【2】Ⅱ-3,Trembling
絶望に襲われた顔なら、いくつも見てきた。
後悔と、怒りと焦燥と、そして恐れの混じった悲しみに支配されたその表情は、どんな人間であっても同じように強烈で、同時に言いようもない虚無感をもたらした。まだ慣れていなかった頃は、自分もいつかこんな顔で一生を終える日が来るんじゃないか、なんて馬鹿げた想像が頭の奥をよぎることもあった。
だけど、彼女のそれは違った。
すれ違いざまに俺の目を奪ったその顔は、鮮烈で、綺麗だった。
「ルナ!」
無意識に呼んだ声と肩に触れた手を振り払い、彼女は部屋から走り去った。すぐに追おうと踏み出しかけた脚が、目の前に挙げられた手で身体ごと制止させられる。
「少し、待ちなさい」
抗おうとすれば、抗えた。それでも辛うじて残っていた思考の冷静な部分を総動員し、黒羽会長に従いその場に留まる。
「何でですか」
「知る必要があるからだ」
「希、どうしてあんなことを」
何を と問う前に、征政が妻の方へ近づき、訊ねる。黙らざるを得ず、音を立てないよう、一歩後ろへと退いた。
「だって、そうじゃない。あの娘には関係ないのよ。私たちのことなんて」
再び顔を覆って泣き出す妻を、夫の方は、ただ立ち尽くして眺めている。しばらくの間のあと、最初に動いたのは黒羽会長だった。
「征政、後で書斎へ来るように。先刻の電話の件で共有しておきたいことがある」
「すぐに行きます」
君たち と、部屋の外で待機していたメイドらしき女性たちが呼ばれ、希に手を貸し立ち上がらせようとする。彼女の脚はおろか全身に力が入っておらず、柔らかく芯のない人形のようにも思えた。
「貴方、行って」
「希」
「いいの。お仕事の話なんでしょう?」
身体を支えられながら立った希は、征政の方を振り向かないまま声を荒らげる。
「すまない。またあとで」
「いいから行って!守れない約束なんていらない」
涙声でそう叫んだあとメイドたちに付き添われた希が奥の寝室に消えるまで、彼女が征政の方を見ることはなかった。征政は少しの間天井を仰ぎながら目を閉じ、やがて長く息をつく。
「すまなかったね、相模君」
「いいえ」
「やはり、君か」
話しかけてきた征政に乗じて進み出た黒羽会長の目つきは鋭く、不意に指先が強ばった。軽く顎を引いて挨拶し、名乗る。相手も同じように、頷く。老齢にも関わらず背筋の伸びたその佇まいは、相対する者が気を張らずにはいられないような威厳に満ちていた。
「こうして話をするのは初めてだな」
メディア越しに一方的に認識しているのはこちらだけで、会長の方が俺を知っているとは思っていなかった。
「グラン・ホテルでの件は感謝している。おかげで被害を受けずに済んだ」
「あれは、偶然です」
グラン・グループのカジノ運営摘発の一環で赤坂のホテルに潜入したあの日、一時的に停電を起こしたのはホテルのメインコンピュータの一つである財務管理サーバに残されていた、資金運用データのコピー作業の後処理の一つに過ぎなかった。サーバの電源供給の停止に伴い非常回線への接続に至るまでの一瞬の隙が、入り込んだシステムからの安全な退出にはもっとも有効であり、それにはコンピュータの電源に限らず全館停電を仕掛けるのが一番楽だった。
国内最大手電器メーカー会長でありCIA次官であるこの御仁、黒羽征成の滞在を作戦の目くらましに利用こそはすれども、危機を救う意図なんて微塵もある訳などなかった。
「その偶然がなければ、私はもうこの世にいなかったかもしれない」
「自分のやるべきことをやったまでです」
「その結果、我々は救われた」
返すべき言葉を探す俺に、黒羽会長は僅かに口元を綻ばせると息子の征政に後程 と告げその場を去った。その征政も、すまないね と何に対する謝罪かわからない言葉を残し、部屋を跡にする。訳もなく、急に静かになったその空間から少しでも早く脱出したくなった。完全に締まる前に、扉の取っ手を引っ掴んで飛び出し、ロビーに駆け出し階段をすっ飛ばすように走った。背後から呼ばれたような気がしたが、認識できず適当に声を出し返事をした。
「どこだよ...!」
部屋にも、客間にも、トイレにも、彼女の姿はなかった。
廊下や室内にいた人間に手当たり次第声をかけて回ったが、有力な情報は得られなかった。何度か同じやりとりを繰り返し、庭師らしき男に尋ねたところで、数分前にこの男とすでに話をしたことに気がついた。落ちついて と窘められてはじめて、自分がかなり焦っているのだと自覚する。
「警備の人たちが見ているし、門の外には出られないはずだよ。雨も降ってきたから、お屋敷内にいるんじゃないですかね」
両肩に脚立を担いで去っていく背中を見送りながら、無意識にポケットを探っている指に気づき、呆れた。一度手を外へ出してから、頭を冷やそうと思い直し、一本取り出し火を灯す。
不味い煙と爽快な有害物質の効果で、ごたついていた思考が整理されていく。
突然の彼女の逃避。
征政夫婦の不和と、「知る必要がある」との会長の台詞。
行方知れずのお嬢様を探そうともしない使用人たち。
そして、あの今にもこぼれ落ちそうだった涙の理由。
一つずつ並べたてたところで解決の糸口などなく、余計な疑問が増えるだけだった。短くなっていくだけの煙草が煩わしく、すぐ横にあった窓を開こうと、手をかける。
窓の向こうのその姿は、まるで蜃気楼のようだった。
シガーケースを取り出す暇も、煙草を消そうと思い立つ余裕もなかった。熱さも忘れて手のひらで吸殻を握り潰し、元来た廊下を脇目も振らず走った。
降り出した雨に溶け込んでしまいそうなガラス越しに映った彼女の影だけが、脳を支配していた。
中庭の噴水の縁に腰かけた彼女は、冷たい雨に打たれながら俯いていた。
俺の足音にも、濡れた髪を少し揺らせただけで顔をあげようとはしない。
雨と噴水の音が、混ざり合って降り注ぐ。
手を伸ばしかけ、しばらく宙に浮かせたあと、また引っ込めて一歩近づく。
それ以上は、動けなかった。
隣に座ることも、触れることもできなかった。
「ルナ」
絞り出した声はうまく音にならず、雨に消える。
彼女の目がゆっくりと動き俺を捕らえたのは、声が届いたのか、それとも偶然なのか。
「晃斗、くん」
俺を呼ぶ唇は色を失くし、ただでさえ色素の薄い頬も、温度を奪われ透き通るように白い。濡れそぼった黒髪と色のない肌と、雨のせいで密着した服が纏わる彼女の身体は、今にも灰色の景色に消えてしまいそうなくらいに、儚い。
「ごめんなさい」
違う
「何やってるんだろう、わたし」
謝らなくていい
「晃斗くんまで濡れちゃって、ごめんね」
俺のことなんか、いいから
「バカだ、わたし」
馬鹿は、俺だ
「戻ろう」
やっとまともに出た言葉と差しのべた手にも、彼女は反応しなかった。雨と時間だけが止まらず、身体から熱を奪っていく。体温と反比例して、腹の中からは何か熱い、火のような感覚が染みわたっていくのを感じていた。
力なく膝の上に置かれた自分よりずっと華奢な手を、壊さないように、そっと取った。震えた指は、やがて同じように冷えた俺の手を握り返す。使い物にならないと思っていたその手は、彼女の指先の感触を確かめ、やがて少しずつ、感覚を取り戻していった。
だが、それ以上は駄目だった。
俺の手に応え立ち上がった彼女の目は、先刻一瞬見せたあの顔よりもずっと深く彩られていた。
その眼差しに、繋がれた手に、必死にこらえているであろう涙に何もしてやれない自分が情けなく、苛立たしかった。
湧きあがる衝動と欲情を押し込めることにかまけて、彼女の悲しみに触れられない自分が、どうしようもなく浅はかで、脆くて、歪んだ人間に思えた。
かけてやりたい言葉は、あぶれるほどあった。このまま手を引いて、肩を抱いて、震えた身体を温めてやればいいと、頭の片隅ではわかってもいた。
それでも、何も言わず、何もしないなまま、彼女の手を引いて暗い雨に浮かぶ家へとただ歩いた。
彼女が独り抱えてきた淋しさを癒してやる力など、俺にはなかった。
できることは、想像だけだった。
想像して、理解して、分かち合って、慰める。
その過程を描き、なぞり、思いを馳せて、あたかも本当にそうしてやれているように、無力な自分を信じ込ませる。
意味のない思い煩いに虚しさは変わらず胸中に渦巻いていたが、それは同時に自分への戒めにもなっていた。そして皮肉なことに、その戒めが、暴走一歩手前の衝動を決壊から免れさせる砦でもあった。
力が欲しい。
伝えられない思いを喉の奥に閉じ込めながら、一方では彼女の手を包み、もう一方では湿って煤まみれになった拳を握り、足元のおぼつかない彼女の半歩先を、のろのろと進んだ。
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十二月の雨は凶器。独り身には兵器