【2】 Ⅲ-2,Border
「長芋とタルタルソースってすごい合うんだね。今度作ってみよう」
「おっさんも言ってたな、その組み合わせ」
「あ!あそこの皿新しくなってる。取りに行こう」
プレートを片手にミュールで駆けていきながらも、人混みをうまくすり抜けているその足の運びはさすがだった。
紀尾井町から赤坂へと通じる坂道の途中にそびえる有名ホテルの、これまた広大な宴会用ホールを借り切って、聖夜の宴は贅を尽くして賑わっていた。煌びやかな照明に彩られた広間の、一番目立つステージ横にそびえるクリスマスツリーの高さは五メートルはある。規則正しく並べられたテーブルの上には色とりどりの料理が用意され、同じように色とりどりに着飾った招待客たちが 、グラスを片手に談笑しながら優雅に時を過ごしている。
その招待客たちに混ざり、黒のスーツにサングラス姿の体格のいい男たちが数人、イヤホンを耳に辺りを伺っていた。ざっと見たところ、この大部屋の中二十人に一人くらいの割合で、メディアで知られているような著名人が出席しているようだった。互いに似たような格好で統一された男たちは、気配を殺しながら華やいだ空間の一員となり、最小限の違和感で溶け込んでいる。
いくら物々しい雰囲気を隠しているとはいえ、彼らがこの場に存在している以上危機を連想せずにはいられない。だが、その想定の度合いは限りなく低いように思えた。会場内にあからさまに警護スタッフが配備されている割には、セキュリティのレベルは全体的にそれほど高くない。受付では招待状と顔写真付きの身分証明書の提示を求められたが、彼女は学生証、俺は免許証で難なくパスし、以降は持ち物検査もボディチェックも何もなかった。
勿論、政府高官や財界のお偉方が集まるような会合に比べれば、警戒レベルは低くて当然である。テロの標的になる可能性はかなり低いし、そもそも客の顔ぶれは、中にはwingの取引先の重役やスポンサーであろう芸能人も混じってはいるが、ほぼ社員や関係者とその身内が大半を占めている。となれば、あくまで小規模な、個人間レベルのトラブルへの対策が目的であると考える方が自然だ。しかし、発生するかさえ定かでないトラブルへの備えに、なぜいかにも警戒している姿勢を見せつけるような配備をしているのか。場の和を乱すような行為への警告よりも、もっと強い、深い意図がある気がしてならなかった。
そしてもしその「意図」が存在していれば、俺に下りてきていない現状も不可解だった。警護対象者にリスクの及ぶ危険性が僅かでもある以上、不安要素は共有されるべきであり、認識しておかなければならない。些細な情報の欠如が、文字通り命取りになるケースもあり得る。
突然の公の場へ出席指示、セキュリティスタッフ達、そして準備されていた小銃。
これらのすべてが、波乱を暗示している。漠然としていた予感が、確信と呼ばざるを得ないほど重く、濃いものになる。
もしこの場で、銃を抜くような何かが起きてしまったら
「ねえ、晃斗くん」
今目の前でこうして笑っている彼女に、危険が及んだら
俺は、何の情にも絆されずに役目を果たせるのか?
「これ、すっごい美味しいよ。食べてみて」
言われて、取り皿に盛られた料理と、上機嫌に口を動かしている彼女を見比べる。確かに、いい匂いがした。
「湯葉のチーズ包みだって」
「美味そうだな」
「はい」
いとも自然に、なんの躊躇いもなく、彼女は俺の口元にフォークごと一口分差し出す。
このまま、食えってか
皿と、自分の分のフォークとで両手は塞がっている。が、片手にまとめればもう一方の手が空き、受け取れる。一秒で計算し、右手で持っていたフォークを左手の皿に置いてから、彼女のフォークをもらおうと手を伸ばしかけた。
「ごめんね。これはダメだよね」
受け取る直前で、間近まで来たその手がひょい と引っ込む。
「さすがに行儀悪いもんね。新しいの取るから、お皿貸して?」
そっちかよ
とは口には出さず、素直に皿を手渡す。よく考えなくても、社交マナーに通じている人間なら、こんな大勢が集まるフォーマルな場で、自分の食器で他人に食べさせたりなどしないだろう。
「いいよ。自分で取る」
「そう?じゃあ私もうちょっともらおうっと」
はしゃぐ横顔に、緊張の色はない。押し隠しているのか、それともリラックスできているのか。本当のところはわからなくても、少なくともこうして笑顔を見せている限りは、胸に渦巻く不穏な予感は消えなくても、ここに来てよかったと思えた。このまま何事もなく終われば御の字、万が一多少のトラブルが起きたとしたら、その時はただ、やるべきことをやる。
誰にも、何にも傷つけさせはしない
「よかった。やっと見つけた」
相変わらずハイブランドのスーツを着こなした征景が、いとも簡単に混雑をすり抜け近づいてきた。何故か握手を求められたので、手を差し出して応じる。
「楽しんでる?」
「うん。ご飯美味しくて最高」
「有名なレストランがサーブしてるからね。相模君は?」
「ああ」
「ああ、じゃわかんないよ晃斗くん」
「楽しんでるか訊かれてるのにメシのこと答えるのはどうなんだよ」
「ご飯が美味しいから楽しいって、ちゃんと繋がるじゃん」
「ふうん。だいぶ仲良くなったみたいだね」
意味ありげに笑う征景の顔が、いつか見た双子の兄貴のそれと重なる。弟の方が一見穏やかな割に如才ない分、性質が悪そうだった。
「そのスーツ、サイズいいみたいだね。なかなか似合ってるよ」
「怖いくらいぴったりだ」
「既製ものだとどうしても決まらないからさ。色も選べたしね」
「いつの間に測ったんだよ」
「セミオーダーだから正確ではないけど、見立てるくらいの目はあるよ」
投げかけられたウィンクに、恐怖すら覚える。この男も、敵に回したくないタイプだ。そんなやりとりを聞いて、彼女はくすくすと笑う。
「一人なの?」
「うん。挨拶回り一通り終わったから、二人の顔見ておこうと思ってね」
「征景さんには、ここもビジネスの場なんだね」
「ネットワーク広げるには絶好の機会だからね。大変だけど、なかなか楽しいよ」
「すごいなあ」
「ルナちゃんは、祖父さんから別に何も言われてないんだよね?挨拶に来いとか」
「うん、なんにも」
「なら、別に気にしないで適当に楽しんだら帰っていいと思うよ。もし何かで呼ばれたら、俺も顔出すから一応教えて。携帯は繋がるから」
さりげなく、かつピンポイントで要件を述べたのちじゃあ と去ろうとした征景に、声をかけて呼び止める。征景も彼女も、不思議そうな目つきで俺を見る。
「スーツと一緒に置いてあったあれ、なんだ」
「あれ?」
「ご丁寧にホルダーまでつけて。どういうつもりだ」
「すまない、何の話だ?」
とぼけている顔ではない。むしろ、不信感が募ったようだ。彼女から見えないように背を向け、懐を広げて見せる。同時に、もう一方のポケットにしまっておいたタブレットを手渡した。
「これのことか。今日の一連の流れのファイルを入れておいたんだ」
「ならそうと言ってくれ。意味が分からなかった」
「悪かった。時間がなくてね」
戻されたタブレットの画面は文書入力のアプリが起動され、文章が打ち込まれていた。
"俺ではない。おそらく会長でもない。詳細メール求む"
「わかった。あとで返す」
「頼むよ」
互いの目で確認し、征景は足早に去っていった。
スーツを手配したのは征景で、その征景が、ともに置かれていた拳銃の存在を知らない。
では、誰が、何の為に置いた?
「なんの話?」
顔を覗かせてきた彼女に、タブレットを見せる。当然、アプリは閉じておいた。
「これ。着替えの時に一緒に置いてあって、何に使うかわからなくてさ」
「結局、征景さんが用意してたの?」
「ああ。今日のスケジュールとか、資料用だって」
「そっか」
納得したらしく、彼女はまた食事を再開する。だが俺の方は、深まった謎のせいで食欲などどこかに消え失せていた。
それから三分も経たないうちに、征景は元の場所に戻ってきた。
「俺の友達がさっき喋ってたの見てたらしくてさ。あの娘は誰だ、紹介しろってうるさくて。ちょっとでいいから、話してやってくれないかな」
申し訳なさそうに手を合わせる従兄弟の頼みを、彼女は少し考えたあとで頷いた。呼んでくる と、再びその場を離れた征景を見送り、空の皿と一緒に戻ってくるのを待つ。
「何話せばいいんだろう」
「挨拶すればいいんじゃないか」
対面すらしていない女を紹介しろと言うタイプの奴など、容易に想像できる。一方的に自分のことをぺらぺらと喋って満足するか、上手く質問をして会話をリードし成立させるかのどちらかだ。いずれにしろ、話題に気を遣う必要などない。
案の定、征景が連れてきたのは垢抜けて人好きのしそうな、言いかえれば女受けの良さそうな、彫の深い顔立ちの男だった。
「初めまして」
にこやかに差し出された握手に、彼女は落ち着いた笑みで応じる。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
違う。
一メートルも離れていない彼女を、そう感じた。
凛とした佇まいと気品を漂わせる仕草、何よりも、先刻までの不安の影すら浮かばない落ち着きに満ちた顔つきは、限られた者、孤高な血を持つ者にしかないそれだった。
征景の友人というその男は学生時代の同級生で、自ら創った会社を経営していると言う。征景と同じアメリカの最高レベルである大学の出身ならば、学力、教養に加え財力もあることは想像に難くない。彼もまた、生まれる前から定められていた、「限られた者」なのだろう。
談笑の内容は耳に入らなかった。俺以外の三人だけが明かりに照らされて、自分はその円から締め出されている、そんな、被害妄想も甚だしい感覚に襲われていた。
円の中で、征景が手招いていた。他の二人は、会話を続けている。気を遣われているのかと思うと、余計に疎外感が募った。首を振り、遠慮の意思を伝える。
今度は、彼女と目が合った。一瞬だった。彼女の隣に並んで初めて、無意識に輪の中へ入っていたことに気づく。
「初めまして」
征景の友人は、先刻と同じように俺にも手を差し出した。それに応え、自分も名乗る。
「お二人は、ご友人ですか?」
意味もなく、彼女の顔を見た。彼女も、俺を見ている。視界の隅に、あからさまに顔色の変わった征景が映った。
「友人、というわけでは」
「では特別な、お付き合いをしていらっしゃる関係で?」
かろうじての応えにも切り込まれ、黙らざるを得なかった。根拠などなかったが、敵意を感じた。どう答えればいい?彼女の目が、訊ねてくる。訊きたいのはこちらの方だった。
ボディガードと令嬢。主従関係。護衛と警護対象者。フィクションに出てくるような、それらしき名称なら、ある。だが、そのどれも、今の俺達には当てはまらない。
俺達の関係に、名前などない。
「そんな立場じゃない」
絞り出した答えで、俺をじっと見ていた彼女の瞳が変わった。
あの雨の日に肩越しにすれ違っていった時の、あの瞳だった。
「ならよかった。ではルナさん、今お付き合いしている方は」
「なんで」
話の続きを遮って彼女がじっと見据えた先の相手は、俺だった。
「なんで、そういうこと言うの」
力のこもった眼差しとは裏腹に、声は消え入りそうなほどに掠れている。
「今までずっと、そうやって思ってたの?」
私の実家のこと知って仲良くしようとしたり、近づいて来ようとした人がいたから
不意に、記憶が蘇る。
忘れていたわけではない。だが数ヶ月の間近くで過ごしてきて、彼女の家柄を意識する機会はほとんどなかった。普段の振る舞いや言動の端々に育ちの良さが垣間見えることは時折あっても、いつか征晴が言っていたように「お嬢様」であること強く感じさせられるような場面に出会ったのは、つい先刻が初めてだった。
何故か?考えるまでもない。
意図的にしろ無意識にしろ、彼女が「お嬢様」としての扱いを望んでいないからだ。
怒りや軽蔑を通り越して、頭の悪い自分が哀れだった。
どうして俺は、いつも彼女を傷つけてしまってから、思い知るのか。
「ごめんなさい。今日はこれで」
短く言って一礼し、彼女は踵を返す。すれ違いざまに、腕が軽く引かれる。
「来て」
表情はわからなかった。振り返って、征景とその友人の顔色を確かめる余裕もなかった。足早に進んでいく彼女を見失わないよう、人波をすり抜け、いつもより大人びたその後ろ姿を無心で追った。
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たまに伺う飲み屋さんの長芋の明太子タルタルソース焼が美味いんだわこれが