【2】 Ⅲ-4,Obsessed
自分が我を忘れていたのだと認識するのに、時間がかかった。
怒りに支配されていたと気づくまでに冷静になったのは、彼女が呼んだ俺の名が届いたおかげだ。
背後からの襲撃は、咄嗟に腕で防いだ。骨に嫌な音が走ったが、痛みはなかった。衝撃は吸収しきれず、横にいた彼女ごと吹っ飛ばされた。
床に倒された女の姿が、身体の器官のすべてに火を付けた。
そこから彼女の声を確かめるまで、自分がどう動いたのかはわからない。一発目を受けた右腕と、脇腹と、それから左の肩あたりに痛みが戻ってきていた。
膝をつきそうだった脚に力を入れ、肩口に振り下ろされた棒らしき武器を引っ掴み勢いよく捻る。襲撃者の手が緩んだところを間合いを詰め、思い切り腕を払い武器ごとその横っ面を張り飛ばした。
よろけながらもその勢いで再び殴りかかってきた相手の拳を痛みのない方の腕で受け、奪い取った武器で首に一撃入れる。すかさず崩れた身体を引き寄せ膝を肺にめり込ませ、無防備になった顎に至近距離で拳を見舞った。
糸が切れたようにその場に崩れた襲撃者は、年寄りの男に化けてはいるが、なかなか頑丈な奴で意識は飛ばしていないようだった。戦闘用に改造されたステッキを放り、倒れたでかい図体をさらに床に押し付けて、捻り上げる。腕と脚に力を込めたまま、首だけで彼女の方を振り返った。
「大丈夫か」
座り込んだままだった彼女は、はっとしたように頷く。
「怪我は」
「ない、と思う」
声は震えてはいたが、今度はしっかりと返事をした。
「俺の横に来て、離れるな」
ゆっくりとではあったが立ち上がって歩いてくる彼女を視界に捉えながら、倒れている男に意識を戻す。
「今からする質問に、五秒以内に答えろ」
奴を押さえつけている膝と脚が、その荒い呼吸とともに上下する。
「何故俺たちを襲った」
声に出さずカウントし、五秒経った時点で押さえていた腕を掴み、その付け根の肩を思い切り圧迫した。品のない、悲鳴に似た叫び声が上がる。
「反対側の肩も外されたくなかったら、答えろ」
逆側の腕を引いたところで、辛うじて言葉と形容できるような声が漏れた。
「頼ま、れた」
「誰に」
「知ら、ない...インターネットで、依頼、された」
イントネーションに違和感があった。呼吸器にダメージを与えている以上意図的か自然のものかは判断できないが、日本人ではないのかもしれない。
「依頼内容は」
「あんたの、データと、写真が送られてきて...今夜、この、ホテルで、痛め、つけろと」
「俺だけか。こっちの、彼女の方は」
「何も、触れていなかった。本当だ。ただあんたを動けなくしろと、頼まれた」
「仲間は」
「いない。嘘では、ない」
狙いは、ルナではなく俺だったということだ。しかも、痛めつけろとは、何の為にか。怨恨ならば心当たりは数え切れない。だが、何故わざわざこの場で、しかも彼女といる時を狙ったのか。
考えるべきことは山ほどあったが、やるべきことを優先した。ベルトの裏からプラスチックのコードを取り出し、奴の両手両足首を拘束し留める。それから念のためネクタイを使い、猿轡にして噛ませた。図体はでかかったが運べない重さではなかったので、壁際に引っ張って再び床へ転がす。
襲撃者の処理を終わらせ、征景に連絡を入れようと携帯電話を取り出す。電話帳を起動させたところで、立ち竦んでいた彼女と目が合った。
「大丈夫か?」
通話ボタンを押す前に、もう一度訊ねた。顔色が悪く、怯えているのは明らかだった。
「今、征景に連絡する」
「それより、晃斗くんが」
間近まで伸ばされた細い指が、触れる直前で躊躇う。
「怪我してるんでしょ?あんなに殴られたり、蹴られたりして」
言われて、ようやく麻痺していた感覚が徐々に戻ってきた。折れてはいないだろうが、身体のところどころが嫌な熱を持ち始めている。
「大したことない」
「でも」
「俺より、おまえが」
言葉は続かなかった。
痛みどころではない衝撃が全身を駆け巡り、そのまま床に衝突した。
遠くで、彼女が叫んでいる。俺の名前だ。
何が、起きた?
薄れゆく意識の中、思考の糸を懸命に手繰り寄せる。
ひどく重い頭を動かし、落ちてくる瞼をこじ開ける。
誰だ
あれは、何だ
彼女は?
閃くように、意識が戻った。
身体が、言うことを聞かない。
「ルナ!」
叫んでも、返事はない。
走り去った影が、通路の先のエレベーターホールにいるのが見えた。
その手前、目の前には片方だけのミュールと、イヤリングが落ちている。彼女のものだ。
まともに動かない身体に鞭打ち、壁に思い切り頭をぶつけた。一瞬飛びかけた意識が、脳まで響いた痛みと、唇に届いた血の味で戻ってくる。痺れが残る足を踏み出し、エレベーターホールへ全速力で向かった。
四角いカートとそれを押す人物を飲み込んで閉まりかけたドアに、爪先と片手を突っ込み力任せにこじ開けた。体勢を低くし、一気に身体を滑り込ませる。籠が揺れ 、扉が再び開く。
人影が、飛びかかってきた。その勢いを利用して後頭部を掴み、再度閉じかけていた扉に顔面から突っ込ませる。鈍い音ともに、奴は滑り落ちるように床へ崩れた。清掃員らしき服装のその男が完全に失神していることを確認し、カートの中を覗く。
「ルナ、しっかりしろ。ルナ」
普通なら掃除用具が入っているようなその中に、彼女は押し込められていた。抱え上げた身体はぐったりとしていて、意識がない。素早く呼吸と脈を確認する。
「ルナ、わかるか」
何度も何度も、その名を呼んだ。肩を抱き、揺らし、呼び続けた。透き通った肌と力なく揺れる身体が、鼓動を加速させる。
頼む、頼むから
目を開けてくれ
閉ざされた瞼が、小さく動いた。
「ルナ」
潤んだ両目が瞬き、俺を見つめる。
「あき、とくん...?」
瞳が、唇が、指先が動く。何の躊躇いもなく、俺はその身体を抱いていた。
「よかった」
脈と呼吸が、身体越しに伝わる。背中に手が触れ、弱々しく、でも確かに、ルナは応えた。
「晃斗くん」
不意に、確かに感じていた感触が消える。再びぐったりと俺の腕に身を委ねたルナは、力なく笑った。
「安心したら、気抜けちゃった」
昂っていた神経が、一瞬で和らぐ。怪我がないことを確認し、立たせようと手を差し伸べる。だがその指先が手のひらに触れた、その時だった。
「危な...!」
ルナの叫び声と、同時に響いたのは銃声だった。
眼前には赤が飛び散り、無様な呻き声が狭い箱に反響する。
腕の中のルナは、震えていた。青ざめた頬に、一筋の傷が血を滲ませている。
耳の奥で、糸が切れた気がした。
その場からひと跨ぎで床に転がる男の傷口に着地し、ありったけの力と体重で、踵をめり込ませた。雷のような絶叫が、またも無様に轟く。奴の手から溢れる血は止まらず、床に赤い染みを作っている。
血まみれの手を思い切り踏みつけたまま、襟首を掴んで仰向けに転がす。銃口を額に突きつけながら、ポケットや服の下を探った。血にまみれて床に落ちた拳銃の他は、両刃のダガーナイフ一本だけだった。
額からこめかみに銃口を移動してから、刃渡り十五センチほどのそのナイフを、奴の眼前で無造作に動かす。しばらくその動きを続けたあと、不意に柄を握り直し、勢いをつけて振り下ろす。頬を抉る直前で加減し、左目の下辺りに傷をつけた。
「報いだ」
ナイフの柄を握り締めたまま、その拳を喉の気道目がけて振り下ろした。頚動脈間近で刃をコントロールしながら、同じ箇所を繰り返し殴り続ける。むせて苦しんでいた呻きが止んでも、拳の動きは止めない。
楽になどさせない
苦しんで、悶えて、血と、酸素と、命を乞え
死ぬまで逃れられない苦痛を、恐怖を
「晃斗くん...っ」
無心に落としていた腕が、止まる。柔らかな身体が、背中に触れていた。
「ルナ...?」
「...もう、いいから。大丈夫だから」
脳天に昇りきっていた血流が鎮まり、全身を巡り始める。肩越しに振り向くと、ルナも俺を見つめた。密な睫毛に縁取られた目と、唇が弧を描く。
「大丈夫、大丈夫だよ...」
胸元に回されていた腕が緩む。背中にかかる重みが増した。
呼びかけても、応えはない。知らない間に、彼女は俺のスーツの上着を羽織っている。いつそれを脱いでかけてやったのか、思い出せない。
「ルナ」
物言わぬ彼女を抱きかかえながら、自問し、そして愕然とした。
もし今、ルナが止めていなかったら
彼女の声が届いていなかったら
俺は間違いなくこの男を嬲り殺していた
怒りも、憎悪も、義務感すらも通り越し、ただ本能のまま
命を、奪おうとしていた
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高級ホテルのエレベーターだったら24時間監視されてると思うよお二人さん