと問われれば、イエスと断言することはできない。俺でなくても、この程度の説明と調査をこなせる者はごまんといる。
それでもここにいる理由は、自分にもよくわからない。
「ご意見、ご質問はあとで伺います。今しばらくご清聴を」
ご清聴していただがなくても話を続けることはできたが、意外にも口々に喋っていたお偉方は間を開けず静かになった。すぐにでもこの暗い場所から飛び出したくなる衝動を飼い慣らしながら、原稿の音読を続ける。口を動かし声を発しながらも、目線は原稿からはずすことはしなかった。この後に及んで、いい大人たちが無遠慮に大あくびをしたり、眼鏡の汚れを懸命に落とそうとしているところを見るのは御免だった。
「内部の問題というのはセキュリティシステム自体の欠陥、及び人為的な手段のどちらかであり、後者の場合は第三者のみならずシステム部関係者による複数犯の可能性が高い。つまり、仮に内部に接触あるいは侵入した人物が存在する場合、その規模が数人単位ではすまない大きなグループがバックにいるということになります」
今度は誰も口を開かなかった。質問もあがらなかったため、俺の役目は本当に原稿を読むだけで終わりとなった。仕事を終えた俺の脳に、途端に石のように重い疲労感がのしかかってきた。短時間だろうが、息苦しい空間と環境に缶詰にされれば、こうして身体にサインは生じてくる。
役員の面々が並ぶ円卓から少し離れた場所にあった椅子に腰掛けると、誰かの秘書らしい若い男に会議の資料らしき書類を手渡される。見てもいいのかと尋ねる前に、その男は円卓の上座にいる会長の傍らに戻っていた。クリップを軸にめくりながら目を通すと、今後の対策に関する新しいセキュリティソフトの導入や人員の確保、それらに必要な資金面での問題について細かく書かれている。
最後のページまでいったところで、手書きの文章が残されているのに気づいた。目立たないように、紙の隅の方に走り書きされたそのメッセージに、思わず声をあげそうになる。
メッセージの主の方に視線をやると、俺の方を見ていた彼は僅かに顎を引いた。
不規則に波打つ鼓動を感じながら資料の束を椅子の上に放り、駆け足で会議場を飛び出した。スラックスのポケットから手探りで携帯電話をとりだし、ツープッシュで電話をかける。すでにあがり始めていた呼吸を抑えることもせず、俺は電話口に出た社員に告げた。
「“sun“だ。奴に関する情報が入った」
タクシーはエントランス付近ですぐに捕まったが、程なくして渋滞にも捕まってしまった。
第一京浜を上り桜田通りに出るところまではよかったが、それから先の外苑東通りに入ってからは少し進んでは止まり、の繰り返しだ。電車に乗換える選択肢もあったが、いつ連絡が入るかわからない以上、車での移動の方が無難だった。何度目かわからない赤信号にうんざりしながら、逸るばかりの気持ちを落ち着けるべく、窓の外に目をやった。
こういう時に煙草を頼りたくなるあたり、成長してないなと思う。
持ち歩くのをやめてから本数も頻度も大幅に減ったが、完全に禁煙しているわけではない。こうして無償に苛立ったり急いている時には、あの口苦さと引き換えに脳に流れ込んでくる毒薬がひどく恋しくなる。完全に断ち切るには、時間も、けじめも足りていない。結局自分自身以外の動機がないと、いとも簡単にぶれてしまうのだ。自らをコントロールできない脆弱さはさらに苛立ちを募らせ、溜りに溜まったころになってはじめて解放してやることしかできなかった。
「お兄さん、これは新宿まで結構時間かかるよ。高速乗っちゃっていいなら行くけど」
シート越しに話しかけてきた運転手の中年女性は、モノクロ映画に出て来る飲み屋の女将のような口調だった。座席の間から見えるカーナビには、現在地を示す記号が六本木ヒルズ付近で点滅している。フロントガラスの向うに見える電光掲示板には、「事故のため渋滞」の文字と一緒に主要地点までの所要時間と距離が並んでいた。以上の情報の中で最も信頼できるものを頭の中で計算したうえで、俺はこのまま高速には乗らずに行ってほしいと伝えた。一般道での渋滞回避のために高速利用者が増えるであろうことは目に見えたし、ここで降車して電車を使っても、徒歩での移動時間を合わせて考えると、じたばたせず車の動きを待った方が無難であることは想像ができた。
「次抜けられそうだったら、裏道入っちゃうね。メーターは上がるけど、少しは早く着けるから。多分」
落ち着かない俺を見かねて気を遣ったのか、運転手の彼女が提案してくれた。
「どうも。お願いします」
「急いでるのはわかるけど、せっかくのイケメンがそんな眉間にしわ寄せてちゃダメよ」
「寄ってました?」
「様になってたけどね。あーあ、いい男はどういう顔してても得だわね」
シートをはさんでいても、彼女にはバックミラーで俺の顔が見えるらしい。窓の外に目を向けながら、俺も中身のない会話に乗る。
「いい男って、どういう顔してても魅力的に見える人のことなんじゃないですか」
「あら、面白いこと言うね。顔より中身ってこと?」
「容姿なんて、金と覚悟さえあればいくらでもいじれるし。でも性格っていうか、その人自身の格好よさとか渋さとかって、その人の生き方によって決まるものじゃないですか」
「生き様ってやつね」
「そういう意味では、俺はいい男になんて程遠いですよ」
「自分がイケメンなのは否定しないの?」
アハハ と冗談交じりに言った彼女、正確には鏡の中の彼女の顔に、俺は満面の笑みを作って言った。
「自分の容姿否定して、いいことなんてないでしょう。せっかく親からもらったんだから」
「一度でいいから言ってみたいわー、そんな台詞」
「自分が肯定できなきゃ、いくら自分以外にもてはやされても価値なんて見いだせない」
狭い車内の空気が、凍りついたように冷たくなる。それまで陽気に喋っていた運転手の彼女も、急に押し黙った。何秒かの沈黙のあとに、こらえられなくなり俺は口を開いた。
「クサいでしょ。他人の受け売りなんですけど」
「何だ、本気でそういうこと言う系の人かと思っちゃった」
そう言った彼女の笑い声が先刻より乾いていたのは、気のせいではなかったはずだ。苛立ちの代わりに、得体のしれないもやつきが、突如胸の内に広まった。ろくに頭を使いもせず口を吐いたままをぺらぺらと喋っていたことへの後悔が、少しずつ大きくなって押し寄せてくる。
「いるんですよ。今どき本気でそういうこと言う系の人が」
「ふーん。誰?そういう粋なこと言うの」
続きを口にする前に、ポケットの中で携帯電話が振動した。
取り出して見たディスプレイに表示された名前に、不穏な予感がよぎる。
二つほど呼吸を置き、通話ボタンを押した。
「…ヒロくん」
聞き慣れた声の、懐かしい呼び名だった。
予感が、その大きさを増す。
「うん、どうしたの」
不安を悟られないように、落ち着かせた声を聴かせる。
「仕事中だよね、ごめんね」
「ううん。今は移動中」
「電車?」
「いや、車だよ。タクシー。だから話してて大丈夫」
本当?と聞き返してくる彼女の声は、ついこの前聞いた時とは全然違う、躊躇いと迷いに満ちた弱々しいものだった。本当だよ と返した俺に、あのね と彼女が切り出したのは、長い沈黙のあとだった。
「信じてもらえないと思うけど」
「うん」
「私の間違いかもしれないんだけど」
「うん」
「ハルくんが、いたの」
次に発した言葉が、彼女に聞こえたかどうかわからない。少なくとも、自分の耳には届かなかった。
「どこで、見た?」
もう一度言ってみると、わかんない、と返事が返ってくる。
「どこかわからないの?」
「ううん、そうじゃなくて、あれが本当にハルくんだったのかがわからないんだ。見たのは表参道を下って、青山一丁目の駅のすぐ近く。人混みの中に頭一つ出ていて、私と目があったらすぐ方向変えちゃって、呼んでも返事してくれなかったから追いかけたんだけど、すぐいなくなっちゃって」
「青山通りと表参道の交差点のあたりか」
通話を続けながら、カーナビと腕時計を交互に確認する。大通りから逸れて渋滞を抜けた車は、西麻布を抜けちょうど青山方面に差し掛かろうとしている。
「今もそこにいる?」
「ううん、今はもう家に向かってる途中」
「そう。俺も今会社に向かってるんだ。これから夕立ちくるみたいだから、早めに帰った方がいいよ」
わかった、と呟いた彼女はなかなか電話を切ろうとしなかった。しばらくの無言ののち、もしもし と問いかけると、再びあのね と応えが返ってくる。
「なに?」
「やっぱりいいや。次会った時に言うね」
「今じゃ嫌なんだ?」
「嫌じゃなくて、駄目なの」
「ならしょうがないね」
「今度はいつ会えるかな」
柄にもない彼女の言葉に、胸中に渦巻いていた嫌な予感は確信へと変わっていく。
「いつでもいいよ。君の都合のいい時に」
「今日は優しいね。電話もとってくれたし」
「もっと頼っていいんだよ。できる限りは助けるから」
「ありがとう、もう大丈夫」
幾分晴れやかさが戻った彼女のまたね との声と電話が切れた音を聞き届け、こちらも携帯電話を閉じた。もう一方のポケットから取り出したもう一つの携帯電話を手探りで操作しながら、俺はバックミラーに映る運転手に降ります と伝えた。
平日の昼下がりであっても賑やかな青山通りも、裏道へ一歩入れば小さなショップだけが並ぶ落ち着いた色を見せる。さらにもう一本入れば、そこはもう閑静な住宅街だ。時折散歩をしているご年配やショッピングバックと携帯電話に手をふさがれて入る若者が通る程度で、人通りもざわめきもかなり少ない。墓地が近いこともあるのだろう。活気と落ち着きが隣り合わせるこの街は、紛れもなく東京という地が持ついくつもの顔の一つだ。
使い始めた頃は両手で一つ一つつぶさにタッチしていたスマートフォンも、今では指一本で難なく使いこなせるようになった。半年という時間で訪れた変化は、確実に、目に見えてくるほどにじわじわと押し寄せてくる。
春の雪が降ったあの日も、始まりは予感とすらいえないような小さな違和感だった。
胸騒ぎと言われるような、身体の奥で何かが疼くような違和感を覚えることは昔からあった。それを押し込めて気丈に振る舞うことは簡単だったし、生活を送っていくには当たり前だとすら思っていた。
失くして、やっと気付いた。
無視していいものなんて、存在しなかったと
重くても、苦しくても、這いつくばってでも、手に取っていくべきだったと
そうやって、傍にあるものを守っていくしか、今の俺にはできない。
今や重圧感すら携えるようになった後悔と焦燥、そして高揚だけが、脚を動かしていた。
替えの利く仕事を押し付けられ、光の届かない場所に閉じ込められ、自由を奪われ退屈に溶けそうになっても、それでも辛抱し続ける意味がもし必要だとするなら。
鼻の先に冷たいものを感じ、我に返って辺りを見回した。
街は灰色がかっており、低くなった空からは大粒の雨が次々と落ちてくる。
画面の中の地図をお供にしていたつもりが、意識しない間に見知った通りと建物のもとへと来ていた。
普段なら日が落ちてからでないと来ることのないそのマンションは、オレンジ色のライトに照らされていない分どこか無機質に見えていた。夕立ちに濡れていくガラス張りのエレベーターが、最上階からゆっくりと下ってくる。やがて、人影を乗せたそれはまたゆっくりと昇っていき、一番上へ届く少し前で止まった。再び籠が動き出すのを見届ける前に、俺は雨をかぶったままその場を跡にした。
とっとと帰って一人で晩酌でもしようと思う日に限って飲みに駈りだされるのは、ビジネスマンの運命だ。
呼び出された赤坂の料亭は料理も酒も文句はないが、日本料理の店は総じて畳張りであるように広い座敷が自慢の店であり、正座が苦手な身には辛いものでもあった。これが新宿の居酒屋だったら堀炬燵のような気の利いたサービスも期待できたが、相手が会社の上役、しかも会長である以上、到底叶うことのない願望だ。
「随分と走り回ったようだな」
猪口を片手にした会長が、おもむろに話し始める。
「おまえが途中退出したおかげで会議は切り上げになった。日程を再調整とあったが、事実上の中止だな」
「自分がいなくても進んだのでは」
「今回の会議の目的は危機感の共有だった。おまえの説明で九割方は達成されていたよ。役員陣も各々言いたい放題ではあったが、結論としてセキュリティ対策用予算の大幅増という方向性は示せた。あとは各社各事業部の状況に合わせて動いてもらう。本社を含めていくつかの支社には、私が直接出向いて話をするつもりだ」
「フィナンシャル部には頭痛のタネですね」
すでに足の裏の血脈は、炭酸水が流れるような感覚に支配されていた。目の前の初老男性は、微塵も脚を崩す動作を見せない。
「レオンの下げ株、減益を見込んでも厳しいだろうな。国内企業がこぞって増益に向かって動き出すはずだ」
「そんな中に市場開発よりもセキュリティに金をかけてはいられないっていうのが役員会の本音でしょうね」
そこまで言って、口へ運ぶタイミングを逃していた帆立の刺身にようやくありつけた。程よい歯応えがいい。脚先の感覚は、最早使い物にならないくらいに薄れてきていた。
「正直、賛成の方向に行くとは予想していなかった。一子会社の若造の、形式的な説明で納得してもらえるとは思えませんでしたから。予算や事業バランス以前の問題以前に、セキュリティ問題への危機感がなさすぎて」
「おまえの仕事がうまくいっている証拠だ。グループ全体の情報管理を任せるには、本社内ですら人材も金も不足している。こうして出資、持ち株という形で外部から見てもらった方が、リスクもコストも低くて済む。システム自体の開発ではなく、実際のオペレーションなら尚更な」
「ええ。おかげでいい隠れ蓑になってますよ」
隠れ蓑、という表現に、正面の祖父はふ と口元を緩めた。
「で、蓑の内側の本業の方は」
「青山近辺での目撃、及び財布機能付き携帯の利用状況は本物でした。通り沿いのコンビニエンスストアで煙草を購入。その際に使用した携帯電話による電子マネー支払い履歴、本人の容姿および購入した煙草の銘柄を防犯カメラの映像から解析した結果すべてを見たうえで、ほぼ奴に間違いないです」
そうかと 呟いた彼は、徳利から酒をつぎ、一息に飲み干す。
「もう半年になるのか」
「ええ」
「昔から考えの読めん奴だったが、今回はどうも勝手が違う」
「わかるんですか」
「わかるとは?」
「感じるんですよ。俺たちの間には壁みたいな、どうしても破れない何かがあって、だけどその一枚が隔てているだけで、誰よりも近い存在だ。その壁がどのくらいの厚さで、何枚あるかって違いがあるだけで、そういう意味では貴方もあいつに近いところにいる。予感とか、虫の知らせとかっていうのはそういうものなんじゃないかと」
「私の思い過ごしを期待していたのだが、そうもいかないようだ」
「それをはっきりさせるためにも、全力で奴を追います」
「グラン・ホテルのカジノの件といいレオンのサイバー攻撃といい、偶然とは考えにくい。目に見える影響が出てくる前に、なんとしても断ち切りたいところだな。おまえにも、もしかしたら征政にも苦労を強いることになるかも知れんが」
「明るみに出るまでに食い止める。それが俺の仕事ですから」
言うようになったな と、祖父さんは俺に酌をした。
脚の痺れは、いつの間にか消えていた。
「帰る気は、ないのか」
昼間とは打って変わり遠くまでライトに灯された通りを眺める中、後部座席からの声で沈みかけた意識を取り戻す。
「それは、どちらのことですか」
「どちらとは」
「自分か、それともあの娘のことか、ってことです」
アルコールの勢いもあった。応えがないのをいいことに、俺はさらに訊ねる。
「あいつの目撃情報は、どこからキャッチしたんですか」
直球の問いかけに、バックミラーの中の祖父は目を伏せた。昼間からくすぶっていた予感が、確信に変わった。
「会長自らも奴の捜索のために動いていただいているのは承知しています。ただ今回会議中に頂いた情報は、直接奴の動きを追っているウチの連中よりも早かった。あの時は思い至りませんでしたが、考えてみれば不自然だ。奴の痕跡が、なぜ貴方の耳にいち早く入ったのか」
無言のままの祖父に、俺は前を見たまま畳みかけた。
「張ってるんですね。彼女を」
「何故そう思う」
「彼女自身が連絡してきたんです。あいつを見たって」
前にも一度、彼女が昔の呼び名で俺に電話をかけてきたことがあった。
震えそうな声を懸命に押し殺し、一言だけ伝えて、その電話は切れた。
駆けつけて目にした、遠くを見つめた人形のようだったその姿を、今でも覚えている。
やっと笑うようになってくれたあの娘を、これ以上傷つけるわけにはいかない
「心配ですか、あの娘が」
バックミラーから目をそらし、俺はまた訊ねた。車が道を滑る音だけが、延々と、しかし静かに響く。
「一度、会ってみては。あいつについて、彼女だけが知っていることもあるはずです」
「その必要はない」
はねつけるような一言が、すべてを語っていた。その頑なな有り様に、それ以上俺に言えることはなかった。
西新宿のヒルトンホテルに宿泊するという会長と別れるべく、車は中央公園前の交差点に停まった。送らせるという申し出を、歩きたい気分だからと俺は断った。これ以上、息苦しい車内での無言状態は御免だった。
「彼女の見張りの件ですが」
車から降りた別れ際、窓の中の祖父に声をかける。
「俺に任せてくれませんか。いい心当たりがある」
俺の提案に、祖父は表情を崩さず、視線だけでこちらを見る。
「対象者が駅のホーム階段から突き落とされそうになっても動けないような人材より、余程使えると思いますが」
無表情だったその眉間が、微かに動いた。俺は特上の笑みを作って、追い打ちをかける。
「会長は、社の業務の方に専念なさってください。こちらの件は、自分個人でも動いてみます。進展については定期的に連絡を入れますので」
「征景」
久々に聞いた名を発したその声には、威力とも言えるような重さがあった。はい と応えた自分の声がすくんでいたのは、気のせいではなかったはずだ。
「あまり深追いするな」
返事はせず、会釈だけを返した。
煌びやかな灯りの影に吸い込まれていった車を見送ってから、青信号の点滅していた横断歩道を小走りで駆け抜けた。
駅前に向かうにつれて明るみを増していく通りを歩きつつ、携帯電話を取り出し時刻を確認する。そのまま電話帳を呼び出し、長いことかけていなかったその番号を選択した。出ないかと予想した相手は、ワンコールしないうちに電話をとってくれた。数回やり取りしただけで、会話はすぐに終わった。
醒めたはずの酔いがまたひどくなることを覚悟し、東に向けて俺は歩みを進めた。
next
どうも、楪美です。
4月から会社勤めが決まり、研修やらなんやらに追い込まれてる空き時間にちみりちみりと書いてきたのがこのお話です。
ビジネスマンというか、働く人ってすごいなあと思います。
バリバリ働いてる人だって、きっと心の中ではぐちゃぐちゃとかもやもやとかいっぱいあると思うんです。
ただそれを表には出さないで、うまーく付き合っていく。
それができる人を大人って呼ぶのかなあ、なんて。
自分には無理です、ハイ。
ユキさんが代表やってる会社はいわゆるIT系で、「ストラーダ」はイタリア語で道って意味です。響きで決めました。
ようやくほんの、ほんのちょびっと物語を動かせた気がします。
ユキさんが追ってる「sun」と、次々に問題が発覚していく大手会社の面々。
こいつらがクロスしていくことで、加速されいく。といいな。
次はルナちゃんの話です。少しは書きやすくなることを祈って。ユキさんめんどくさいよアナタ。
読んでいただきありがとうございました!!