【2】 Ⅲ-1,Infatuation
暗い部屋の中、頼りは月明かりだけで十分だった。
誰かが俺の手を包み、そっと引く。
月下のもとへ姿を現した影は、真っ白な服を纏った女に変わる。
長い黒髪を靡かせながら俺を誘う彼女は、青く浮かぶ灯りの中で不意に立ち止まり、振り向く。勢い余って倒れこんだ俺の目の前で、その髪と白い服が、空気を孕んで宙に舞う。
彼女へと折り重なった俺は、退こうと四肢を動かす。無駄だった。彼女の両腕が、背中に触れる。柔らかな胸が重なる。艶かしく潤う唇が、俺の名前を呼ぶ。呼吸すら肌で感じる距離で光るそれを、夢中で貪った。
たがが外れた両手で、顕になった身体と肌を弄る。
甘い声を耳元で聞きながら、同じように、彼女を呼ぶ。
夜空を照らす、月の女神
その名前を口にするだけで、身体の芯が熱く、焦がれる
いつか、届く日が来るのなら
俺の手に、入るのなら
「...勘弁してくれ」
朝が来てもろくに陽の射さない暗い部屋に、俺はいた。快適には程遠いパイプベッドに敷かれた堅いマットレスと布団は生温く、汗をかいた身体には不快極まりなかった。AM6:53という、実に中途半端な時刻を枕元のデジタル時計で確かめる。湿ったTシャツを脱ぎ捨て、冷えきったフローリングに裸足で立つ。痺れるような感覚が爪先から伝達して、夢現でぼやけたままの脳を醒ます。
トイレとシャワーを済ませ、冷蔵庫に向かいミネラルウォーターで失った水分を補給した。滑り落ちてきた水に反応して、空の胃が間抜けな音を立てる。おっさんはまだ起きていないか、それとも飲みに行ったまま帰ってきていないかのようで静かだった。二階の六畳間へ戻って、再びベッドに寝転ぶ。
このまま二度寝でもすれば、また彼女が会いに来るのだろうか。
ここ最近はほぼ連日連夜、彼女が夢に現れていた。ついこの前まで、滅多に夢自体見ることなどなかったにも関わらずだ。原因はわかっていたが、対処などしようもない。日中可能な限り身体を動かし疲れさせても、寝る前にウイスキーを煽っても無駄だった。
じっとしていると、余計なことまで思い出しそうだった。まだ少し温いベッドから降り、下着以外身につけずにいた服を着る。朝飯でも作ろうと、店のフロアとは仕切ってある狭い方のキッチンに向かう。
四畳もない小さなダイニングキッチンのど真ん中に置かれた、おっさんが日曜大工で作った煤けたテーブルに、紙切れが乗っているのに気づく。一枚はA4サイズのコピー用紙で、もう一枚はなにかの切れ端のような小さいメモだった。メモの方を手にとって、中身を読む。拳の中で音を立ててそれを握り潰すのと同時に、俺は本日二度目の嘆きの言葉を口にしていた。
「勘弁してくれ...」
「おじさんもアクティブだね」
中央公園まで往復のランニングとトレーニングを終えて帰宅しても呼吸一つ乱さず、彼女は結っていた髪を解きながら笑う。レモンに似た果物のような匂いとほんの少しの汗の香りが、鼻先を掠める。
「でも、ケーキの作り方直接教わりたかったな。わざわざレシピ残していってくれたのは嬉しいけど」
「約束破ったうえに無期限放浪だなんて、何考えてんだかあのおっさん」
あのあと間髪入れずゴミ箱に投げ入れたメモには「旅に出てくる。心配無用」とだけ殴り書きしてあった。さすがに俺一人では店は開けられず、休業する他ない。
「いいなあ、そうやってぱっ て思いついてすぐに出かけられるの」
「置いてかれた方は迷惑千万だけどな」
「知ってる」
もう一度彼女は笑うと、バスルームに繋がる洗面所へと入っていった。俺の方は汗だらけのスポーツウェア一式を家から持ってきたボストンバッグに押し込んで着替え、いつも通りベランダで一服してから出てきた彼女と交代する。濡れ髪をバレッタで留めた彼女は、この寒さにも関わらず薄手のカットソーにショートパンツというラフな格好だった。
「ご飯作っておくから、どうぞ」
まだ少し上気した彼女の肌からできるだけ目を逸らし、洗面所へと入った。閉ざされた空間に、甘い香りが強く立ち込めている。水蒸気の充満するバスルームは、オレンジ色のライトと相まってより一層その香りに満たされていた。
わざと湯の温度を低くし、ぬるま湯とも言えないような冷たい水を頭から被った。脳内に広がる邪な画をかき消すべく、指に力を入れて髪ごと頭皮を掻きむしる。
今日に限って、消えない。
特別な日であることは、理解していた。彼女にとってのターニングポイントになるであろう、そして暦の上でも誰もが浮かれるであろうこの日を、何としても乗り越えなければならない。
今朝の夢も、そんな緊張が無意識下のうちに脳に働きかけたのだろう。あの夢がそのまま己の願望であるとは信じられなかった。
そう聞かせれば聞かせようとするほど、いつも以上に、落ち着きを保つのにエネルギーを消費しているような気がした。こんな状態であと半日、今夜のメインまで持つのだろうか。気を抜くとまた侵食してくる取るに足らない妄想を無理矢理押し込め、必要以上に腕を動かした。
昼飯後に学校へ行き、今年最後の講義を終えていったん四ツ谷のキャンパスから新宿の部屋に荷物を替えに戻り、迎えの車に乗り込み白金のお屋敷へ向かった。
その日三度目のシャワーを半ば強制的に浴びさせられた後、用意されていたスーツを身に付け待つように命じられたロビーで、今後の段取りをチェックした。慣れないネクタイが苦しく、息が詰まる。事前に渡されたノートサイズのタブレットのファイルに一通り目を通してから、まるでその薄くてコンパクトな端末用にデザインされたようなスーツのポケットにしまう。すぐ傍のホルスターに収めてある別の、冷たく無機質なそれに、指が触れる。何かに祈るなどという柄ではないが、願わくば日の目を浴びないで済むに越したことはない。
腕時計の針は午後五時半の少し前を指している。そろそろ会場へ出発すべき時刻だった。目の前のドアからは、何の音沙汰もない。女性陣が篭もり初めて、既に一時間近くが経っている。
同じフロアのトイレで見てくれに問題がないか確認し、さらにロビーで二本吸ったあと、ようやくメイドの女性が一人部屋から出てきた。その後ろについて姿を現した女が彼女だと気づくのに、数秒かかった。
「お待たせ」
ヒールの高いミュールで、彼女は小走りで駆けて来る。
「変?」
「あ...えっと」
何と返せばいいかわからず、変な声が出そうになるのを辛うじて誤魔化す。
「この格好。普段こんなの着ないから」
間抜け面で注視していたのに気づかれ、焦りを隠しながら応えた。
「いや、いいと思う」
「よかった。でも静電気がひどいんだ、このドレス」
そう言って彼女は、羽織っていたシルク地のショールをずらして肩口を顕にする。ダークブルーの膝丈のワンピースに萌黄色とでもいうようなショールを合わせたシンプルな着こなしだったが、その長い黒髪を緩くまとめてアップにしており、薄くはあるが化粧も施されている。照明の加減で微妙に色の変わる頬や同じように光る唇に、またもや間抜けのように目が釣られる。
「晃斗くんがちゃんとスーツ着てるの見るの、初めてだ」
「そうか」
「あ、ちょっとじっとしてて」
前触れなく伸びた手が俺の襟元を柔く掴む。先刻の風呂とは違う花のような香りが、至近距離で漂う。指先の爪には、ドレスに合わせたブルーのマニキュアがラメと組み合わせて塗られている。
「はい、完璧」
ネクタイが曲がっていたらしい。鏡などなかったので違いがはっきりとはわからなかったが、とりあえず礼を言っておく。
奇妙な沈黙が流れた。行こうか と踵を返して彼女が促す。その身体が動くたびに、花の匂いが広がる。
「外、寒そうだね」
「風があるな」
「こんな薄着で心配だよ」
「室内はエアコン入ってるだろ」
「何人くらい来るのかな」
「二百人くらいじゃないか」
「多いね」
「大丈夫か」
玄関ロビーへの階段をちょうど降りきったところで、彼女は俺の問いかけに僅かに肩を震わせる。
「わかる?」
「わかる」
「壁の向こうの世界だって言い聞かせても、実際絵が見えるまでのドキドキ感は、どうしようもないね」
力なく笑ってみせられ、また、言葉に迷う。同時に、以前の話を覚えていてくれていることに浮かれてもいる。
祖父である会長の意向だとかで、彼女がいわゆる社交の場に出るのは初めてだと聞いてはいた。立食形式とは言え大勢が集まるフォーマルな場に、会長が何故急に出席を促したのか。その意図もわからないままで、落ち着けなどと言う方が無理な話だ。そもそも彼女の存在をひた隠しにしていたはずの会長をはじめ、黒羽家という「組織」が何故ここに来て彼女を公に出そうとしているのか。昨日の訪問でその経緯を聞き出そうという目論見は、結局有耶無耶になってしまった。
残された疑問と、スーツとともに準備されていた武器は、負の予感をもたらす材料としては充分すぎる。ただの予防策に過ぎないのか、あるいは俺に情報を下ろさないような動きがあるのか、そもそも頭数には入っていないのか。
もし、懐のコイツを、使うような状況が来るのだとしたら。
俺は、彼女を連れていくべきなのか?
「晃斗くん」
呼ばれて、しばらく黙って考えこんでいたことに気づく。
「晃斗くんも緊張してるんでしょ」
「バレたか」
やっぱり と、彼女は笑う。警護対象者に心配されるようでは世話はない。しらばっくれて流すしかなかった。
「平気だよ。頑張ってうまくやるから」
「うまくって」
「声かけられそうになったら逃げて、美味しいご馳走だけ食べてさっさと帰っちゃえばいいんだよ」
「やっぱりメシ目当てか」
「だって、タダで好きなだけ食べられるんだよ?」
無邪気な口調とは裏腹に、笑顔は硬く、両手は羽織ったショールを握り締めていた。本音ではない。でも、この女が本音を隠すのは、他人へ見栄を張っているからではない。
相変わらず、気の利いた台詞など浮かんでは来ない。だが、渦巻く不安にもかかわらず彼女が未知の領域へと踏み出そうとしている以上、俺の果たすべき役割は決まっている。
「楽しめばいい」
少し後ろの定位置で、聖夜のひと時を満喫する彼女の傍にいればいい。
「そうだよね。せっかくだもんね」
自らに言い聞かせるように彼女は頷き、背筋を伸ばす。ヒールを響かせながら颯爽と歩き出したかと思うと、不意に立ち止まり、こちらを振り返った。
「晃斗くんも、楽しんでいいんだよ」
振り向いたシルエットと今朝の夢の光景とが重なり、思わず固唾を飲む。
「仕事だとか堅いこと言わないで、好きなもの食べて、美味しいお酒飲んで」
花の香りとともに近づいてくる彼女を、それ以上直視できなかった。不自然に見えない程度に目を逸らし、視界の端で、彼女の姿を捉える。
「それとも、もしかしてそんなに乗り気じゃない?」
「いや、そんなことは」
認めたくはないうえにそんな状況ではないと認識すらしているのに、舞い上がっているのは確実だった。
「それならいいんだけど、なんかいつにもましてぶすっとしてるから、緊張してるんじゃなくて行くの嫌なのかなって」
「悪かったな。ぶすっとしてて」
そうでもしていないと表情が崩れそうだなんて、拷問されても言えるわけがない。
「怒らないでよー。せっかくのパーティーなのに」
「怒ってねえよ」
「あ、目逸らした」
「もういいから。遅れる」
緊張は和らいだらしく、彼女は声をあげて笑い、また隣に並ぶ。俺はと言えば、形容し難い気分に思考は乱され、笑う気になどはなれなかった。
大丈夫か?俺
油断できない状況と、不穏な予感、そして何よりも、そんな状況にもかかわらず呑まれつつある自分自身が、でかい溜息を吐かせずにはいられなかった。
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若い女の子の汗と甘い匂いは凶器