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Eclipse  作者: 楪美
【2】-Ⅱ
32/41

【2】Ⅱ-4,Glow




雨は、嫌いじゃなかった。



暗いのも、寒いのも冷たいのも、平気だと思っていた。



大嫌いなのは、重い灰色の空と景色にいとも容易く影響されて、沈んで傷ついてしまう私自身だった。










意識の隅では、自分がどんな行動をとっているのか理解していた。



だけど、止められなかった。



部屋を飛び出して、意味もなく廊下を駆け抜けて、階段の途中で脚が止まって、そこから玄関を通って外に出て、噴水のふちに座った。雨が降っていたのも、全身ずぶ濡れになっていくのも、ただ肌が受け入れていただけだった。



耳の奥で反芻する声と、呼吸する度に締め付けられるような痛みから逃げたかった。でも、逃げたくても何もできなくて、夢の中みたいな鈍い冷たさと一緒に、身体の中に染み込んでいくのを感じるしかなかった。



晃斗くんが傍に来てくれたのは、目でも耳ででもなくて、気配みたいな何かでなんとなくわかった。



「ルナ」



雨と一緒に聞こえた私の名前は、私を現実に呼び戻した。



痛みと一緒に、サイレンみたいな頭の中の警報が戻ってきた。突き刺すような雨粒が、追い討ちのように身体と頭を鞭打った。



繋がれた手を握り返すのに、少し躊躇った。



一人では歩けないくせに、心の中では、信じることすら恐れていた。





感覚ごと、いっそ身体ごと、全部消えればいいのに




振り払って逃げ出す勇気なんてないまま、指先の熱だけを感じて、濡れた大きな背中のあとを歩いた。












バスルームに案内されて、染みるように熱いシャワーを浴びたあと、通された部屋でドライヤーをかけた。伸ばしっぱなしの長い髪は、乾かすのに時間も手間もかかって鬱陶しかった。鏡と向かい合って地道にブローしている暗い顔の娘は、可哀想にすら思えた。



繰り返し繰り返し髪を梳かすのが馬鹿馬鹿しくなって、途中で投げ出し冷たくて柔らかいベッドに沈んだ。石鹸みたいな洗剤の匂いがする布団に鼻の先を押し付ける。息苦しくなって、すぐに身体の向きを変えて天井を仰ぐ。



真っ白な視界と音のない空間は、嫌でも記憶をかきたてる。



初めてこの家に来た日も、こうやってベッドに横になっていた。



どうして連れてこられたのか、これからどこに行くのか、誰が私に何をするのか。なにもわからず、なす術もないまま、ぼんやりと時が過ぎるのを待っていた。



何年も経つのに、ちっとも変わっていない。



しょうもない意地に駆られて、感情の波に移ろって、勝手にへこんで、閉じこもっている。



涙が目に溜まっていく。瞼を閉じて、押し込めた。泣いたって何もならないことぐらい、ずっと昔から、嫌というほどわかっている。




コンコン と、ノックの音がした。



黙って、動かないままでいる。もう一度、今度はお嬢さま と、声も一緒に聞こえた。知らない声だった。



「替えのお洋服です。濡れてしまったものは、これから急いでクリーニングにかけますので」



私より背が低く、年も若そうなメイドさんだった。渡してくれた服は、下着からトップス、レギンス、それに靴下まで揃っていた。



「これ」

「私が購入して参りました。急だったのでシンプルなものになってしまったのですが、もしお好みに合わなかったら、あの、申し訳ありません」



なぜか上ずった声で頭を下げるそのメイドさんは、少し気の毒で、同時に可愛らしかった。お仕事が大変なんだろうな とも思った。お礼を言ってドアを閉めようとすると、あの と今度はびっくりするほど大きな声で呼び止められる。



「先ほどから、あちらのロビーでお連れの方がお待ちになっているのですが」



メイドさんが視線をやった先には、晃斗くんがいた。壁に持たれて腕を組んで、こちらをじっと見ている。



呼ぼうと声を出しかけて止め、メイドさんに着替えが終わったら呼んできてくれるように頼んだ。手渡された洋服一式は、新宿にあるファストファッションのお店のフロアみたいな、新品の服の匂いがした。細身のスキニージーンズは、ふくらはぎのあたりが少しきつい。



着替えを終えてこちらから戸を開けて、メイドさんにそれまで来ていたローブを預ける。会釈をして去っていった彼女と入れ替わりで、晃斗くんが入ってきた。



部屋の真ん中辺りに置いてあるソファを勧め、自分は奥の方にあるカラーボックスに用意してあった電気ケトルの電源を入れて、お湯を沸かす。メーカーは、しっかりwing製のものだ。



「コーヒーでいいよね」

「ああ」

「インスタントだから、美味しくないかもしれないけど」

「部屋の中に用意してあるとは思わなかった」

「ホテルみたいでしょ」



お湯が沸くまでのあいだ、紅茶と緑茶どちらにしようか迷うふりをしながら、ひたすら手を動かしていた。使い捨てのプラスチックのカップ二つに、ティーバックの紅茶とデミタスのコーヒーを淹れて、ソファのそばのテーブルまで持っていく。どう見ても、美味しそうには思えない。コーヒーを晃斗くんに手渡し、自分は紅茶を持って、その向かいに座る。



しばらく、予想通り香りも味もいまいちな紅茶を啜りながら黙っていた。私と同じように着替えた晃斗くんは全身黒づくめではなく、グレーのVネックのカットソーとブラックジーンズ姿だ。湿っているのか、髪はいつもよりすとん としていて、寝かされ気味だった。私がいじけているあいだ、晃斗くんは髪も乾かさず、どのくらい待っていてくれたのだろう。



「ごめんなさい」

「謝らなくていい」



間髪入れずに返ってきた応えに、少し驚いた。プラスチックのカップをテーブルに置いて、晃斗くんは続ける。



「最近、謝られてばかりだ」



自覚はあった。電話が繋がらず一人で外に出ようとしたあの日から、そしてシュン君の忠告をきっかけにいっそう、ことあるごとに、私は晃斗くんに謝罪の言葉を口にしていた。それぞれの理由は、覚えていない。心の中に積み重なっていった、罪悪感みたいな重苦しさを吐き出したかったのかもしれない。



「君は、悪くない」



まるで、他に誰か悪者がいるみたいな言い方だった。気持ちを落ち着けるために、不味い紅茶を一口飲む。



「じゃあ、誰が悪いの」



皮肉のような口調になってしまい、後悔する。でも、それは今の私の素直な疑問でもあった。



「わかってるの。私がちゃんとすれば、大人になればいいんだって。頭で理解はできているから、気持ちのほうが整理できれば、たぶん」

「それで、いいのか」

「それしか、ないから」



関係ないと突っぱねられるなら、遠くから見ていればいい。



心から信じられなくても、上手に距離を保って、傷つかないようにしていればいい。



不確かで簡単に揺れてしまう気持ちになんて、蓋をしてしまえばいい。



今まで、ずっとやってきたみたいに。



「大丈夫。さっきはちょっと動揺しただけで、次からはちゃんと」

「なんで」



鋭く、でも重く、晃斗くんの声が私を遮る。一瞬躊躇したように黙ったあと、晃斗くんは、今度は静かに続ける。



「なんで、そんなに無理してんだよ」

「無理?」

「大丈夫なんかじゃないだろ。そんなに」



もう一度少し間を置いてから、晃斗くんは私の目を見つめた。逸らそうとしても、遅かった。



「そんな、泣きそうな顔してんのに」



たまらなくなって、強く目を瞑った。ゆっくり、深く、呼吸する。こうすれば、涙は落ちない。



「本当に大丈夫だったら、そんな顔しないだろ」



まだ、瞼の裏が熱い。もう一回、息を吸って、吐く。



「隠すなら、せめてもっとうまくやってくれ」



ダメ。泣くな。



泣いたら、終わる。



「我慢して、溜め込んで、何になるんだよ。なんで、独りで抱え込もうとするんだよ」

「ひとりだからだよ」



口をついた言葉で、正気に戻った。涙が出そうだったのが嘘みたいに、頭の奥が冴えていた。



「ここは私の居場所なんかじゃないの、わかるでしょ?血のつながった人たちが暮らす家でも、私はこんな部屋に通されて他人扱い。あのマンションには、ハルくんはもういない。私はもう、誰も頼れない」



晃斗くんと向き合うのが辛くて、ソファから立ち上がる。一度壊れる寸前までにこみ上げかけた感情が静まった今、もう限界だった。



「でも、誰にも頼らないで生きていけるなんて思い上がってない。私はまだ子どもで生活力だってないし、自分の身だって守れない。だから今、晃斗くんがついていてくれるっていうのも、ちゃんとわかってる」



私は、弱い。弱くて、大嫌い。



強くなりたくても、なれない。変われないから、どうしようもない。



「本当は叔父さん、叔母さんとも仲良くしたいし、お祖父さまとももっと話してみたい。この家で居場所だってほしい。でも、私にはヒロくんみたいに会社や家のためにできることなんてないし、ハルくんみたいに家を出て一人で生きていく力もない。だから、今の位置にいるしかないの。一人でなんでもできるようになるために、頑張るしかないの」

「泣きたいくらいに、苦しくてもか」



晃斗くんの問いかけには応えなかった。カップを持って、サイドボードに戻る。顔を見られたくなかった。声も聞かれたくなくて、ぎりぎり耳に入るくらいに小さく絞って、言った。



「もういいでしょ。ひとりにして」

「しない」

「少し休むだけだから。放っといて」

「放っとかない」

「お願い。出てって」

「出てって、どこにいけばいい」

「どこでも、好きなところにいけばいいじゃん」

「なら、ここにいる」

「仕事だから?」



勢いをつけて振り向いた。声も、大きかった。晃斗くんは、まっすぐに私を見ていた。



「私から目を離さないようにって言われてるから?」

「そうだ」

「それが、役目だから」

「ああ」

「じゃあ、いらない」



思い切り、今までにないくらいに強く、その瞳を睨んだ。瞬きも、逸らされることもなく、鋭い眼差しが返ってくる。怖かった。震えそうな声を、必死に抑える。



「義務とか、役目とかそういうのが理由なら、もう傍にいてくれなくていい」



これ以上、信じたくなかった。



「もう、優しくしてくれなくていい」



今まで一緒にいた時間を、もらった言葉を、気持ちを、今ここにいる相模晃斗という人を、疑ったままでいるほうがましだった。



その全部を心から信じてしまいそうで、怖かった。



信じて、受け入れて、また失うなんて、耐えられない。



目を瞑るより先に、背中を向けた。涙はもう、我慢できなかった。




今度こそ、終わりだ



私からは、離れるなんてできない



怖がって、閉じこもっている私を、置いていけばいい




皆と同じように、私なんて追いつけないどこか遠くに行けばいい




「行かねえよ。どこにも」



声に、包まれた。



さっきと同じだった。見えたわけでも、音が聞こえたわけでもないのに、分かった。



私のすぐ後ろ、少しだけ離れたところに、晃斗くんは立っている。



「俺は、俺の意思でここにいる」



心臓が、鳴った。振り向くと、晃斗くんはすっ と目を細める。



「確かに、君の護衛は俺の仕事だ。でも、君を護ろうと思う意思は、仕事だからじゃない」



胸の中に、言葉がそのまま入ってくるみたいだった。静かに、ゆっくりと、そのひとつひとつが心の内に積み重なって、それから溶けて、染みていく。



「本当に一人でいたいなら、俺は遠くに行く。でも」



晃斗くんの声が、隙間だらけだった私を埋めて、満たしていく。



「苦しいなら話相手になるし、寂しければどこにでもついていく。居場所がないと思うなら」



言葉は続かなかった。黙って、待ってみる。



開きかけの唇を閉じると、晃斗くんは異様に速くソファに戻って、残りのコーヒーを飲み始めた。立ったままの私を一瞬ちら と見ただけで、目を合わせてくれない。



「そのあとは?」



待ちきれずに、訊ねてみる。まるで測ったかのように、私の質問と同じタイミングで、晃斗くんはコーヒーカップに口を寄せた。対抗して私も同じように待ち、もう一度訊く。



「ないと思うなら、なに?」

「…考えてなかった」



耳が赤い。照れている時のサインだ。直前までのシリアスな雰囲気がくすぐったくなって、笑わずにはいられなかった。



「晃斗くんて」

「なんだよ」

「わりとヘタレだよね」

「こじらせ女に言われたかねえよ」

「こじらせてはないもん」

「どこが」



反論しようとしたところで、口をつぐむ。もっと大事な、伝えなきゃいけない言葉があった。逃げようとする晃斗くんの視線を、今度は隣に座って先回りし、捕まえる。やっぱり、綺麗な瞳だな と思う。



「ありがとう」



意外だったのか、一度瞬きしたあと、晃斗くんは頷いて、また静かに笑った。シュン君とのやりとりが少し頭をよぎったけれど、今度は不安になんてならなかった。









それから三十分くらい待ったあと、さっきの若いメイドさんが私と晃斗くんの服を届けてくれた。どれもきちんと乾かされてたたんであり、ブラウスとスカートにはアイロンもかけられている。聞くと、家の中にプロのクリーニング師さんが常勤しているらしい。



メイドさんは叔父からの伝言も預かっていた。祖父はさっきのトラブルのこともあり、私との面会の時間が取れなくなったらしい。叔父さん本人もすでに仕事に戻っているという。せっかく足を運んできてくれたのにすまない とのことだった。



「この家では、いつもこうなの」



メイドさんが下がったあと、帰り支度をしながら、晃斗くんに話しかける。



「みんな忙しくて、家族のことは後回し。一員になんて、とてもじゃないけどなれないよ」



晃斗くんが言葉を探しあてる前に、私は声のトーンを引き上げて続ける。



「別に卑屈になってるわけじゃないんだよ?同じ血筋でも、ずっと一緒に暮らしてきた親子とただの親戚とじゃ、どうしても壁っていうか、違いがあるじゃない。それはしょうがないなって、小さい頃からわかってたから」

「自立にこだわるのは、それが理由か」

「たぶんね。ハルくんみたいに生きたいっていう憧れもあったけど」



そうか と呟いて、晃斗くんは窓の外を確認する。私の位置からは、雨が止んだかどうかは見えなかった。



「お祖父さまも、叔父さんも叔母さんも、家を出て自立したいっていう私の気持ちを尊重してくれているのか、それとも本気でどうでもいいって思っているのかは、正直わからないし確かめるのもまだ怖い。ぎくしゃくしている関係の中に首を突っ込む勇気もない。だから、私がちゃんと大人になるまで、このままでいいかなって思ってるのは本当なんだ。ちょっと逃げ腰だけど」

「いいんじゃねえの、それで」

「いいかな」

「ああ」



止んでる と告げて私を促す晃斗くんに少し待ってもらい、財布から一万円札を出し、テーブルに置く。あらかじめ書いておいたメモを傍に置いて、黒のジャケットを着た背中を追った。



「たぶん、あのメイドさんは受け取ってくれないから」

「だろうな」

「お客様なんだから、チップは払わないとなのに」

「それ、あの叔母さんに言えるか?」

「無理。だから、あそこに置いたの」



必要ないと返されるか、感謝されるか、それとも触れられずに終わるか。少しひねくれてはいるけれど、私なりに考えた賭けであり、宣戦布告でもあった。



もし今関係ないと拒絶されても、もう怖くはなかった。



もう一度祖父に呼び出されたとしても、憂鬱に襲われることもないはずだった。




隣には、晃斗くんがいる。




声には出さないで、並んで歩く晃斗くんに問いかけてみる。私の視線に気づいたその瞳が、私を見つめ返す。



それでよかった。



一緒に出た濡れた庭には、薄日が差していた。


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ユニクロのにおいって割と強烈ですよね

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