【2】 Ⅲ-6,Dewdrop
次の日、目が覚めたのは昼過ぎだった。
馨先生は一晩中ずっと付き添ってくれていたらしい。私の体調を確認したのち食事に誘ってくれたけれど、何も食べる気が起きず断った。
「何か少しでも、口に入れなきゃダメよ」
食い下がらない私に昨日と同じようにミルクティーを淹れてから、馨先生は帰り支度を始めた。言葉にこそしなかったけれど、昨日の夜からまともに眠っていないようで、目元に疲れが滲んでいた。
「見送ります」
「いいわよ。迎えが来るまで休んでなさい」
コートを羽織りブーツを履いた馨先生のあとについて、玄関のドアから外に出ようとした、その時だった。
「これより先は、お控えください」
馨先生との間に、小柄な女の人が滑り込むように割って入ってきた。続いて、扉の影から男の人がその顔を出す。
「何よ、あんたたち」
馨先生が声をあげる。どちらもスーツ姿だったけれど、ビジネスパーソンには見えなかった。
「本日より、黒羽ルナさんの警護を担当させていただいております」
女の人がそれぞれの名前を紹介してから、短くそう告げる。セキュリティ会社から派遣されてきた とも続けた。
「依頼人であるお祖父様、黒羽征成氏のご指示が入り次第、こちらのお部屋からご自宅までお送りします。それまではお部屋内で待機していただくよう、お願いします」
穏やかな口調ではあったけれど、有無を言わせない圧力がそこにはあった。疑問しか浮かんでこない私をよそに、彼女は続ける。
「外出の必要がありましたらお申し付けください。我々二人で、この場で引き続き警護をしておりますので」
「ちょっと、待って」
ようやく出せた声は、情けないくらい弱かった。
「晃斗くんは」
その名前に、二人とも怪訝な顔をした。今までボディガードをしてくれていた人だと説明する。やはり、どちらも面識がないらしかった。
「前任者の方については我々は何も伺っておりません。詳しいことは、依頼人である黒羽氏にお尋ねになった方がよろしいかと」
「昨日の事件を受けて、急遽手配されたってわけね」
部屋に残ろうかと馨先生は申し出てくれたが、私は一人で大丈夫だと言った。いつでも連絡してね と残して帰って行く先生の姿を、廊下の角を曲がるまで見送る。その間も、二人のボディガードの人たちは私と扉の間に立ちはだかっていた。
「ご帰宅の指示が出ましたら、お声掛けします」
「あの」
用は済んだとばかりに私を部屋の中へ戻そうとする女の人の方に、問いかける。
「家って、新宿のマンションですか」
「いいえ。白金の、ご実家です」
声にならない溜息が、勝手に出た。音も立てず閉じたドアを背に、無意識に再びベッドに横になった。昨夜感じた堅さと匂いは、消えていた。
昨日の事件、別人みたいだった晃斗くんの形相、ぐちゃぐちゃになった私自身の意識と、ぼんやり覚えている夢。全部が心の中で入り乱れ、まともに働かない頭をさらにかき回す。一晩経って記憶が整理された分、次々に湧いてくる疑問と考えられる可能性たちは、余計に収拾がつかなかった。
どのくらいかの間そうやって逡巡したあと、ベッドの脇においてあったクラッチバッグからスマートフォンを取り出し、晃斗くんに電話をかけた。
長いコールのループが続く。祈りと焦りで、携帯を握りしめる力が強まる。
やがてコール音が途切れ、間延びした電子音が繰り返す。ディスプレイにも、通話終了の文字が映っている。自分で終話ボタンを押してしまったのかもしれないと、もう一度同じ番号にかけた。今度は、電波が届かないか電源が切れているとの声が流れた。
電話の向こうに、晃斗くんはいるはずだった。なのに、私との会話を拒んだ。
一度だけ、お店に出ていて電話に気づけなかったと言っていたあの日以来、晃斗くんが私の電話に出なかったのは初めてだった。
神経が痺れそうな指を動かし、電話帳で別の番号を選んだ。二人目の相手にも繋がらず、留守電に伝言を残す。
半日ほどの間に色々な出来事が起こりすぎて、思考が全然追いついていなかった。順を追って考えようにも、わかっていない情報や事情が多すぎた。
今、はっきりとわかっていることはただ一つ。自分の一番強い気持ちだけだった。その想いを支えに頼みの綱を手繰り寄せるしか、この閉ざされた空間で私にできることはなかった。
「ごめんね、電話取れなくて」
ヒロくんが折り返しで電話をくれたのは、随分あとだった。実際は三十分も経っていなかったけれど、他に何もできずにいた私には、何時間も待っていたような気分だった。
「留守電聞いたよ。俺も本人に連絡してみる」
予想通りの、期待とは裏腹な答えだった。
「何も、知らないの?」
「今のところ。教えてあげられることは、何もないんだ」
いつも甘えっぱなしの私の我儘を聞いてくれて、できることはなんでもすると励ましてくれて、この人の力を借りれば、なんでもうまくいっていた。
でも と、それまで気づかないふりをしていた疑念が、膨らむ。
「私が聞いてるのは、教えてくれるかくれないかじゃないよ」
声が高ぶる。当たってもしょうがない。わかっていても、苛立ちに飲まれていく。
「ヒロくんは依頼人なんでしょう?晃斗くんに私が会いたいって伝えて。晃斗くんに、会わせて」
「答えは、同じだよ」
熱くなった私に対し、ヒロくんの声はどこまでも冷静だった。
「俺ができることは、何もない」
疑念が、心の中で形を持つ。もう、気づかないふりはできなかった。
「お祖父様に、そう言われたから」
「そうだよ」
告げられた事実は、思ったよりもすんなり腑に落ちた。
ヒロくんが今まで私を助けてくれていたのは、私のためなんかじゃなかった。
怒りは沸かなかった。悲しくも、虚しくもならなかった。
「だったら、帰らない」
嘆いている暇なんてない。目を瞑って、天井を仰ぐ。
「晃斗くんと一緒じゃなきゃ帰らない。どこにも行かない」
「ルナちゃん、落ち着いて」
「落ち着いてるよ」
嘘ではなかった。頭の奥が冴えて、肩の力が抜けていくような気がした。
「お祖父様が何か目的があって私を振り回すなら、私は私の思うように、やりたいようにする」
我儘を言っている自覚はあった。でも、たとえ生意気だと思われても、もう構わなかった。
「もし、お祖父様と話すことがあったらそう伝えて」
「待って。どうするつもり」
「それから」
問いかけを遮って、たくさん浮かんできた言葉から、一つだけ選んで、告げた。
「もう、心配しないでいいよ」
少しの間のあと、ヒロくんはわかった と静かに答えた。また少し無言が続いて、私から電話を切った。指先一つのその動作を、自分なりに、丁寧に終えた。
裸足で降り立ったカーペットは、土足用とは思えないくらいの肌触りだった。
昨日の一件で履いていたタイツには伝線して穴があき、使い物にならなくなっていた。借りていたドレスやアクセサリーは馨先生が着替えさせてくれたらしく、代わりに今身につけているのは、ファストファッションブランドのフード付きのワンピースだった。綿素材で軽く、身体を温めようと激しめに体操をしても、動きづらさはない。
お腹のあたりについていたポケットは、財布とスマートフォン、それに家の鍵を入れただけで重みで垂れ下がってしまっていた。ほかの持ち物は、クラッチバッグに入れたままテーブルに置いてある。最低限必要なハンカチや小物くらいしかなかったので、未練はなかった。
少ない荷物と一緒に、膝を使って何回か跳んでみる。重力に遊ばれて、ポケットのところだけ動きが遅い。その効果なのか、身体がやけに軽く感じられた。
空は綺麗に晴れていて、青い。外の景色と建物の窓の数から計算して、ここは九階か十階、地上三、四十メートルくらいのはずだ。三階分下あたりのやや右寄りに、屋根のように出っ張った、アーチ型のスペースがある。うまく着地できれば、そこからさらに降りられるかもしれない。この籠みたいな空間から、脱出できる。
ベッドに登り、縁から窓枠へ足をかけて立った。吹き込んでくる冷たい風が、皮膚に刺さる。冬場の冷気に加えて、上空数十メートルで不規則に吹き荒ぶビル風は、素足には辛い。もたもたしていたら、感覚が麻痺してうまく降りられなくなる。暴れる髪をパーカーのフードを被って抑え、遥かな地表を見据える。
意気込みとは裏腹に、風向きも風速もなかなか収まってはくれなかった。無理をすれば、ただでさえ軽装で危険なのに強風で煽られてしまう。だからと言って、だんだんかじかんでいく指先と足先も、待ってはくれない。思案している間にも、せっかく暖めた身体は冷えていく。意識して、深く、ゆっくり呼吸した。高ぶる心臓と脈が、気持ちだけを焦らせていく。
聳える建物は生き物みたいに大きく、広く開いたアルファベットのVの字ように途中で折れ曲がり、内側の壁側面が向かい合うようになっていた。角度と位置によっては、多少距離はあっても壁づたいに降りていく姿は丸見えになるはずだ。
例えば、狙撃なんてされたらひとたまりもない。いつもならフィクションみたいに軽い気持ちでするような想像が、昨日の事件のせいかやけに鮮明に浮かんでくる。
思わず辺りに走らせた視線の先に、人影があった。男の人がちょうど向かいの部屋かの窓から身を乗り出して、口元に手を当てて声を上げている。かなり距離があって、何を言っているかは聞こえない。気を散らせたくなかったので、無視してまた遠くの足場に目と意識を戻す。イメージだけに集中して、その時を待つ。
風が、途切れた。
脚に力を入れ、歯を食いしばる。
今なら、行ける。
飛ぼうとしたまさにその時、突然昨日の頬の傷が痛んだ。
絆創膏の下で、ちりちりと焦げるようにそれは疼く。
固めたはずの覚悟が、奪われる。
脚が、身体が、動かない。
耳に風の唸りが襲ってきた。堪えていた空気の冷たさも、凍えた指先の痺れも戻ってきてしまった。焦点が定まらない。鋭利すぎる感覚に、脳の深くから、支配される。
踏み台にしていたベッドに、頭から落ちるように後ろ向きで倒れ込む。目を開けているのが辛くて、瞼をぎゅっ と、痛いくらいに強く閉じる。
負けた
飛べなかった
自分の何もかもが、使い物にならない
もう、どこにも行けない
どれくらいか経って、さっきの女の人が部屋に入ってきた。危ない真似をするなとか自覚を持てとかいろいろ言われたけれど、ほとんど耳に入ってなんてこなかった。窓辺からベッドにダイブしたまま動く気力もなかったので、話の間も私は逆さになって寝そべっていた。行儀の悪さに呆れたのか、女の人はもう少し待っているように と残してまた出て行った。
再びひとりになっても、頭はまともに働かなかった。小さな疑問がぽつり、ぽつりと浮かんではすぐに消える。身体は重いのに、思考は行き場なくふわふわ漂っている。意識は保ったまま、夢を見ているような気分だった。
こうしてずっと動かないでいて、何も感じなくなればいい。
何も考えず、意識なんて手放して、生きるための行為を一切やめて、ゆっくりと、腐っていくように終わりの時を待つ。
自分の足でどこにも行けないなら
もう、会えないのなら
身体も、五感も、心も、何もいらない。
ずっと眠ったままでいい。
身動き一つしないままただ横倒れているうちに、朦朧としていた頭の中も、少しずつ黒く塗りつぶされていった。砂の中にゆっくりと沈んで、混ざり合っていくみたいだった。
溶けていく意識の中に、遠くの方で、何かが刺さる。
単調に、でもクリアに、それは何度も何度も繰り返される。
何回か耳で拾ったあと、ようやく部屋のチャイムの音だと認識できた。
消える寸前だった思考が、苛立ちに変わっていく。
私の意思なんて構わないでいたくせに、今さらお伺いをたててくる訳が分からない。
さっきみたいに、スペアキーでもなんでも使って、勝手に入ってくればいいのに。
もう、どうにでもすればいい。
あなたたちと同じような操り人形に、私もなってあげる
「ルナ」
チャイムの音が、声に変わった。
無機質な機械音が、ノックになる。
私の名前が聞こえたのは、最初の一度だけだった。
空耳かもしれない。
でも、ずっと待ちこがれていたその声を、間違える訳なんてない。
重い身体をなんとか起こして、脚を引きずりながら、それでも歩いて玄関に向かった。
ノックはもう聞こえない。
戻ってきた静けさに、本当に幻聴だったのではなんて気さえする。
それでも、もしこの扉の向こうにいてくれたなら
ゆっくりと押し開けたドアの向こうに、最初に見えたのは警護の男の人だった。
私に気づくと、廊下の間に立ちふさがる。だけど、顔は全然違う、横に伸びている廊下の先の方を向いていた。微かな足音が遠のいていくその方向に、隙間をかいくぐるようにして私も顔を向けた。
「晃斗くん!」
頭に包帯を巻いて、でもそれ以外は全身黒に身を包んだその後ろ姿が、振り向く。
もう一度呼ぶのと同時に、私は駆け出していた。
「待ちなさい」
腕を掴まれ、踏み出しかけた足がもつれた。バランスが崩れて、膝が床にぶつかる。
「放して」
「外に出てはいけません」
女の人の方が、身体ごと私の視界を塞ぐ。その間も腕と、それに肩が、背後から男の人に捕まっていた。
「放して、行かせてよっ」
「ルナ」
また、晃斗くんの声がした。警護の人たちの間から捕まっていなかった方の私の腕をとって、立ち上がらせてくれる。懸命に力んでいた身体から、すっ と力が抜けていく。
「中で話そう」
背中を促す手は優しく、考える前に私は頷いていた。晃斗くんが、男の人に何かを伝える。私に続いて晃斗くんも部屋に入り、警護の二人を残してまた扉が閉まった。
音のない空間に、私と、晃斗くんが立っている。
「晃斗くん」
まだ、夢なんじゃないかと、頭の半分くらいが疑っている。声に出して、両手を強く握り締めて、それを確かめる。
「大丈夫か」
無言を断ち切ったのは、晃斗くんだった。
「昨日の、あれから」
「平気だよ。どこも痛くないし」
本当は全然大丈夫なんかじゃなかった。
声が聞きたくて、話がしたくて、でも会えなくて、おかしくなりかけていた。
なのに今、こうして傍にいるのに、まともに言葉が出てきてくれない。
「私より、晃斗くんは」
「大したことない」
「でも、晃斗くんの方が怪我してるよね?その、頭のところ以外も」
「それより」
一日会ってないだけなのに、晃斗くんも、私も、どちらもどこかぎこちない。
「さっき、窓から飛び降りようとしたって」
「別に自棄になってたんじゃないよ。ドアから出られなかったから窓から逃げられないかなと思って。結局ダメだったけど」
おどけてみせても、空気は重いままだった。晃斗くんは怒っても、笑ってもいない。いつもと、顔が違う。
いつものように、私の目を見ていない。
「昨日、電話繋がらなくて、心配したんだよ」
一歩歩み寄って、その視線の先に入る。
「ちゃんと話がしたくて」
「ごめん」
「でも、こうやって来てくれたからいいんだ」
座って と席を勧めても晃斗くんが動かなかったのは、お茶を淹れるふりをして背を向けてもわかった。
「聞きたいこと、いっぱいあるんだ」
「ルナ」
「先に話させて。晃斗くんも話したいことあるかもしれないけど」
「聞いてくれ」
「別に今じゃなくても、家に、部屋に帰ってから、ゆっくりでも」
「ルナ」
一際大きく、だけど低く通る声で呼ばれて、必死の抵抗はあっけなく崩れた。
「もう、あの部屋には帰れない」
身体も頭も何一つ動かせないまま、詰まりそうな呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「お別れを、言いに来た」
世界が、止まったみたいだった。
ずっと堪えていた涙が、零れて、頬を伝って、落ちていった。
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パーカーのポッケは四次元に繋がってるんだよ!