【2】 Ⅲ-3,Rush
足が痛かった。
ヒールの高い靴なんて滅多に履かない上に、露出している爪先が冷えているせいでとにかく歩きづらい。最初のうちは特に気にならなかったからと言って、いつものように動き回らなければよかったと後悔する。
ホールと同じように柔らかいカーペットが敷かれている廊下で、足音は聞こえない。でも、晃斗くんが歩調を合わせてついて来てくれているのはわかっていた。私の意図は読めないでいるのかもしれないけれど、それはお互い様だ。
二つ続いて空いていたソファがあったので、一方に座る。追いつき、背後で立ったままでいようとした晃斗くんに、ソファの席を小さく叩いて座るように示す。
並んだ私たちの影が二つ、夜の街をバックに鏡になっている窓ガラスに映っている。高級なスーツに身を包み、自然に腰掛けている晃斗くんとは対照的に、隣の娘がとても自分だとは思えない。大人ぶって飾り立てたところで、痛かったり冷えたりで心地が悪いだけだった。電飾に彩られた夜景の中に浮かぶ姿は、靴も、服も、髪型もメイクも、全部、別人みたい。
「なんで、あんな風に言ったの」
釣り合っていないのは、私の方だ。
「立場って、どういう意味?」
そこで、続きを飲み込んだ。口に出して、自分で追い討ちをかけるのが怖かった。
私たちがビジネスの上での契約関係にあることは、身にしみて知っている。でもそこには、上も下も、優劣もなにもないはずだった。
「ごめん。無神経だった」
晃斗くんの声は苦しそうで、私も喉が苦しくなる。
「生まれとか家柄とかのことを言ったつもりはなかった。君が気にしてるのを知っていたのに、立場なんて言い方をするべきじゃなかった」
「じゃあ、どういうつもりだったの」
苦しくて、吐き出す言葉が鋭くなる。聞きたくない答えを、自分から引き出そうとしている。
「私は仕えられる側で、晃斗くんは仕える側だからとか、そういうこと?」
世間的、倫理的に見れば、特別な、個人的な関係や感情を持ち合わせてはいけない間柄は存在しているのかもしれない。もし私たちがそんな間柄に立っていたなら、それこそお互いの立場が障害になり得るのかもしれない。
だけど、私たちのあいだには、そんな縛りなんてないと思っていた。
晃斗くんとなら、特別になれると思っていた。
「そうじゃない」
誘導がはずれて望んでいた答えをもらっても、綯い交ぜになった不安と期待は解けない。
「本当?」
「ああ、ただ」
胸のわだかまりは、消えない。
痛みを堪えるように目を閉じて、晃斗くんは口もとを緩める。
「たとえ君が黒羽の家の出身じゃなくて、俺が雇われの身じゃなかったとしても、俺は君みたいな人と並んでいられる人間じゃない」
窓の向こうの夜を眺める横顔が、ますます喉を、胸を苦しく締めつける。
「時々、今こうやって君と話してたり、隣歩いたり、飯食ったりしてるのが、全部夢なんじゃないかって思う。でも」
切ない横顔が目を細めた笑みに変わり、何も言えないでいる私の方を向いた。今度は本当に、息が詰まった気がした。
「現実なんだよな。ちゃんと」
相変わらず、言葉は出てこなかった。かわりに、精一杯自然に笑みを作り、頷く。気を抜くと、全部こぼれてしまいそうだった。
聞きたいことがたくさんありすぎて、かえって頭は真っ白だった。自分が何を思っていて、どんな感情でいるのかがわからない。ただ、心臓がひどく重く動いているのだけを、感じていた。
「ごめん。変なこと言ったな」
一つだけ、はっきりとわかっていた。
今私が問い詰めたら、晃斗くんはきっとまたあの悲しそうな顔をする。
「本当だよ。訳わかんない」
だから、わざといじけたふりをして、茶化すしかなかった。大丈夫、とか気にしてないとかはぐらかしても、気づかれて困らせてしまうだけだ。
晃斗くんの本当の気持ちを知りたいからこそ、私も本当の気持ちを、ごまかさずに伝えたかった。
「戻ろう」
座って休ませたおかげで、脚の痛みは和らいでいた。立ち上がって晃斗くんとガラス窓の間に入り、その瞳を覗き込む。
「戻って、またご馳走食べよう。そろそろデザートも来るころだから」
一緒に美味しいものを食べる。この何ヶ月かで見つけ出した、誰かとぎくしゃくしたときの解決策だった。
少しきょとんとしたあと、晃斗くんは今度は呆れたように相好を崩す。
「また飯か」
「そうだよ。大事でしょ」
隣を歩く肩口はやっぱり高くて、見上げないと表情はわからない。スーツを着こなす身体は、大きくて、逞しい。それでもどこか不思議で、超然としている彼に対して、ちっぽけで、一人では何もできない私は無駄に着飾って自己主張して、どうしても不釣り合いなのは変わらない。
そんな晃斗くんのまるで自分を卑下するような言い方は、ショックでもあり、不可解でもあった。それはふとした時に感じる危うい香りと同じで、出会った頃からずっと私の心の底にある思いを強く揺さぶった。
もっと、この人を知りたい。
出会う前の、生まれてからこれまでの軌跡を、彼のすべてを。
言葉にはできなくても、この気持ちの正体にはなんとなく勘付いていた。だけど、それを口にして伝えるよりも、今こうして隣にいる時間の方が大事だった。
いつか、話してくれる日が来るかもしれない。偶然知ることがあるかもしれない。ずっと、秘密のままかもしれない。
今はそれでよかった。ただ一緒の時間を過ごせれば、充分だった。
「人、いないね」
ホールの入り口までの細長い通路には、私たちと、ステッキをついて向かって歩いてくる初老の男の人だけだった。ホールとの壁を通って、にぎやかな効果音と歓声が聞こえる。
「タイムテーブルにゲームの時間があったから、それだろうな」
腕時計を確認して、晃斗くんが壁の方を見やる。
「そういえば見たかも。車とかタブレットとかが景品だったね」
「興味なさそうだな」
「旅行券とか商品券とかあればよかったのに」
「あとは食い物だろ」
「大食いみたいに言わないでよ」
「違うのか」
「違うもん。食べるのは好きだけど」
そう、こんな、他愛な会話ができれば、幸せだった。
最初に認識したのは、音だった。
ガツン と、鈍くて、でも鼓膜と骨を伝わって、脳に不快に重く響いた音。
それから、目の前を黒い何かが飛ぶ。全身にまた鈍い衝撃が走った。
足が、痛かった。
頭も、手も、胸も、痛かった。
「晃斗くん!」
最後に、すぐ横で崩れ落ちていく彼が、見えた。
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景品の車当たると持たしてもらえるでっかい鍵が憧れだったりする