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Eclipse  作者: 楪美
Prologue
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Prologue④-Yuki

Eclipse Prologue④―Yuki






改札口で名前と事情を告げ、駅員に事務所まで案内してもらった。



事務所はホームや売店からかなり離れた、構内の隅にこぢんまりと構えてあった。





「どうぞ」




促されて入った部屋は、冷房で寒いくらいだった。



入ってすぐのドアの横に駅員用のデスクがあり、備え付けの椅子にはまだ若い駅員が座っていた。その奥には二組のソファが、ちゃぶ台のようなテーブルを挟むように置かれていた。



ソファに腰を降ろさず立ったままだった責任者らしき年配の駅員が、ご足労いただきすみません、と俺に会釈する。そのすぐ横のソファには顎に絆創膏を貼ったワイシャツ姿の中年の男性が座っており、腰の辺りをそわそわと触りながら、探るように俺の方を見ている。



その向かいに、こちらに背を向けるように座っている方の子は、俺が入ったことに気付いていながら、こちらを見ようとはしなかった。




「ルナちゃん」




呼びかけると、明らかな不機嫌顔がようやく俺の方に向いた。



何か言おうとした彼女を遮り、俺は年配の駅員にご迷惑をおかけしました、と謝罪する。少し間があいてから、すみませんでした、と彼女も呟いた。横目に見ると、彼女は頭を下げることなく、正面の中年男を睨みつけていた。



「お電話でもお話ししましたが、まあ目撃情報からしても、そちらのお嬢さんに非がないことは明白ですし、負傷者もいませんからね。警察の方にはもう調書はとってもらいましたし、一応お迎えに来てもらっただけなんで」



空気を読んでか読まずか淡々と言う年配の駅員は、長年の経験の中でこうしたトラブルにも慣れっこのようだった。暗にもう帰っていい、というメッセージを読み取り、俺はソファに座ったままの彼女を行こう、と促す。



最後にもう一度お世話になりました、と声をかけ、薄暗い事務所を出た。俺のあとから出てきた彼女が閉めたドアの音は、壁が崩れたかと思うほど大きく響いた。













「ごめんね。征景さん」



ルミネエストを通り抜け外に出てから、それまで黙っていた彼女が口を開いた。



「一人で帰るって言ったんだけど、あの駅員のおじさんが聞いてくれなくて」

「いいって。最初電話で聞いたときはびっくりしたけど、ルナちゃんに怪我がなくてよかったよ」

「すごく大げさに言うんだもん、あの人。階段から突き落とされたなんて言ったら、誰でも誤解するのに」

「普通階段から突き落とされて無傷な人ってあまりいないと思うけどな」

「人を階段から突き落としておいて、自分もバランス崩して怪我するって人も普通いないよね」

「それにしてもルナちゃん、なんで突き落とされそうになんてなったの?」

「もともと電車の中で、ヘッドホンの音漏れがうるさいって因縁つけられてたの」



さりげなく振った話題を疑いもなくキャッチし、彼女は話し始めた。



「私のは音漏れ防止機能ついてるから違うって言ったら、大音量でうるさいロックなんか聴くなって食ってかかって来たの。その時私が聴いてたのはエヴァンスの「枯葉」だったから、印籠みたいにウォークマンの画面を見せてやったんだ。そしたら何も言わないまま隣の車両に行っちゃったからそのまま放っておいた。それで、新宿に着いてホームで飲み物買ってから階段を降りようとしたら、いきなりどんって」

「それって、そのヘッドホンの件のあとから君の行動をずっと見てたってことだよね」

「気持ち悪いでしょう。ねちっこいというか、根に持ちすぎ」

「それでも、まさかルナちゃんが運動神経抜群で、階段でバク転しちゃうような女の子だとは思わなかっただろうな」

「周りの人なんて拍手してたよ。こっちはびっくりして頭真っ白だったけど」




そこで彼女は、ようやく今日初めての笑みを見せた。



下手をすれば殺されかけた後で、微塵も恐怖感を見せないそのタフさには恐れ入る。血筋といえば血筋だが、だがその凛とした佇まいの影に潜む彼女なりの思いを知る身としては、拍手など贈れる気にはなれない。代わりに、お腹すいてない?と俺は彼女に尋ねた。今のところ俺が彼女にしてあげられることは、せいぜい兄貴風を吹かせてうまい飯を奢ってやるぐらいだ。



 「今の時間ならまだどこも混んでいないだろうし、お腹すいてなければお茶するだけでもいいしさ」

 「それならご飯は軽めでいいから、学生が行かないようなお店がいいな」

 「西口の展望レストランとか?」

 「違うよ。高級とかじゃなくて、グルメサイトとか情報誌に載ってないような、知る人ぞ知るっていう感じのお店に行ってみたいんだ」

 「軽めに食べられて高級じゃなくて、知る人ぞ知る店、か。了解」



 かなりご無沙汰だったが、思い当る店が一件浮かんだ。三丁目方面に向かっていたのを右折し、甲州街道の方へ脚を向ける。



 「いいところ知ってるの?」

 「個人的には好きな店だけど、ルナちゃんみたいな若い子が気に入るかな」

 「征景さんだって若いでしょう」



 お世辞には聞こえなかったが、十代の女の子に言われても全く説得力がない。



 「俺はもうおっさんだよ。四捨五入して三十だし」

 「嫌な喩えだね」




そんな雑談をしているうちに、程なく目的の店の前に辿り着いた。



昼は喫茶店、夕方以降はバーを営む「ルーチェ」は、新宿駅の東南口から甲州街道沿いに御苑方面へ十分ほど歩いてからさらに道一本入った、目立たない路地にひっそりと建っている。



お世辞にも華やかとは言えないが、蔦の絡んだ煉瓦造りの壁に木製のドアと、なかなか粋な外装をしている。一歩踏み入れれば、オレンジ色の灯りに照らされたカウンターと、その奥には百を超えるボトルが並んだ棚、そしてカウンターと対の壁際には四組のテーブル席が目に入る。店内のところどころに飾られたアンティーク調の絵画やインテリアは、マスターの古典趣味の賜物だ。




カラン、とレトロな鈴の音に迎えられて入った店内には、昼前にもかかわらず客の姿はなかった。若い男が一人、ブルースをお供にカウンター内で新聞を読んでいる。俺たちに気付くと顔をあげ、いらっしゃいとだけ呟きまた新聞に目を戻す。何度か見たことのある顔だった。マスターが唯一雇っている従業員のはずだ。



「シュウさんは?」

「買付けっす。夕方までには戻るって」



新聞から目を離さないまま、彼はまた呟くように答える。もの珍しそうに店内を見回しているルナちゃんをカウンター席に促し、自分もスツールに腰かけた。



ホットコーヒーを二つと、ルナちゃんが選んだフレンチトーストを注文する。新聞とにらめっこをしていた彼は意外にもすばやく立ち上がり、カウンターの奥にあるロースターでコーヒー豆を挽き始めた。



「ここのコーヒーは注文してから豆を挽いて、落としてくれるんだ」

「ドリップ用の器具って実物見るの初めて。なんかかっこいいね」



昭和を思わせる空間と異国情緒が混在した雰囲気が気に入ったのだろう。コーヒーが届くまでの間、彼女は飽きることなく、ステンドグラス調のランプや黒塗りの花瓶を眺めていた。



「こういうお洒落なお店って大学入ったらどんどん見つけられると思ってたけど、いざ入ろうとするとやっぱり敷居が高いんだよね。入口見ただけで終わっちゃう」



ブラックのコーヒーを少しずつ口にしながら、ルナちゃんは今どきの女子大生事情を語ってくれる。



「そもそも自分でお弁当とかご飯作る方が節約になるから、最近はほとんど外食してないの。一人暮らしってただでさえお金飛んでっちゃうから」

「学生が全部自分で賄うのはキツイよ。大学行ってバイトして、ご飯も自分で作ってで、ちゃんと寝られてる?」

「征景さんこそ、忙しくてお家帰ってないんじゃないの?なのにあんなくだらないことで呼び出しちゃって」

「いいって。どうせ会社に顔出すつもりだったんだ」

「でも、彼女さん置いてきちゃったんでしょ?」

「彼女?」

「指輪、してないから」




咄嗟に、左手に目をやる。それからベストの胸ポケットを探った。布越しにリングの感触があり、思わず深く息を吐いた。



「やっぱり」



ルナちゃんの言葉にも、溜息が混じっていた。



「征景さんが指輪してないときは、女の人の匂いがするんだよ」

「…本当に?」

「うそ。なんとなく」

「…まいったな」



降参した俺に、ルナちゃんは口の端だけでくすっと笑う。女の勘ほど侮れないものはない。



「そういう詞の曲があるの。二人でいるときは薬指の指輪を外して、っていう歌が」



下手な弁解はせず、そうなんだ、とだけ応えた。男の言い訳ほど聞き苦しいものもない。




「軽蔑する?」



コーヒーで喉を潤してから出来る限り平静を装って訊ねる。同じようにコーヒーを一口飲んでから、彼女は首を横に振った。



しばらく、子守唄のようなスローテンポのブルースと、カウンター内からの料理の音だけが響いた。ルナちゃんは、飲みかけのコーヒーカップの縁を指で撫でるように弄っている。アルトサックスのメロディーに合わせて、時間までもがゆっくりと流れているようだった。



呼吸とともに、一秒一秒が過ぎていく。



こんな時間ですらも、嫌いになれない




「一個だけ聞いていい?」



沈黙を破ったのは、いつの間にかこちらを向いていたルナちゃんだった。



「もう、忘れられたの?」



何を、と彼女は言わなかったし、俺も聞き返さなかった。彼女の心を知るには、その一言で十分だった。



「忘れないよ」



ポケットから取り出した指輪を、薬指にはめる。色あせかけたシルバーが、オレンジ色のランプの灯りを受けて小さく光った。



「こんなものがなくても俺は彼女を忘れたりしないし、なかったことになんて絶対できない」



薬指のリングが変わらない想いの証なのだとしたら、俺はこの指輪を外すべきなのかもしれない。



「あの人は、全部知ってる。あの人に会うときは、これ見よがしにつけておく必要なんてないんだ」



俺にとって、この指輪は記憶だった。



短い間だったとしても、一人の女を心底愛し、共に生きた証。



すでに思い出となってしまった日々を、消えない傷とともに刻み込む存在。




言葉もかけずに残してきてしまった、何も知らずに眠っているであろうひとを想う。




記憶という名の戒めは、俺を救ってくれたあの人までをも傷つける




「多分、死ぬまで忘れることなんてできないんだよ」



それまでじっと俺を見つめていたルナちゃんの目が、大きく瞬いた。すっかり温くなった、最後の一口のコーヒーを飲み干す。冷めてもキレはそのままだったが、水分を欲していた喉が余計に渇いた気がした。



「何かのきっかけで、痛みはなくなって吹っ切れることはあるかもしれない。だけど、記憶がなくならない限り、消し去ることは不可能だ。どうしようもないんだよ」

「それでも、忘れなきゃダメなんだよ」



今度は俺が瞬きする番だった。彼女の声にはまるで感情がなく、冷え込でいた。



「忘れようとしなきゃ、いつまでたっても縛られたままなんだよ?」

「それでも、できないよ」



温度のない彼女の言葉を、俺は強く遮った。ルナちゃんの表情までもが、一瞬にして凍りつく。



 「大切だった人を忘れなきゃいけないなんて、本気で思ってる?」



耳に届いた自分の声は、彼女に負けず劣らず冷たかった。酷な問いだとはわかっていたが、これ以上彼女に目をそらさせる訳にはいかなかった。

ルナちゃんは黙ったまま、睨むようにしてこちらを見据えている。と言っても、全く恐怖は感じない。彼女が今本当に見ているのは、俺ではない別の誰かのはずだ。俺も黙ったまま、そんな彼女を見つめる。再び、奇妙な沈黙が訪れた。




「お待ち」



低い声が聞こえ振り向くと、カウンターの青年がフレンチトーストのプレートをルナちゃんの前に出すところだった。ほぼ間を置かずに、ズボンのポケットから携帯電話のメールの着信音が響く。休日出勤をしている社員からだった。内容にざっと目を通し、横のスツールにかけておいたスーツの上着を羽織る。



「ごめん。会社から呼び出しがかかったから行くね。お代はこれで。好きなもの食べていいから」



すっかり目つきが戻りぽかんとしている彼女に五千円札を握らせ、アタッシュケースを持ち席を立った。



「ごちそうさま。マスターによろしく」



彼女に名前を呼ばれた気がしたが、振り返らずに走って店を出た。













すべてが集まり、回って、出て行ったと思えばまた集まる。夏の終わりの穏やかな土曜の昼すぎだろうが、この街は呼吸を止めず、回り続けている。



そんな忙しない街が、俺は嫌いじゃない。




東南口前の階段を上り人で埋まった歩道を通り抜け、ルミネワン前の交差点に出た。



幸いすぐに信号が青に変わって、人だかりが一斉に動き出し、混ざり合った。行き交う人波を横目に、俺は横断歩道から少し外れた車道を走り抜け、甲州街道から一本入った細道を行く。副都心の代名詞ともいえる東京都庁舎や高層ビル群に繋がっているこの通りは、比較的広い道幅の割には大通りに比べて格段に人が少ない。昼すぎということもあり、飲食店やカラオケのキャッチもほとんどいない。



無意識に、歩調が速くなる。正面に立つビルを見据えながら、俺はひたすらに脚を動かし続けた。




街は嫌いじゃないし、人混みも嫌いじゃない。



それでも、歩調を緩めたり、歩みを止めて街を見渡したりすることはしない。



街の呼吸を聴くには、街と同じように動き続けることが一番だ。





少しでも気を抜くと、腹に刻まれた烙印が疼く。




 忘れるなと

 背を向けるな、と



 いつ絶えるかもわからない呼吸を当たり前のように信じて、感じなくなって、存在すら忘れた時



 街と一緒に、俺もまた壊れるのだろう




無駄なあがきだとしても、歩いていたかった。



進むことはできなくても、脚を止めない限り、大事なものを見失わずに済む。





何より…―――





「わあっ!!」




膝の辺りから聞こえた声に、反射的に下を見た。



一瞬遅れて、足元に軽い衝撃が走る。道路に座り込んだ2,3歳の女の子が、額を抑えながら上目づかいに俺を見上げていた。


続いて前方から、ベビーカーを押しながらすみませーんと叫ぶ女性がやってくる。秋口だというのにノースリーブのロングワンピースをはためかせながら、ピンヒールのサンダルで懸命に走ってくる。ショップ店員並みに髪型もファッションも決めていながら、しっかりメイクが施されたその顔は、紛れもなく母親の表情をしていた。



零れそうになった苦笑を飲み込んで、俺は涙を溜めた瞳で見上げる女の子の前にしゃがみ込み、その小さな頭を軽く撫でた。



「ごめんね。どこか痛い?」



何が起きたのかを懸命に理解しようとしているらしく、女の子は何も言わないまま、俺を見つめたままでいる。地面にへたり込んでいるままの彼女を立たせて、服の汚れを払いながら怪我がないかを確認する。見たところ、特にすりむいてなどはいないようだった。



「すいませんでしたー。大丈夫ですか」



到着した母親が女の子を抱き上げ、しきりに頭を下げた。抱きかかえられながら、女の子はまだ俺の方を眺めたままだった。もう一度頭を撫で、バイバイと手を振ってから母親に会釈し、その場をあとにしてまた走る。




女の子のせきを切ったような泣き声を、背中越しに聞いた。





ゆきさんのお名前、読み方は「ゆきひろ」です。漢和辞典で調べました。


この男もまた面倒な人です。奥さんに対してと馨さんに対しての感情は全く違うのに、彼にとってはどちらも「愛している」になるみたいです。的な。


次回はルナちゃんと、謎の青年の絡みでございます。



ありがとうございました!


 

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