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Eclipse  作者: 楪美
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1,JET

本編スタートです

Eclipse 1-① JET








――――米国大手メーカー“レオン”が全世界約7万人の顧客情報を流出させたと発表した件で、米国防総省捜査局は、未確認高性能ウイルスによるサイバー攻撃の可能性を指摘。当局は国際ハッカー集団によるサイバーテロの可能性を視野に入れて捜査中。…ウィンストン会長「被害者には私のすべてをかけて謝罪したい」とのコメントを発表、会長職辞任の声も。…――――





新宿通りを挟んだ駅前広場は、平日の昼間らしく今日も中途半端に人が溢れていた。



アルタの大画面に流れるテロップは、文字が小さいうえにすぐ消えてしまい、まともに読めたものではない。音声なしで喋っているスーツ姿のキャスターの口の動きから、かろうじて内容が判断できる有様だ。と言っても、ここから半径20メートル以内でニュースを理解している奴はおろか、スクリーンに視線を向けている奴は俺以外にいないように思えた。真昼間からこんなところで油を売っているような人間には、サイバーテロになど興味はないのだろう。



煙草と排気ガスの臭いが充満した広場から眺める街は、まったく変わらないようで、それなりに変化しつつある。少し前までは背広を抱えながら汗だくで歩いてたサラリーマンたちは、相変わらず足取りは重そうなものの、ダークカラーのスーツ姿に戻っている。狭い歩道に並んでだらだら歩く若者の集団の手からはうちわや飲み物に代わり、携帯電話が収まっている。と言っても、この無秩序な街には統一感などあるはずもない。ノースリーブにビーチサンダルの若者もいれば、全身ゼブラ柄のスーツに革製のブーツで決めている女もいた。



一ヶ所に焦点を絞らず視界に映る景色を眺めていると、自分が移り行く全てを見渡しているような、世界の傍観者にでもなっているような錯覚に陥る。何もかもが絶えず動き続けている街のど真ん中で、秋の日にあたりながら煙草をふかせるのは、時間が有り余っているはみ出し者の特権だ。時計を気にせず人目を気にせず、太陽が周っていくのを感じながら過ごす昼下がりは、清々しいほど退屈に流れていく。日射しとニコチンでぼんやりとした思考を軽い眠気に泳がせ、重くなった瞼を閉じる。



目を瞑り、遠退いていくざわめきの中に意識を委ねる。自分がいなくても周り続ける世界に同化していく感覚は、眠りに落ちる時と似ていた。耳の奥に響いていた雑音が徐々にか細くなり、重力から解放されて、身体ごと街に溶けていく。




止まらない世界の真っ只中で、夢想と現実の狭間で浮遊する。



どちらにいるのかなどわからない

どちらにしても、変わらない




ズボンのポケットで震えた携帯電話で、シャットダウンされかけた意識が覚めた。同時に、口にしたままだった煙草から燃えかすが落ち、組んでいた腕に白と黒の灰がかかる。シャツごしのそれを払いのけ、受信したメールを確認しまた元の場所に戻した。指の先ほどに縮んだ煙草をシガーケースに入れ、脚を組み直す。視界に影が差し、声をかけられたのは、それからすぐのことだった。



「お待たせしましてすみません」



パーマなのか地毛なのかわからないようはウェーブのかかった髪に、高そうなスーツを着た男が、その倍は体重がありそうな男達数名を後ろに従えながら俺を見下ろしていた。14時に落ち合う予定のはずだったが、左手首の腕時計の長針はすでに3を過ぎている。 先刻の挨拶には勿論、立ち上がった俺をあくまでも見下ろすようなその目付きからは、申し訳なさなど微塵も感じられなかった。



「平日の割に意外と道が混んでましてね。早めに出てきたつもりだったんですが、さすがに人も車も尋常じゃない量だな」



やれやれ、などと芝居がかった風に、そいつは首を振る。自分から田舎者だと公言しているようなものだ。待ち合わせで有名なスポットに、わざわざ車で来ようと言うのが間違っている。ここに群がるのは、混雑率降車率ともに全国ナンバー1の駅の利用者がほとんどだ。この街に馴染みのない人間には、苛立ちや息苦しさしか感じないのも無理はない。



「こちらが遅刻しておいて何なのですが、時間が限られているんで急ぎます。どうぞこちらへ」



信号待ちで溢れる人混みに入り込んでいくそいつのウェーブ髪を捕らえながら、俺は車道に出て、その十歩ほど後ろから追った。






新宿通りのデパート街に堂々と駐車されていたポルシェに乗り込むと、まず携帯電話の電源を切るように言われた。電源を切ったそれを再びズボンの右ポケットにしまう。今度は、飛行機に備え付けられているようなアイマスクを手渡された。両隣にどっかり座り込んだレスラー男のうち一人が、視線で着けろ、と促してくる。安っぽいパッケージから取りだし目元に被せたアイマスクは、ポリエステルと石油の安っぽい臭いがした。



「しばらくご辛抱下さい。到着したら声かけますんで」



助手席であろう前方から声が聞こえたのと同時に、車が動き出した。道順を計算気にはなれず、暗闇の中で再び目を閉じる。アイマスクの素材と革張りのシートの混ざった臭いに鼻がおかしくなりそうだったが、視覚以外の感覚は閉ざさずに尖らせておいた。車を出たら息の根を止められていた、なんていう醜態を晒すのはごめんだ。



さすが高級車だけあって、視界が遮断されているにもかかわらず、エンジン音はおろか走行音も揺れもほとんど伝わってこない。時折信号待ちであろう停車や右折左折を認識することはできたが、今どこを走っているかは皆目見当もつかなかった。時間の感覚も、当の昔になくなっている。あるのは化学素材の臭いと、左右から伝わってくる暑苦しい熱気だけだ。暗闇の中の、おまけにスーパーサイズの野郎二人に挟まれながらの旅は、お世辞にも快適とは言えなかった。




あの時もそうだった



自分の3倍は体格のある男たちに挟まれながら、どこへ向かうかわからないまま高級車に揺られていた。実のところ、あれが本当に高級車であったのかは記憶にない。ただ、それまで使っていたミニバンとは、広さを初め、シートの質感や匂い、窓の大きさまで何もかもが違っていた。何を思い、何を考えていたかなどはこれっぽっちも覚えていない。ただ、スモークガラスのせいで薄暗い車内から、唯一光の射すフロントガラスの先にどこまでも長く続いていた道路が、やけに鮮明に見えていた。




あれから10年以上経ったのに、今でも同じだ



行き先も知らないまま揺られて、運ばれるがまま



もがくことも、逃げ出すこともしないまま



ただ、連れて行かれるだけ




閉ざされた闇の中に、果てのない、まっすぐに伸びた道路が浮かんでくる。



真夏の太陽に焼かれるアスファルトと、さらにその先に浮かぶ、青空に映えた白い入道雲が映る。



手を伸ばせば触れられそうなその景色が、届くことのない、終わらない幻想であることは、あの時から既にわかっていた。




 いくら焦がれても、俺の意思など構わずに世界は回り、遠ざかる






「ご苦労様です。到着しました」



声がかかった頃には、石油の臭いも両脇の暑苦しさもどこかへ行っていた。











目隠しを外すことを許されたのは、車から降りて建物の中に誘導され、エレベーターで地上高く運ばれた先でだった。



まず目に入ったのは、空港で見かけるような金属探知機のゲートだった。携帯電話とステンレス製のシガーケース、さらにはベルトまでを預けて、味気のないゲートをくぐる。向こう側に出る前に、けたたましいアラーム音が響いた。間髪入れず、例の縦横ともに幅広いスタッフが、壁のように眼前に立ち塞がった。抵抗しないのをいいことに、そのままの流れでボディチェックが始まった。下手に動くと面倒なので、呼吸を整え直立を保つ。



黙々と手を動かし続けていたスタッフが、突如左胸のポケットに手を突っ込んできた。反射的に身を引き、手を払う。何かが壁にぶつかり、続いて床に落ちる音がする。ほぼ同時に、どこにいたのか同じような格好、体格の男たちが音もなく現れ、周りを取り囲まれた。ここまで似たような外観の人間を集めるのは、そう容易ではないだろう。そんなことを思っているうちに、初めからいた一人が、落としたそれを俺の目の前に突きつけてきた。



「これは?」

「五百円玉」

「何故これだけ別にしてある」

「買い物頼まれててな」



厳密に言えば財布から失敬してきたのだが、あながち嘘ではない。



「預からせてもらう」

「別に発信器でも盗聴器でもない。ただの五百円玉だ」

「信用できん」



返答を聞かずにそいつは別の男に五百円玉を手渡すと、他の奴らと一緒にその場をあとにした。残された二人が一層念入りにボディチェックを再開する。時間自体はそれほど長くかからなかったものの、野郎二人にべたべたと触れられるのは不快としか言いようがなかった。



地獄の身体検査が終わると、もう一度無機質なゲートを通らさせられた。今度は何事もなく通過する。その足で、さらに奥の方の部屋に誘導された。



スライド式の扉を開けて正面に映ったのは、外界を完全に遮断している黒のブラインドだった。促されて足を踏み入れたのと同時に、背にしていたドアが閉められ、鍵のかかる音がした。目隠しといい金属探知機といい、随分とセキュリティにはうるさい連中らしい。



部屋自体は十畳程であまり広くなく、薄暗さのせいで余計に窮屈に感じられた。その狭い空間の中央には不釣り合いな程横に広いデスクが置かれており、窓辺と机に挟まるように、黒革張りの椅子に腰かけた男がいた。



「ようこそ」



ビジネスライクな挨拶に、顎を引いて返す。



「急にお呼び立てして申し訳ない。私はこういう者です」



不意に横から、名刺を持った手が伸びてくる。先刻のパーマ男だ。自分の名刺を他人に渡させる奴を見るのは初めてだった。最早呆れる気力もなく、無言でそれを受けとる。



「ファンダメンタル・システムズCEO兼代表取締役、キモトといいます。主に企業向けのファイナンスシステムのプログラミング及びメンテナンスを手掛けております」



純日本人顔の割に、やけに横文字の多い紹介だった。こちらに名刺の持ち合わせなどあるはずもなく、その旨を伝える。



「構いませんよ。貴方のことはよく存じております」

「顔を合わせるのは初めてかと」

「初対面ですよ。直接会わなくても、情報を収集する手段はいくらでもありますし」



当然の事実を自信たっぷりに告げられ馬鹿にされた気分になったが、正論だったので相槌を打つ。



「それで、ご用件は」

「率直に言わせて頂きます。貴方の行動によりもたらされた我々への損害を補償して頂きたい」

「と言うと?」

「これを」



座ったままの奴が言ったのと同時に、またもや横から手が伸びてきた。差し出された書類を受けとり、目を走らせる。



「要は貴方が密告したグラン・ホテルでのカジノ運営の件で、仕事がなくなってしまったんですよ、私たち。あちら様に当社の資金管理システムをご利用いただいたんですが、お陰様でカジノ運営は絶望的、ホテル業務すらも今後まともに行えるかしれない状態でしょう。うちみたいなベンチャー企業にはたった一件のお客様の損失でも致命的でね。会社の存続に関わる危機なんですよ」

「それで、一時補償金5000万円と」

「当面の社員の賃金と、会社の維持費に必要最低限の分を計算して、さらに非道とはいえ貴方もお仕事でなさったということを考慮したうえでの金額です」



渡されたのは、5000万円の保証金と月毎に上乗せされる利子の請求書に、何故か雇用契約書、そして、病院で見るカルテのような書類の束だった。顔のアップや、明らかに隠れて撮ったであろう写真もある。カルテらしき書類には、生年月日や身長体重、握力視力などの自分でもわからないようなデータが列挙されていた。



「調べさせていただいたところ、それなりにキャリアもお金もお持ちのようでしたのでね。もちろん、一括とは言いません。万一持ち合わせのないようでしたら、新しい就職先もご紹介しますよ。小さな会社ですが、お付き合いさせていただいているところは多いんですよ」



そういって、キモトは初めて感情のこもった笑みを見せた。その視線の先にいたのは俺ではない。振り返ると、派手な柄シャツにオーバーサイズのズボンをだぶつかせた、姿勢も目つきも悪い男が二人、ドアの前から俺の方にガンを飛ばしていた。どう見ても堅気の人間ではない。殺気のこもった視線を無視し、改めて書類に目を通す。



「煙草の銘柄に、服の系統まで」

「我が社の一大事ですからねえ。気を悪くされましたならご勘弁を。ですが正直、貴方が我々になさった仕打ちを考えていただくと、この程度のことは当然かと」

「他人のことをどれだけ調べられても、気になんてなりませんよ」



一瞬にして、その場だけ空気がなくなった。ように思えた。



全員が窒息したように黙り込み、薄暗い空間が一層重苦しくなった。



「他、人?」



何秒か後にかろうじて言葉を発したのは、すっかり血の気を失ったキモトだった。それでも、口元にはひきつった笑みを浮かべようと努力している。



「ここに記されているのは、貴方の、神城正の情報では」

「俺は一度も名乗っていないし、そもそもカミシロタダシなんていう人間は存在しない。ここに載っているデータも、俺と共通しているのは性別くらいだ」

「…冗談はよしていただきたい」

「冗談は好きじゃない」

「…嵌められたか」

「嵌めたつもりもない。そっちが勝手に勘違いして、勝手に俺を連れて来ただけだろ」



言い切る前に、ドスン と派手な音が狭い部屋に響く。横から飛びかかってきた巨体を避けたら、反対側、つまり俺の左側にあった壁に、その巨漢が見事にぶつかっていたのだった。間を空けず、背後からもう一人に羽交い絞めにされかけたところを、体制を低くし膝を使って、鳩尾に肘鉄をめり込ませる。声なのか呻きなのかわからない音を発しながら、スーツの大男二人は床に這いつくばった。



「貴様」



キモトの口元から作り笑いは消えており、代わりにこめかみと眉間の辺りに筋が浮き出している。



「最初から仕組んでいたのか。うちを潰すために」

「そっちだって人違いで5000万ふんだくろうとしてたんじゃねえか。俺はここを潰すつもりも、あんたらといざこざ起こす気はなかったけどな」

「だったら、目的は何だ。なぜ俺たちを騙してまでここに来た?」

「仕事だから」

「何?」

「仕事だから」



聞き返されたから言い直すという当たり前の行動に、目の前の男の堪忍袋の緒は切れたようだった。キモトはバン と机に手をついて立ち上がり、何を言ったか聞き取れないような喚き声をあげた。一瞬遅れて、背後からこちらも意味の分かりかねる絶叫とともに、ドア横に立っていた二人が背後から向かってきた。



一辺に殴り掛かってきたのを見ると、喧嘩慣れはしていても戦闘に関しては素人らしい。実際、片方は図体だけがでかく動きはとろかったため、顎に一発決めただけでのびてしまった。



もう一方はそれなりに素早さもあり、細身の割に動きに力がこもっていた。左の頬に入ったストレートはなかなか強烈で、一瞬視界が揺らぐ。そのまま蹴りで倒されそうになったところを受け身をとり、体制を整える。再びとびかかってきたそいつを背後に回ってかわし、その首に手刀を叩き込んだ。



「うああああ!!」



叫び声とともに突然眼前に現れたのは、あのパーマ男だった。警棒のようなものをめちゃくちゃに振り回しながら向かってくる。大袈裟で勢いに任せた動きを読むのは容易く、振り下ろされた警棒を左手で掴んで止め、肘の関節に一発拳を入れる。警棒が奴の手を離れたところを掠め取り、その先端を腹に思いきり突き刺した。見る影もなくなったその髪を振り乱しながら、奴は口を開けたまま床に転がった。



部屋に立っているのは、その時点で俺一人だった。キモトはデスクの後ろに座り込んでいるらしく、この角度からは見えない。ガチガチ と小刻みに歯が鳴っている音だけが小さく響いていた。これ以上長居する理由もなく、床に転がっている男たちを避けながら、出口に向かう。スライド式のドアに手を触れた瞬間、短い金属音が響き、少し遅れて何か質量のあるものが床に落ちた。



「そ…のドアは、簡単には開かないぞ」



声と歯を震わせたままのキモトが、壁に寄り掛かるようにしながらやっとのことで立ち上がっていた。足元に落ちた大きな鋏を拾い上げた俺を見て、また先刻の引きつった笑みを見せる。



「ご覧の通りそのドアは鉄製で、開閉手段にアナログ媒体は存在しない。限られた人物の指紋認証と及び暗証番号の二重ロックがかかっている。今、この場でどちらの手段も握っているのは私しかいないというわけです」



喋っているうちに震えは収まったようで、口調にもとの余裕と傲慢さが戻っていた。実にわかりやすい奴だ。



「そいつは厄介だな」

「ことと次第によっては番号を教えて、指をお貸ししてもいいですよ。貴方が床に額をつけて謝罪し、我が社と私の為に働くというならね」



荒れた部屋に、キモトの狂ったような高笑いがこだます。ガキの頃に見ていたテレビアニメの悪役のような笑い方だ。どこか芝居がかった口調といい、この男は俳優にでも転職した方がよいのではないか。そんなお節介を考えながら、腕時計に目をやる。この建物に入ってから、20分弱が過ぎていた。



ぎりぎりだな



一呼吸置いて、金属づくりの取っ手を思い切り引く。



薄暗い部屋に廊下からの明かりが差したのとキモトの笑い声が急停止したのは、ほぼ同時だった。



「な……なん…っ…!?」

「さて、何ででしょう」



思わず軽口を叩きながら、意味のこもらない音を発しているキモトに一旦は背を向けたが、あることを思い出し立ち止まる。



「これ」

「…へ?」

「返す」



手首を使って投げたそれは、上手い具合に何かに刺さったらしく何の音も立たなかった。代わりに、品のない悲鳴がか細く響く。



「もう一度言う。俺はお宅を潰す気はないし、今回のことを大事にしようとは思っていない」



返事がなく聞いているのか否かわからなかったが、一応続けておく。



「グラン・ホテルとの取引を続けるのも、ヤクザさん方とつるむのも、俺を追うのもあんたの自由だ。ただ、理由はどうあれ一度「闇」に足を突っ込んだんなら、相応の犠牲は覚悟しとけ」

「…闇…」

「それができねえなら、素人が裏の世界にしゃしゃり出てくんな」



忠告と一緒に唾でも吐き出してやりたかったが、やめておいた。いとも容易く開いた出口の扉を、出来るだけ音の立つように力任せに閉めた。



ガコン と重く閉ざされたドアの向こうから、お前は誰なんだ と背中越しに絶叫を聞いた。











行きに時間がかかった割に、そのビルから自宅の、ルーチェの2階にある6畳間に辿り着くまでは、徒歩で20分もかからなかった。



例のビルからは、非常階段で抜け出す際に西新宿の高層ビル群がすぐそこによく見えた。車で移動するまでもない距離を、馬鹿みたいに迂回しまくって時間を稼いだわけだ。仕事とはいえ、とんだ茶番に付き合わされたものだ。



何から何まで中途半端な連中だったが、それでも報酬は懐に入ってくる。人生におけるこの1時間弱がどのくらいに換金されて戻ってくるのか、その基準を俺はいまだに知らない。俺が費やした時間と、奴らが失った利益やコネクション、プライドが、どのくらいに換金され、どのくらいの価値を持つのか。少なくとも、それを決める権限もなければ知識も俺にはない。最低限とは言え衣食住が保障されている以上、興味は湧かなかったし必要であるとも思えなかった。



2階に通じる外の階段を登っている最中に、マスターのおっさんの笑い声が聞こえてきた。寡黙というには程遠い人だが、接客中はそれなりに普段のラテン気質を抑えるよう努力している、らしい。そのおっさんが外に響く程大笑いしているということは、余程機嫌がいいか、もしかしたら昼間から酒でも喰らっているのか。下手に顔を出せば、無理にでも店番を押し付けられるに違いない。なるべく足音を忍ばせ、気配を消して部屋へ入った。



一応今の生活の拠点である6畳の洋室は、そこらのビジネスホテルよりも殺風景で、とにかくものがない。パソコンとプリンター用のデスク以外には、パイプ式のベッドと、申し訳程度しかない洋服用のラック、あとはゴミ箱くらいしか置いていなかった。実際この部屋は北向きで窓もひとつしかないため、夏は暑く冬は寒い。間借りの身であることもあり、できるだけ部屋にいる時間を減らすようにしていたら、こうなっただけの話だった。



その6畳間に帰宅し、玄関先で無駄に底の厚い靴を脱ぎ捨てた直後に、携帯が左のポケットで振動し始めた。ディスプレイの表示を見ず、通話ボタンを押して電話に出た。



「随分タイミングいいのな」

「何が?」

「電話。家着くの見計らってたみたいだ」

「晃斗が寛ぎ始める前にすませとこうと思ってさ」

「監視社会の賜物だな…っと」



携帯を片手にピアスを外すのは容易ではなく、フローリングに落としてしまう。



「今落っことしたでしょ。凄い音したよ」

「樹脂越しなんだから壊れやしねえよ。おかげであのザルセキュリティにも引っ掛からずに済んだ」

「当然だよ。それだけの技術を詰め込んであるんだから。なのに小銭入れっぱなしでチェック受けて引っ掛かるなんて、ばれたのかと思っちゃった」

「あいつらこれの正体どころか、存在にすら気づいてなかったよ」



拾いあげた指先で、ルビーを型どった紅が西に傾きかけた日に光る。



「それもどうかと思うけどね。なんならずっと持っててもいいよ」

「いらねえよ」

「こっちでOFFにすれば、盗聴もGPS機能もなくなるのに」

「お前のことだ。いつ悪戯に使われるかわかったもんじゃねえ」

「信用ないなあ」

「信用はビジネスに付き物だぜ。よくも悪くも」

「よーく知ってるよ。それが商品だからね、僕の場合」

「それにしちゃあえげつねえ真似するじゃねえの。神城正さんよ」

「あれ、ばれてたんだ」



涼しい声で、おそらく涼しい顔をしながら宣う、電話の向こうの奴の姿が目に浮かぶ。



「お前の正体知らねえまま情報を鵜呑みにしてたあいつらも大概間抜けだけどな、もうちょいマシな設定はなかったのか」

「いいじゃん。外国帰りの元マフィアのJACKなんて探せばいくらでもいるよ」

「俺が言ってんのは、身長190センチの金髪で、毛深くて、おまけに顔に傷があるなんて設定必要だったのかってことだよ」

「傷痕とか、なんかアニメっぽくてかっこいいじゃん」

「化けんのは俺だってこと忘れんな。痒くてしょうがねえ」



左の頬骨辺りに作った傷跡は、少し指で力を入れて引っ掻くと案外簡単にとれてしまった。皮膚が引っ張られたような痛みが走り、絆創膏のようなフィルム状のテープがはがれる。前髪でいくらか隠れるようにしていたとは言え、こんなメイクとも言えないような特殊メイクでよく気づかれなかったものだ。



「だいたい今回は博打が過ぎてたんだ。俺の変装もピアスもばれない保証はなかったし、GPSで位置情報が送れていても、遠隔でジャミングしながら奴らのスパコンに侵入するのはリスクが大きかっただろ。下手したら俺だけじゃなくてお前の方にも手が回ってたかもな」

「そのリスクをできるだけ回避する為にも、晃斗に直接潜り込んでもらったんだよ。おかげで彼らとグラン・グループとの関係も決定的になったし、欲しかった情報も手に入ったし」

「こっちは危うく軟禁されかけたけどな」

「鍵がアナログじゃなくてよかったじゃん。あと2分23秒早かったら、ドアの前で相当格好悪いことになってたよ」

「五百円玉のせいで十分格好悪かったよ。思い出したくもねえ」

「それは自業自得でしょ。ちゃんと回収して使ったみたいだからいいけどさ」

「物理的な証拠は何も残してねえよ。これで足がついたらお前のせいってことだ」

「そしたら、"JET"に全部任せて僕はおさらばさせてもらうよ」

「やっぱえげつねえよ、お前」




それから二言も交わさないうちに、キャッチが入ったと言い残してシンは一方的に電話を切った。結局要件がわからないままだったが、奴の気紛れは毎度のことだ。通話を終えた携帯電話をベッドに放り、ついでにピアス、もとい「技術の結晶」も窓辺に置いて、外階段に通じるドアを開いた。











新宿御苑に程近い裏通りに面したこの歩道は、駅前の広場からあまり離れていないにも関わらず、人通りが少なく日中は常に静かだった。そんな裏道でも、すぐ傍の飲食店街が賑わう時間帯になればそれなりに人は増える。



予想外に仕事が早く片付いてしまい、その変わり目の時間までは何もすることがなくなってしまった。ここ数週間関わっていた一連の任務は先のIT企業訪問で終了してしまったので、新たな依頼が入るまでは、愛すべき退屈な日常を過ごすことになる。街をぶらついたり読書したりなど、時間を潰す選択肢は山程あったが、何をしようにもどうも気分が乗らなかった。おそらく、柄にもなく昔のことを思い出したからだろう。





あの頃見ていた世界と、ここからこうして見下ろしている世界は、表裏や明暗などでは言い尽くせないほど何もかもが違う。望んで足を踏み入れたのではないにしろ、こちら側を選んだのは自分の意思だ。流されながらの生き方の中にもいくつか分かれ道はあったし、選択も、抵抗も、逃避もできたはずだった。




今思えば、人生のという意味に置いては、あの車に乗ることを選んだのが、最後の選択だった。



それからは、ただ生きるために生きてきた。




 どんな深みにはまっても


 どんなに手を汚しても


 どんなに死にたくなっても




 生きて、生き抜いて、裁きを受けて、




 これ以上、連鎖させないために





つけ忘れたまま唇に挟んでいた煙草に、ライターで火を灯す。溜め息と共に、白い煙が筋を作る。



毒を吸い込み、毒を吐き出す。




 その行為に、意味などなくても





遠くの雑踏に混ざって、カラン と階下のドアが開いてベルが鳴る。続いて、ご馳走様でした、と女の声が聞こえた。



聞き覚えのあるその声に、無意識に目をやる。



黒の長髪に、紺色のリュックの後ろ姿。




数日前に昼間から店で居眠りしていった、あのだった。




「またのお越しを」



普段なら有り得ないくらいに格好つけたおっさんの声に、彼女が振り向いて会釈を返す。



その視線が、こちらを捕らえた。ように見えた。



咄嗟に柵に預けていた身を立たせたが、その場から離れるには時が経ち過ぎていた。変に身動きするのも不自然に思い、俺を見上げている彼女の目を見据える。



「…ですかー?」



不意に口を開いた彼女の言葉が聞き取れず、思わずえ?と尋ね返してしまう。



「イメチェンですかー?」



片手で自分の頭を指差し、もう一方の手でメガホンを作りながらの、大声の返事が返ってきた。後ろを通った通行人が何事かと言うようにこちらを見てきたが、一秒も経たないうちに元の方向を向いて去っていく。



「まあ、な」



満更嘘ではないので、肯定しておく。



「大分明るくしたんですね。プラチナブロンドみたい」

「もう戻すよ。落ち着かなくてさ」

「でも日本人でその色が合う人って、そんなにいないですよ」

「合ってんのか、これ」

「どっちかって言うと前の方がよかったけど」

「知ってる」



自虐を込めた応えに、彼女はあははと笑う。



「髪染めるのって大変じゃないですか?眉毛も同じ色にしないと不自然だし、伸びたら生え際が目立っちゃうし」

「しかも禿げやすくなるらしいな」

「想像したくない。黒が一番ですよ、やっぱり」

「よくわかったな」

「え?」

「髪染めて、しかも結構距離あるのに、俺だって」

「わかりますよー」

「そうか」



彼女はなんの邪気もなく言ったのだろうが、自分の変装があまり意味をなしてなかったのかと思うと馬鹿らしくなった。たった一度しか会ってない人間に気付かれるなんて、街で見かけるコスプレイヤーのほうが余程マシだ。



「お兄さん、なんか人と違うっていうか。目立つ訳じゃないんだけど、オーラがあるのかな」

「それは喜んでいいのか?」

「いい意味でですよ」



世辞にしろ本気にしろ、なかなか鋭い目を持っているのかも知れない。見たところどこにでもいそうな若い娘だが、注意に越したことはない。



仕事の準備があるから、と半分本当の言い訳をして、会話を切り上げた。また来ます、と手を振り彼女は小走りで去っていった。知らないうちに靴の裏で消していた煙草を拾い上げ、扉を隔てた六畳間を通り抜けて、そのまま風呂場に直行した。











「なんだお前か。誰かと思ったぜ」



風呂上がりの飲み物を取りに下へ降りていくと、食材を運んでいたおっさんがこちらを見るなり言った。



「言ってくれるじゃねえか」

「さっきまで金髪のボサ髪だったのに、いきなり黒に戻って短くなってるんだもんよ。髭もなくなってるし。自分でやったのか」

「色はスプレーだったから洗って落ちたし、髪も適当に自分で切った。いつまでもあんなもさい格好してられるかよ」

「ルナちゃんのためか」



がぶ飲みしていたミネラルウォーターが、危うく喉を逆流しかけた。むせる寸前に辛うじて空気もろとも飲み込み、何とか咳き込むのを免れる。



「誰だよ、それ」

「わかってるくせに聞き返して来るな。随分仲良さげにしてたじゃねえの」

「聞いてたのかよ」

「やっぱわかってんじゃねえか」

「直接は教わってねえよ。こないだ会話ん中で聞いただけだ」



ああそうかい、などと妙ににやつきながらおっさんは作業に戻っていった。半分程に減った水を冷蔵庫に戻そうとした時、晃斗、と声をかけられた。



「わかってんだろ」



いつものように、何を考えているかわからない飄々とした口調の奥底には、明確な意図と疑念があった。こういう時のあの人がどんな表情をしているかは、同じ空間にいなくてもわかる。



わかってる、とだけ答え、しまいかけたミネラルウォーターを一気に飲み干した。




味のない水が、音もなく身体の中に流れ落ちていった。





ご無沙汰しております、楪美です。ご覧いただいてありがとうございます。


何とか本編スタートまでこぎつけました。

訳あり青年晃斗君のある一日、早速暴れてます。アクション難しい…



ITやコンピュータ系はサッパリなのですが、Wikiさんやぐーぐるさん、図書館の本たちの力を借りて、むしろ依存しまくって典型的文系人なりにできるだけの表現はできたかなと思います。



次回は馨さんのお話。このひと、また悩んでます。



ありがとうございました!!

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