【2】 Ⅲ-7,opposition
骨がイカれるくらいに殴られた肩も
スタンガンで喰らった火傷も
思い切り壁に打ち付けた額の傷にも
痛みなど、微塵も感じていなかった。
ただ、心臓だけが握りつぶされるように苦しかった。
初めて覚えた、苦痛だった。
「おわか、れ?」
振り向かないまま、ルナは俺の言葉を繰り返す。
顔は見えなくても、声でわかった。
彼女は、泣いている。
「君の護衛は、終わりだ」
努めて、情を出さずに告げる。錆びたような声だった。
「これからは、もっと優秀な奴らが何人もつく」
「どうして」
声が、今にも崩れてしまいそうな背中が、震えている。視線を逸らして、床を眺めた。彼女の素足が、視界に入った。
「昨日、あんなことがあったから?」
答えずにいる俺を、振り向いた濡れた瞳が捉える。
締め付けられていた心臓が、裂けるように激しく鼓動した。
初めて目にした彼女の涙が、頬を伝っていた。
「だって、怪我なんてしてないし、ちゃんと護ってくれたのに」
「君を、危険に晒した」
「私平気だよ?全然、怖くないよ」
裸足で歩み寄る足取りは、覚束ない。
「出かけるのが危険なら、外になんて出れなくていい。危ないこともしないし、どこにも行かなくていいから」
「それじゃ、駄目なんだよ」
抑えていた感情が溢れる。びくん と、ルナの肩が痙攣する。
「俺は、おまえから自由を奪ったんだ」
口に出して、改めて胸に突き刺さる。両方の拳を固く握り締め、不甲斐なさに耐える。
「昨日の一件で、君の警護は一層強化されることになった。複数のチームが二十四時間体制で君を監視することになる。新宿のマンションから白金の家に戻されて、外出も今まで以上に大幅に制限される。君が望んでいた自立した生活とは、かけ離れた暮らしになるだろう」
もし、あの時の予感を信じていれば
浮かれてなんて、いなければ
「俺では、力不足だった」
「そんなことない」
かぶりを振るルナと同じように、俺もゆっくりと首を振った。一方で、懸命に止めようとしてくれる彼女の言葉に救われてもいた。
「何度も助けてもらって、いつも傍にいてくれて」
いとも容易く惑うめでたい思考回路に、我ながら呆れる。
息が詰まるほど苦しいはずが、その泣き顔にさえ、魅せられている。
「やらなきゃいけないことがある」
未だに揺らいでいる迷いを振り切り、目を伏せた。放っておけばこみ上げてくる想いを抑えつけて、できる限り非情を装う。
「征景とは、もう話をつけた」
機械的な口調を意識すればするほど、固めたはずの決心が揺さぶられる。
「護衛の契約は昨日付けで解除、明日からは別の任務につく」
「お店は、ルーチェは」
「おっさんが帰ってこない限り、休業だ」
「でも、また会えるよね?」
限界だった。
これ以上はもう、隠せない。
「わからない」
制御が狂いかけた舌先を、口を閉じて強く噛む。
あと一言でも余計な何かを口走れば、全部が崩れる。
痛いほどの眼差しを感じながらも、無言を貫く他なかった。
重い静寂の中、舌に食い込む痛みとともに、本能に駆られそうな本心を戒めていた。
「だめなの?」
詰まった声が、静かに沈黙を破る。思わず反応した目を、素早くまた足元に戻した。
「どうしても、さよならしなきゃいけないの?」
できるなら、即座に否定したかった。
意に反しての決断ではなく、仕方のない理由があるわけでもない。
ただ、選べなかった。
より理性的な判断を覆せる度量も、強さもなかった。
「ごめん」
意を決して、その泣き顔を、潤んだ瞳を見つめて告げた。
瞬かれた目から、涙が落ちる。その一雫と一緒に、糸を失った人形のように、ルナは膝から崩れ落ちた。
一瞬我を忘れて駆け寄り、手を伸ばしかけ、その掌を宙で強く握り締めた。
すべてを覆し、かなぐり捨てたくなる衝動が、決壊寸前だった。
今ここで、何もかもを伝えてしまえればどんなに楽か。
昂る心のままにかき抱いて、消えない証を刻めたら。
想像するだけで、どこまでも浅はかな自分に殺意が湧いた。
「ルナ、俺」
「大丈夫」
床に座り込んだまま、ルナは俺を遮る。
「大丈夫だから」
長い髪と影に隠れたその表情は、見えない。声は細く、宙に消える。
「ひとりで、ちゃんとやれるから」
「でも」
「早く行って!」
涙が滲む両目でルナは鋭く俺を見据え、叫ぶ。
そして、柔らかく微笑んだ。
激しい脈動のあと、心臓が止まったような気がした。
「今まで、ありがとう」
喉の奥が熱かった。血が、唸っている。
本能が、もがいている。
重い唇を動かし、応えたつもりだった。
自分の耳に届いたのは、呻き声に似たおかしな音だけだった。
少しの沈黙ののち、ルナはまた小さく笑みを見せた。
自分がどんな顔をしているかはわからなかった。長い時間をかけて、その微笑から背を向ける。枷にでも囚われたように重い足で、出口のドアへと歩む。
これでいい。
何度も何度も、思考を放棄し空になった頭の中で繰り返す。
別れの言葉も、再会への希望も、未練も、何も残していくわけにはいかない。
冷淡だと失望されても、勝手だと憎まれても、やがて記憶から消え失せ、忘れ去られたとしても構わない。
ひたすら、そう言い聞かせた。
「晃斗くん」
ドアノブを握ったところで、ルナの呼ぶ声が届いた。振り向かず、扉を開けて、部屋と外の境に立ち止まる。
呟くように告げられた最後の言葉を、瞼を閉じて、脳に刻み込んだ。
消えないように、願った。
これから先どんな目に遭おうと、自分のことさえ思い出せなくなったとしても、何があっても忘れたくないと、そう思った。
自分にだけわかるように、小さく、返事をした。
堰を切った嗚咽を、薄いドアが閉まった音の向こうに聞いた気がした。
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海外ドラマみたいにシーズン1っていうのはなんか格好良すぎて違和感があって、本ではないから巻も変だし舞台じゃないから幕も変だし何が言いたいかって言うとひとまず次で第一シリーズ分完結です。