【2】 Ⅲ-5,Dizziness
月の灯りだけが、部屋を照らしていた。
誰かが彷徨うように歩み寄って、私を見つめる。
黒い服に身を包んだその人の手を引く。よく知っている香りが、ふわりと舞う。
月光に浮かんだその姿は今にも霞んでしまいそうで、縋るように、その身体に腕を回した。
冷たい床と彼の体温に挟まれ、肌に熱が沁みる。名前を呼ぶと、乾いた唇が重ねられた。熱い手が、私の身体中を探る。私を呼ぶ声と呼吸が、全身を溶かすように流れ込む。
彼の肌と、熱ともう一つ、暖かい何かが身体を濡らす。血だった。深く紅いそれは、彼から滴り、流れていた。
手を伸ばし、とどまることを知らないその紅ごと、彼に触れる。綺麗な漆黒の瞳は虚ろで、泣いているようにも見えた。
抱き締めていても、その感触も温度も消えてしまいそうで、怖かった。
私は、ここにいるよ
想っても、声にならない。強い指が私の喉を優しくなぞって、きつく締め上げる。
ここにいるよ
ずっと、いるから
だから、行かないで
ぼんやりしたままの意識の中、飛び込んできた眩しい明かりに目が眩んだ。
瞬きを繰り返して、瞳と頭を覚ます。少し硬い布の感触で、自分が寝かされていたことを悟る。
「ルナちゃん」
誰かの影が、照明の明かりを遮る。暗くて顔がよく見えなかったけれど、覚えのある声と香りで、すぐにわかった。
「馨、せんせい」
「気分はどう?どこか痛くない?」
首を振って、大丈夫だと答える。左の目の下あたりに、違和感があった。触ってみると、絆創膏のようなテープが貼ってあった。
「浅かったから、痕にはならないはずよ」
いつの間に、怪我でもしたのだろうか。ぼんやりと思考を辿る。すぐに蘇ってきた記憶に、背中がぞくり と震えた。
「無理に思い出さなくていいのよ」
声に出さなくても、馨先生にはわかったようだった。
「全部、覚えてます」
のりの利いたベッドの上で起こした身体は重く、一瞬頭がぐらつく。
「あれから半日も経ってないわ。ここはパーティーをやってたホテルの一室で、怪我はその目の下の傷だけだったから、とりあえず落ち着くまでってことで運ばれてきたみたいよ」
私の質問を先回りして、馨先生がすらすらと話す。
「全部覚えてるってことは、少なくとも脳には問題はないみたいね」
何か飲む?と尋ねられ、首を振った。喉は渇いていたけれど、気になんてならなかった。
「晃斗くんは」
馨先生の顔色が変わった。渇いていた喉に、錘が落ちてきた気分だった。
「あんなに怪我して、まさか」
「大丈夫よ。頭と、あと何か所かに打撲があっただけ。今まだこのホテルのどこかにいるんじゃないかしら」
「…よかった」
思わず息を吐いた私を見て、安心させようとしてか、それとも自然にか、馨先生は優しい目で笑う。それから、飲み物を頼んだ。ほっとしたせいか、喉の渇きも、空腹も、身体のだるさまで一気に舞い戻ってきた。
「備え付けの在りあわせだけど、我慢してね」
受け取ろうとしたカップを、だけど私はひっくり返してしまった。熱いお茶が白いシーツに染みて、柔らかく滑り落ちる。
「ごめんなさい」
「いいの。火傷してない?」
「拭かなきゃ」
「いいから、横になってて」
止めようとする馨先生の脇を通り過ぎる前に、何もないカーペット敷きの床で足がもつれ、つまずいた。横でかがむ馨先生の声が、遠くにしか聞こえない。
「無理しちゃだめ。寝てなさい」
ようやく先生の声を認識できたときは、抱え上げられてベッドに横たわらされていた。
「まだ薬が残ってるのよ。動くと身体に障るわ」
言われて、鼻の奥に残る刺さるような感覚と、倒れていく晃斗くんが、頭の中に蘇る。切れ切れだった場面が閃くように現れて、連なっていく。
信じられなかった。
無地なはずの天井に、あの時の光景が映る。
肩が、腕が、震えている。
「いつもの晃斗くんじゃ、なかった」
何度呼んでも、何を言っても届かなくて
私のことも、何もかも忘れて、言葉も、心もなくして
目の前の存在をただいたぶって、壊そうとしていた彼は、私の知らない晃斗くんだった。
あれが、彼の本当の姿だったのなら
いつも傍にいながら薄々感じとらずにいられなかった、彼が隠そうとしていた本質なら
決別しようとしていた過去だったのなら
「私の、せいなの?」
呼吸さえも、痛い。
「私が、攫われそうになんてなったから」
「ルナちゃん」
「こんなところに、来たから」
懸命に話しかけてきてくれる馨先生の声が、うまく聞こえない。勝手に目の奥から滲んでくる涙を、瞼を瞑って押し止める。
身体を起こされ、口元に暖かいマグカップが運ばれる。飲み物よりも、馨先生の柔らかい匂いが沁みた。喉から身体の中へ広がる温度を感じながら、湧き上がってきた微睡みに任せて目を閉じた。
霞む意識の中に、虚ろな目で血を滴らせる、晃斗くんの姿が浮かぶ。
薄暗い部屋とぼんやりした月明かりに、デジャヴを覚えた。いつ見た光景だったか、夢だったのか現実の光景だったのかは、思い出せない。
呼んでも傍に来ないまま私を見つめる彼は、やっぱり泣いているように見えた。
夢だとわかったのとほぼ同時に、視界も思考も、真っ暗になった。
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ホテルのリネンののりの効きの完璧さが怖くなることがたまにあります。