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Eclipse  作者: 楪美
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2,Gear

Eclipse1-②






かたん とドアが閉まった音と同時に、姿勢よく座っていた椅子が軋むほど深く、背もたれに沈みこんだ。長時間溜まっていた倦怠感と言葉とならなかったもやつきが、溜め息となって出ていく。いつもは気分が落ち着くはずのアロマオイルの香りが、今日は妙に甘ったるく、鼻についた。



携帯電話のサブディスプレイを見ると、もう18時を過ぎていた。重い身体を立たせ、白衣を脱いで帰り支度をする。



今日も一日が終わった。



風邪にやられてから3日目、未だに頭が重く喉の痛みがひどい。薬を飲んだせいで眠気が消えないこともあり、一日中調子が悪かった。けれど、この浮かない気分は風邪のせいではなかった。



「蓮見先生」



相談室を出たところで、受付の女の子に呼び止められた。来月の勤務表ができたと言って、手渡してくれる。普段通り平日水曜以外の週四日出勤の私のシフトに変わりはなかったが、ふと、受付の彼女の名前が載っていないことに気づいた。



「結婚するんです」



営業用ではない心からの笑みで、彼女は教えてくれた。彼の希望で仕事を辞めて専業主婦をしつつ、勉強を続けるという。



「臨床心理は学び続けたいんです。資格がなくても、カウンセラーは目指せますし」



すぐ目の前の幸せと希望に満ち溢れた彼女の瞳がきらきらしているように見えたのは、照明の加減のせいではなかったはずだ。



おめでとう、幸せになってね。そんなありきたりのお祝いしか言えなかった私に、彼女はありがとうございますと、さっきと同じ可愛らしい笑顔で応えてくれた。



ガラス張りの出入り口を出ようした時、もう一度呼び止められた。彼女が別れ際にくれた言葉たちは、ただでさえ重かった心にさらなる錘となってのしかかった。














地下鉄外苑前の駅に続く階段を横目に、青山通りを渋谷方面に下っていく。大小のオフィスやブティック、インテリアショップが並ぶこのエリアは時間帯を問わず常に賑わっており、朝夕の通勤ラッシュ時は人も車も大層な列をなして群がる。流れていく人波に歩調を合わせるのは癪だが、窮屈な地下鉄を使うよりはましだった。たとえ数分の間でも、呼吸すらまともにできない狭苦しい空間に閉じ込められたまま揺られるなど、考えるだけで目が回りそうになる。



職場の行き帰りに周囲の景色を見ながら歩かなくなったのは、随分前からだ。徒歩30分弱の道程など、ちょっと考え事をしていれば声を出す間もない。携帯を見なくても、音楽なんて聴かなくても、無心に脚を動かしていれば、景色も人も勝手に過ぎていく。



反対に、頭に何も浮かばなかったり、あるいはひどく重い思考に支配されていたりする日は、その道は長くて退屈な、目的地までの距離に過ぎない。



いつもなら気にすら留めない交差点の信号待ちが、やけに長い。武器になりそうなヒールでロボットみたいに歩いている女たちに、いとも容易く追い付かれ、追い越せない。ふくらはぎと肩、それに背中の筋が伸びきってしまっており、鈍い痛みと重みで今にもアスファルトの地面に沈みこんでしまいそうだった。



表参道との交差点の手前の角を曲がったところで、ようやく人の流れから抜けて閑静な通りに入った。世に言う高級マンションが多く並ぶこの一帯は、耳をすませば246号線の賑わいが届いてくる他は、車の往来もほとんどない。時たま見かける高そうな車も、落ち着いた色合いに塗られた建物もみんな同じように見えてしまうのは、私の知識とセンスが乏しいだけなのだろう。そんな都会の森の一角で私を待っている無駄に広い部屋が、今日は異様なほど恋しかった。



「お帰りなさいませ」



どんなに色っぽい視線を送っても、たとえスキップして通りすぎても、逆に黙れと罵声を浴びせても、いつも同じように機械的に、でも爽やかに挨拶をくれるであろうコンシェルジュの青年は、絶不調な私と目が合っても、やはりいつもと同じように挨拶をくれた。声を出す気力もなかったので、無言のまま頷くだけで返す。彼が顔を上げる前に、扉が閉まりかけていたエレベーターを正面にとらえ、一目散に駆け込んだ。






視界が、揺れている。



違う、揺れているのは自分だ。



重力に逆らい押し上げられる足元に、身体の中がついていかない。



違和感は目眩に変わり、空腹感に似た吐き気が催してくる。




倒れる




予兆もなくふらついた瞬間、エレベーターがゆっくりと動きを止め、ピンポン と陽気な音とともに扉が開いた。ぐらつく頭を抱えながら、乗り心地最悪な揺りかごから脱出した。










次に目を開けた時に映ったのは、間接照明に照らし出されたリビングの床だった。カーテンが開け放された窓には、建物の影とところどころに灯る明かりが浮かんでいる。裸足の爪先が、ひりひりと痛むように冷たかった。



あくびをして頭を覚ましてから、うつ伏せにダイブしていたこのソファにどうやって辿り着いたのか記憶がないことに気づいた。咄嗟に部屋を見回し、足元にハンドバックがあることを確認する。気が抜けたのと同時に身体の力も抜けてしまい、今度は仰向けに、ソファに身を預けた。最早指先すら動かすのが億劫だった。



名残惜しかった冷たい布地が熱でぬるまってしまうと、今度はじっとしているのが苦痛になってきた。体を横転させてフローリングの床に着地しようとしたがうまくいかず、肘をしこたまぶつけてしまった。



痛みはたいしたことないのに、勝手に涙が出てきた。




泣くのは好きじゃない。




カウンセリングにくるビジターには、悲しかったら泣いて、ムカついたら怒って、おかしかったら笑えばいいと、よく言っている。感情を表すことは、欝屈とした精神状態を解放する効果がある、という学術的かつ一般的な見解を、私は教えるようにしていた。たとえ、自分が微塵もその効能を信じていなくても。




感情のままに振る舞うことは思うほど簡単ではないし、何より余分なエネルギーを使う。笑うだけバカ笑いして、クッションが破けるほどに怒りをぶつけて、ティッシュ一箱が空になるくらいに泣きじゃくっても、すっきりすることなんてない。全部を吐きだしても残るのは空っぽな淋しさだけで、楽になんてなれない。一人で茶番を演じて何も残らないくらいなら、どんなに苦しくても、手放さず溜め込んでいる方がましだった。




ソファに頭を乗せたまま、天井を眺めてしばらく過ごした。遠くの方で、何やら甲高い音が間延びしている。耳鳴りかと思ったが、やがて玄関のチャイムの音だと気付き、足を引き摺りながら無駄に長い道のりを進む。インターホンを通りすぎて、直接玄関に向かいドアを開いた。



「あら、どうしたの」

「馨さんこそどうしたの。凄い音したからびっくりしたよ」



これぽっちもびっくりなんてしてなさそうな笑みを称えた隣人が、当たり前のようにするり と入ってきた。



「今日は仕事なんじゃなかったの」

「思ったより早く終わったんだ。それで寝ようと思ったら、いきなりバタン って聞こえたから、一応来てみたんだ」

「ソファから落ちただけよ」

「寝てたの?」

「半分。今はもう目さめたけど」



そっか、と呟き、彼はさっきまで私が突っ伏していたソファに座り込んだ。スリッパも靴下も履かず、裸足のままだ。その私よりも細っこいその脚を抱えて、体育座りをしている。毎度のことながらそれはひどくアンバランスで、寛いでいるようには見えなかった。



「ご飯は食べたの」

「馨さんは」

「食欲ないからいらない」

「じゃあ僕もいらない」

「ダメ、育ち盛りなんだから」

「成長期なんてとっくに過ぎてるよ」

「わかんないじゃない、そんなの」

「自分の身長がこれ以上伸びないのくらいわかるよ」



私は彼の年齢も生年月日も知らないが、彼の食が常人より異様に細く、また普段食べ物を家に置いていないことも知っていた。そして、こうして私のところに来るときは、少なくとも食事が一つの目的であることもちゃんと知っていた。



作り置きのリゾットがあったので、一人分と少しをレンジで温めて、冷蔵庫の奥にあったオレンジと一緒に出した。切り分けたオレンジは熟れ過ぎて種に栄養をとられ、果肉がかさついていた。



「ピーク過ぎたわね」

「そうかなあ」



リゾットに入っている海老を器用に除きながら、彼は首を傾げる。



「僕はこのくらいでも好きだな。食べやすいし、香りが強くなるし」

「ふうん」

「というかオレンジ自体が好きだから、青くても腐りかけててもなんでもいいんだよね」

「愛情ね、もはや」

「何かが好きって、そういうことでしょ?」



色気すら感じられる笑みを向けて、彼は言った。



「例え人体に有害だって発見があっても、僕はオレンジを食べるのをやめないと思うよ」

「こんなに想われれば、オレンジも幸せね」

「むしろ迷惑に思ってたりしてね」

「そう?本当に自分を想ってくれる人がいるって、結構嬉しいと思うんだけど」

「なのかな」

「多分ね」



彼が残した海老と、オレンジを二切れだけお腹に入れた。半日ぶりの固形物の食事は、収縮していた胃をすぐに満たしてくれた。食後にコーヒーを飲む気にはなれず、温めたミルクを二人分作った。



「シンちゃん、蜂蜜は大丈夫だっけ」

「うん。甘いものは好きだよ」



少し泡立ったホットミルクに、蜂蜜を一匙分沈ませ、かき混ぜる。黄金色になったミルクにシナモンをふりかけ、ソファで体育座りをしている彼に渡した。



「面白い組み合わせだね」



受け取ったマグカップを鼻先に近づけてから一口飲み、シンちゃんは言った。



「味も面白いね。甘くないのに、柔らかい感じ」

「砂糖を使ってない分、香りが味を出してるの。なんでも甘ければいいってもんじゃないでしょう?」

「It's just like a life」



彼の英語を聞くのは久しぶりだった。ネイティブ顔負けの発音は健在らしい。



「あれ、日本にこういう格言なかったっけ」

「どうだったかしら」

「まあいいや。あとで調べてみよう」

「おかわりいる?」



ううん、と首を振り、彼はごろん とソファに横になった。さっきまで私が枕にしていたクッションを、膝の代わりに抱えている。



「眠いなら家で寝て頂戴」

「眠くはないよ」

「私、さっきまでそこで横になってたのよ。風邪移っても知らないから」

「まだ治ってないの?」

「大分よくはなったわ」



言った拍子に、気管がつまって咳が止まらなくなった。半身を折って咳き込む私の背中を、シンちゃんの手がさする。また勝手に涙が出てきた。



「馨さん」



大丈夫、の一言が返せず、そのまま膝をつく。



苦しい?痛い?と繰り返す彼の問いかけに首を振り続けながら、酸素を取り戻そうと大き呼吸を繰り返す。水を奪われてもがく魚の姿が、脳裏に走った。



「飲むもの持ってくるから待っ…」

「かっこ、悪いね…わた、し」



その場を離れようとしたシンちゃんの脚を、ズボンごと掴んだ。やっぱり、根野菜みたいに細い脚だった。



「こんな、格好悪い、のに、何で」






 蓮見先生。




 私、ずっと先生に憧れてました。




 いつも親身に患者さんの話を聞いて、



 頭がよくて美人なのに、全然気取ってなくてさっぱりしてて



 他の先生とか患者さんとか、誰からも好かれてて




 ずっと、私も先生みたいになりたいと思ってました。




 悩んでる人の助けになれる、かっこいい女性になりたいって。



 先生も、幸せになってくださいね。



 お元気で…






「本当、馬鹿みたい」




彼女が私の何を知っていたのか。



私が彼女の何を知っていたのか。




「ダメね。最近めっきり脆くなってる」



先に動いたのは私だった。黙ったままのシンちゃんと視線を合わせる。いつ見ても、綺麗な顔だった。



「昔はこんなに泣いてばっかりじゃなかったのにな。ていうか、弱音吐いてる暇すらなかっただけだけど」



今の暮らしは、快適で、何不自由なくて、分刻みに動き怒鳴られながら過ごしていた頃とは天と地底くらいの差があった。



あの頃に戻りたいとは思わない。



ただ、ここに来ることを決めたとき、あまりにも多くのものを置いてきてしまった。




「いいじゃん。ちゃんと年を重ねていけてるんだから」



しみじみと言ったシンちゃんは、ほぼ変わらない高さにある私の頭をぽんぽんと撫でた。私も、彼の銀色の髪を手でといた。



「今の台詞、他の女に言っちゃダメよ」

「なんで?」

「年をとっていくのを楽しめない、寂しい人が多いのよ」

「ふうん」



あと一歩踏み出せば、唇同士がくっつきそうな距離だった。ここでキスをしようがしまいが、私達は揺らぐことなどない。



家族でも、友達でも、恋人でも、他人でもない。



この関係に名前をつける必要はないし、名前がつく日が来ることはない。




「So many men,so many minds」

「ああ、何だっけそれ。この間諺の クイズ番組でやってたのに」

「調べること増えたわね」

「難しいなあ」




髪を無造作に掻き回す彼の頭を、私も思いっきりぐしゃぐしゃにしてやった。



こうしてくだらないことを喋ってじゃれあっていても、どこかで滑稽だ、と見下ろす冷たい目は、消えることはなかった。




それでもよかった。




惨めだろうが、哀れだろうが




この生き方を選んだのは、私だ。














「あんまり無理しちゃダメだよ」



帰りがけに玄関でビーチサンダルを履きながら、彼は言った。



「無理してるように見える?」



正直、喉を使いすぎて声が枯れ気味なのは自分でもわかっていた。シンちゃんは呆れ笑いで、私の首元に触れる。



「辛かったら、辞めていいんだよ。僕一人でも大丈夫だし」

「ううん、いいの。好きでやってることだから」

「彼のために?」



一瞬間を置いて、首を振った。



「誰のためでもないわよ。私が決めたことだから」



綺麗に手入れのされた手をそっと離し、私は笑みを作った。



「でも、誰かのためにってなれたら、もっと強くなれるのかも知れないわね」



うん、と呟いたシンちゃんは、私の肩越しに遠くを見ていた。











リビングに戻ると、テーブルに携帯電話が置かれていた。折り畳み式の古いタイプで、ボディは傷だらけ、ディスプレイにはひびが入っている。シンちゃんが置いていったものだ。



放っておこうかと思ったが、とくにやることもないので仕事部屋に持っていき、ケーブルに繋いでパソコンの電源を入れた。立ち上がるのを待つ間に、ホットミルクをもう一杯作った。蜂蜜を入れすぎてやたらと甘くなってしまった。それを一口飲み、データ通信開始のボタンをクリックした。



マグカップの中身が半分ほどになったころ、画面が切り代わり、PDFの表と、別のウィンドウが表れた。表をファイルに保存し、ウィンドウの方を開く。指定されたパスワードを入力してEnterキーを押す。細かい文字が並んだ文章が一面に表示されたが、構わず一番したまでスクロールする。最後のパラグラフはフォントが最小になっており、そこだけ一語ずつ確認をした。



有益とまではいかないが、興味深い内容のそのファイルを、先ほどの表と合わせて自分の携帯電話に転送し、そのままパソコンの電源を落とした。




「The sun's never set」




口走った呟きを、ミルクと一緒に飲み込んだ。


どうも、楪美です。ご覧いただきありがとうございます。


本文にも書かれている通り、馨さんとシンちゃんは恋人じゃないです。

友達というには互いを知らないし、ビジネスパートナーというには近すぎる存在。

隣人って言っちゃえばそれまでなんですが、こういう関係ってなんて言うんでしょうね。


晃斗くんに続き、この馨さんもまた訳アリです。

伏線張り巡らせてますが果たして回収できるか…(白目

一個一個きちんと書いていきたいです、はい。


次回は征景さんのお話。頑張れビジネスマン。


お読みいただきありがとうございました!

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