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Eclipse  作者: 楪美
Prologue
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Prologue⑤-Luna

prologue⑤-Luna







夢を、見ていた。




知らない街を、思いっきり駆け回っていた。



空も太陽も手の届きそうな程に近く、身体を突き抜けていく風が絡まり、解けていく。




街には誰もいない。




人も、乗り物も、鳥も、お店の広告パネルすらも、私以外に動いているものは何一つなかった。




ずっと全速力で走っていても、呼吸の乱れどころか、上昇しっぱなしなはずの熱も、たまっていくはずの疲れも、心臓の動悸すらもなかった。






私を邪魔するものは、何もなかった。





いつの間にかアスファルトの道路が、芝生の敷き詰められた広場に変わっていた。綺麗に手入れされた緑色の中を、前だけを見据えて駆け抜ける。無機質な街並みは消え、空の青と芝生の緑だけが、遠くまで広がっていた。走っても走っても、呼吸も、世界も、全部がずっと続いていく気がした。





不意に、芝生が視界から消えて、周りが青一色に染まった。柔らかい地面は足元から消え、身体は宙に投げ出されていた。




落ちている





思う前に、スカイダイビングみたいに、手足を広げていた。翼なんてなくても飛んでいるような、そんな錯覚だった。




このままずっと落ち続けたら



いつ重力すらもなくなって



何にもとらわれないで




そして














「起きた」




引き戻された意識の中で、誰かが呟いたのが聞こえた。



重い瞼を何度か瞬かせても、視界には何も映らない。醒めようとしない脳を働かせ、自分がカウンターに突っ伏していることに気付いて頭を持ち上げた。



目が覚めてきても、周りの薄暗さは変わらなかった。また少し考え、征景さんに連れてきた喫茶店だと思い出す。途端に、巻き戻すように次々と記憶が戻ってきた。



数秒前までの眠気を振り切り、辺りを見回す。カウンターと反対側に向けた椅子に、いかにもくつろいでいるように脚を組みながら座った男の人が、煙草をふかしていた。




「今の状況、わかるか」



完全にオフモードのつもりらしく、愛想も何もない聞き方だった。尋問されているような気分になり、私は声を出さず頷く。



「ならいい」



短く言ってもう一度煙草をふかすと彼は立ち上がり、私の後ろを通ってカウンターの中へ戻った。



何がいいのかわからないまま、再び周りを見渡してみる。ランプや照明は全部消えており、窓から差す外からの薄い光だけが唯一の明かりだった。壁際のテーブル席は、掃除をしたあとのように椅子がテーブルに乗せられている。出入口のドアの近くには、来るときに見かけた木造の看板が店内にしまわれていた。



最後に携帯電話で時刻を確認したところで、先刻の確信が間違いではなかったことをはっきり悟った。お金を払う側とは言え、今の私はただの迷惑な邪魔者だ。



「すいませんでした。ごちそうさま」



なるべく彼の顔を見ないようにしながら足元に置いておいたリュックをひっつかみ、椅子から飛び降りるようにして出口へ向かった。脚がうまく動かず、床の板の継ぎ目にひっかかりそうになった。



「ちょっと待った」



出口のドアに手をかけて引こうとしたまさにその時、後ろから呼び止められ脚を止めた。振り向くと、例の彼がカウンターから何かを差し出すように、手をのばしていた。何かを持っている。暗さでよく見えず、目を凝らした。



「お釣り」



彼の指先でひらひらと揺れているのは、一枚のお札だった。反射的にポケットを探ってリュックから財布を取り出して中身を確かめる。どこにもない。同時に、どこかにしまった記憶もなかった。彼が持っているのは、間違いなく征景さんにもらったはずの五千円札だった。



「テーブルに置きっぱなしのまま寝ちまったから、預かっといた」



自分の間抜けさが、ほとほと嫌になった。



現金を放置したまま爆睡する客など、彼もそうは見たことないだろう。この際顔を覚えられるであろうことは諦めて、先刻勢いよくあとにしたカウンターへ戻った。



すでに計算してくれていたらしく、すぐにお札数枚と五百円玉を手渡された。小走りで出口へ向かいながら、ろくに確かめもせず財布に突っ込んだ。



一刻も早くこの場から去ろうと、勢いをつけて重い扉を引き開けた。だが、そこで待っていたのは、思いがけない光景だった。もはや何かの嫌がらせとしか思えないまま、私は溜め息とともに木のドアを閉めた。こうなったら、他に選択肢はなかった。




「あの、傘ってお借りできませんか」

「やっぱ降ってたか」




知ってたなら教えて欲しかったが、ただでさえ薄暗い店内から窓の外の様子を知るのは、位置的にも難しい。先刻座った席に再び腰掛けると、それがよくわかった。文句を言うべき相手は彼ではなく、雨の心配はないと言い切っていたお天気キャスターだ。




「ちょい待ってて」




カウンター内で何かの作業をしてから、いったんパーティションで区切った奥のスペースに引っ込み、すぐに出てきて傘を手渡してくれる。意外にも紺地に白のドット柄の、可愛い傘だった。お客さんの忘れ物なのだろう。そこには触れず、ありがとうございます、とお礼だけを言った。




「あと、これ」




カウンター越しに出てきたのは、白とコーヒー色の層に分かれたカフェオレだった。




「喉渇いてると思って」




言われてみれば、征景さんが頼んでくれたホットコーヒーは、全部飲めずに残してしまっていた。しかも口を開けて寝ていたらしく、喉の奥に何かが絡まっているような違和感がある。




つまり口が半開きの間抜けな寝顔をしっかり見られてしまったということだが、それ以前に散々醜態を晒していたためもはや恥ずかしいという気持ちすら起きなかった。




「えっと、いくらですか」

「いいよ。サービス」



財布を取り出そうとしたところで、遮られる。その目には威圧感にすら似た強さがあり、声を出すタイミングを完全に逃してしまった。特に断る理由もないので、ありがたくいただくことにする。



「いろいろありがとうございます。傘、近いうちに返しに来ます」



頭を下げると、それまでポーカーフェイスだった彼が、唇の端を少しだけ上げて笑った。



黒のシャツに、わざとなのか天然なのか無造作な黒髪、おまけにこちらも剃り残しなのか自然にかわからないような無精髭というただでさえ年齢不詳な出で立ちだったのが、ベテラン俳優のような余裕に満ちた笑みを見せられて、余計にわからなくなる。



そんなことを考えながら今度こそ出口に向かおうとすると、突然何かが落ちてきたような音が響き、続いて軽い揺れが床を伝って届いた。地震かと思ったが、揺れは一瞬ですでに収まっている。代わりに、先刻の音よりさらに大きな、誰かの怒声が聞こえてきた。



「晃斗!!手伝えってのが聞こえねえのか!」



空気が裂けるような大声だった。黒服の彼が、やれやれと言うように肩を落とす。そして、奥のスペースに向かって声を張り上げて叫んだ。



「うるせえんだよクソオヤジ!!客いるんだから静かにしやがれ!」



とてもではないが、つい数秒前までの落ち着きに満ちた彼とは別人だった。私の視線に気づいてこちらに向いた顔は、呆れと苛立ちが混ざっている。




「あー、早く帰った方がいいよ。雨凄くなってるし」

「あの、さっきのは」

「気にしないでくれ。ただの」




頭を掻きながら彼が続けようとした言葉は、再び大きな音でかき消された。




「何が客だ。まだ7時前じゃ…」



壊れんばかりに強く開け放たれたドアから、40代ぐらいの男の人が、怒鳴り声とともに入って来た。背はあまり大きくないが、声に違わず体格はがっしりとしていて、格闘技のコーチでもやっていそうな人だ。その怖そうな中年の男性が、私を見てみるみる声のトーンを落としていく様子は、私の思考を一時停止させるには充分だった。



「だから言ってんだろ」



店員の彼が言って、中年男性の方にタオルを投げる。私の前を飛んだそれを難なくキャッチし、男性は雨に濡れた頭を拭きながら、カウンター内に入った。



「客がいるんならCLOSEなんて出しとくんじゃねえよ。紛らわしいんだよ」

「わかったわかった。開けりゃいいんだろ」

「なんだその返事は」



ゴツン と鈍い音と、痛えなという悪態が続けざまに響く。漫才のようなやりとりののち、黒服の彼は頭をさすりながら奥へと入っていった。



「晃斗!裏口んところの荷物地下に運んどいてくれ」

「これ全部かよ」

「悪いね、騒がしくて。どうぞ、座って座って」



嘆きにも似た声を軽く無視し、マスターらしき男性はにこやかに席を勧めてくれる。私はどうも、と先刻の一つ隣の椅子に座った。もはや帰る気などとっくになくなっていた。



「多分夕立だからすぐやむだろうけど、せっかくだからゆっくりしていきな」



そう言ってカウンターに出してくれたメニューは、昼間のとは違うバータイム用のものだった.

名前を聞いたことはあっても、色も味も分からないお酒ばかりが並んでいる。説明書きはもちろん、値段も書かれていない。迂闊に注文しようものなら、今週分の食費が一気に吹っ飛んでしまうなんてこともあり得る。



先刻もらったカフェオレを飲みながらメニューを眺めていると、横から別のメニューが差し出された。見ると、いつの間にか戻ってきていた若い方の店員の彼が、すぐ傍に立っていた。



「ディナーメニューもあるんで、よかったら」



一言だけ残し、再び奥の方へ去っていく。カウンター越しではわからなかったが、その後ろ姿は細身の割に背が高く、シャツだけでなくパンツも、腰のサロンも黒で統一されていた。



ディナー用のメニューはおつまみのような軽食が中心だったが、肉や魚料理などのメインディッシュもあった。何度もページを行ったり来たりしながら、バケット付きのバジル風味サラダに決める。一番お手頃なものを選んだつもりだったが、それでも先刻のホットコーヒーの二杯分の値段だった。



マスターが用意してくれる料理の音に耳を傾けていると、ビアノと、続いてアルトサックス、ベース、最後にドラムのリズムが混ざり、静かなブルースが流れてきた。薄暗く程よく閉じられたこの空間で、哀愁たっぷりのメロディーは酔わせるように響く。




彼も、ブルースが好きだった。




ほとんど飲んでしまったアイスオレは、溶けた氷で肌に近い色に薄まっていた。ストローで、最後の一口を口に含む。水とミルクに混ざった微かなエスプレッソの味が、口の中に広がりすぐ消えた。




彼が残していった山ほどのCDは、今はもう部屋にはない。服も、本も、開けたばかりだったワインも、全部処分した。



目に見えない思い出だけが、私の中にいつまでも居座っている。






もう二度と、何にも捕らわれたくなんてないのに






「お嬢さん」

「はい!」



トリップしていた思考が急に引き戻され、必要以上の大声が出てしまった。



「飲み物空だけど、何かいる?」



丸くなった氷だけが残っていたカップを下げながら、マスターが尋ねてくる。感慨に耽っていた脳を何とか働かせ、今はいいと伝えた。節約に越したことはない。



「アルコールがダメなら、ノンアルコールカクテルとかソフトドリンクも出せるよ」

「実はそんなに手持ちがなくて。あんまり出せないんです」

「お嬢さん、学生?」

「はい。独り暮らしなんでいろいろやりくりしないと厳しくて」

「確かに、独り暮らしの女子大生さんにはウチみたいな店は優しくないかもなあ」



料理の手を止めず、かつきちんと私の方に目を向けながら、マスターは話を聞いてくれる。いちいちレシピを確認しながら手を動かさなければならない私とは大違い。



「普段なら外食って気が引けちゃうんですけど、今日はたまたま従兄に連れてきてもらったんです」

「従兄か。何て言う人?」

「黒羽です。黒羽征景」



記憶をたどるように少し空を見たあと、マスターはああ、と呟く。



「知ってます?」

「知ってる知ってる。前はよく来てたんだけど、ここ半年くらい見てないな。元気にしてる?」



はい、とだけ応えて、意図的に目を背けた。マスターも何か悟ってくれたらしく、調理の方に集中し始めた。





あの日のことを口にするには、何もかもが足りなさすぎる






「やっぱり、飲み物もらっていいですか」



申し出た私に、マスターは少し笑って頷き、メニューを渡してくれる。先刻の会話のせいか、アルコールのメニューは抜き取られていた。











バジルのサラダと、マスターがおまかせで作ってくれたノンアルコールのカクテルは、値段に違わずおいしかった。ツケでもいいと言ってくれたマスターの親切を遠慮し、なぜか財布に取っておいてあった二千円札で代金を払う。ツケでの支払いなんて、フィクションの中でしか聞いたことがない。現実にあったとしても、とても自分が使えるようなやり方ではない。そういうと、マスターは何がツボに入ったのか、ひとしきり笑った。



「面白い娘だね。また好きな時においで」

「今度はちゃんとお金持ってきます」

「いいって。お嬢さんになら、いくらでもサービスするよ」

「エロオヤジが」


小さく呟いたのは、カウンターの向こうでカクテル用の氷を作っていた、黒服の彼だった。ほぼ間が空かず、ゴツン とまたあの鈍い音がする。



「痛えよ。すぐ殴るなっつってんだろ」

「てめえが余計な口叩くからだろうが」

「じゃあ、ごちそうさまでした」



若い方の彼がマスターに言い返す前に、私は少し大きめに声をかけた。どつき合っている二人を見るのは退屈しなかったが、一日に四回も見ればさすがに新鮮味もなくなる。



「ああちょっと待った。晃斗、このお嬢さんを送ってきてあげな」



マスターに命じられた彼は、露骨に面倒そうな顔をする。と言っても眉と眉間が少し動いただけだったが、普段が仏頂面な分わかりやすい。



「はあ?店どうすんだよ」

「これぐらい俺一人でも回せるさ。ついでに煙草買ってきてくれ」



あれから何組かのお客さんが出入りしていたものの、今は私以外にフロアのテーブル席にカップルが一組と、壁際のカウンター席で黙々と飲んでいる初老の男性がいるだけだった。どちらも先刻から注文をせず、それぞれの時間と空間を楽しんでいる。



「もうストックねえのかよ」

「文句あるならおまえが禁煙しろ」

「あの、大丈夫ですよ。家かなり近いし」



断ろうとした時には、すでに彼はカウンターから出ていた。サロンをといて、行かないのかと言うようにこちらを見ている。



マスターに会釈し、半日ぶりの外へと向かった。何時間か前には重かった足取りは、別物みたいに軽くなっていた。













すっかり雲のない夜空は、眠らない街に溢れる光に照らされて晴れ渡っている。昼間よりも賑やかな飲食店街を抜けた人通りの少なくなった細道を、一歩一歩ゆっくり歩く。何メートルも離れていない後ろには、夜に溶け込むような黒に身を包んだ彼が、私の歩幅に合わせながらついてくる。微かに聞こえる雑踏は、別の世界から響いてくるように遠い。



店を出てから、私たちは一言も言葉を交わしていなかった。沈黙している気まずさも緊張感もなく、男の人と歩いているという高揚すらもない。ただ、一人ではないんだという、訳もない安心感だけが、私の中でふわふわと漂っていた。



甲州街道に出て、道と空が同時に開けた。高層ビルが乱立する副都心からも、広い空は見える。雨のあとで湿った風が、身体に絡まるように吹き抜けていく。



「ここで大丈夫」



振り向いて言うと、彼は足を止めて頷いた。いつの間にか、煙草を口に咥えている。



「今日はありがとう。楽しかった」



咥え煙草のまま、彼またあの笑みを見せる。風に吹かれて、紫煙が白くたなびく。



「また行ってもいい?」



今度は、声をだしてああ、と返事をくれた。



馬鹿丁寧な決まり文句や媚に満ちたリップサービスなんかよりも、その短くて無愛想な返事が、なんだか嬉しかった。



「気を付けてな」

「はい。じゃあ」



手を振って、広い道路沿いの歩道を歩いた。少し進んで振り向くと、彼は煙草をふかしながらまだそこにいた。もう一度手を振ると、彼も小さく手を上げて、元来た道へ戻った。









彼の姿がなくなったのを確認したところで、私は目の前に真っ直ぐ伸びる道を、リュックを背負い直し走り出した。





すぐに呼吸が上がり、心臓が波打ち、身体中が熱くなる。





ヒートアップしていく身体に比例するように、頭の中に、いくつもの映像が巡る。





 回る視界


 狭い事務室


 人とコンクリートが溢れる街


 薄暗くて、静かで、暖かい店



 私を諭した、征景さんの哀しい目



 私を歓迎してくれたマスターの目



 私をずっと見ていた、彼の真っ直ぐな目





 いつまでも消えてくれない、いつの間にか消えてしまったあの人






 走っても走っても、振りほどくことなんてできない





 ただ、前に進みたいだけなのに







誰もいない部屋に辿り着くまで、私は一度も止まることなく走り続けた。




信号も、段差も、階段も、柵も、壁も、全部越えた。





遮るものなんて、何もなかった。






以上でプロローグ終了です。次回より本編入ります。


アングラやらアクションやらまたごちゃごちゃした人間関係やらいろいろ出てきます。


ありがとうございました!

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