Prologue③-Kaoru
【警告】
直接的な描写はありませんが、性的な内容をほのめかす表現がございます。
ものすごく生ぬるいですが、苦手な方はご注意を。
Prologue③-Kaoru
一日の始まりであるはずなのに、明け方はどうしてこんなに暑いんだろう。
冴えたままの眼を閉じているのが億劫で、目蓋を持ち上げる。カーテンの隙間から差し込む陽光はまだぼんやりとしていたが、眠るのをとっくに諦めていた意識を覚ますには充分だった。同時に、まだ感覚を取り戻し切っていない身体に、だんだん熱気が染みていく。
ほぼ衝動的に、薄い掛け布団を引きはがした。耳元で、こもった声が小さく聞こえる。私は寝返りを打って、隣で眠る男の顔にかぶさってしまった布団を肩に掛け直した。満足したように、彼は再び規則正しい寝息をたて始めた。
文字通り目と鼻の先にある彼の寝顔は、腹が立つほど幼い。たった三つの年の差が、否応なく突き付けられる。普段は年齢を感じることなどないのに、この男といると、何かと調子が狂ってしまう。取るに足らない、口にするのすら馬鹿馬鹿しいような小さいことが、こぞって見えてきてしまう。
急に寒気がして、私はこみあげてきたくしゃみを慌てて飲み込んだ。音をたてないように鼻をすすり、そっと、腰に触れていた彼の手を動かす。布団から足を抜き、床に脱ぎ捨ててある服を爪先で探った。何も引っ掛からない。私は諦めて、ベッドから起き上がった。
着替えを済ませてから、散らかっていた服を回収する。
彼の靴下やワイシャツ、ネクタイ、それに下着なんかは平気で放り投げてあるのに、ベストとスラックスは、皺にならないように、しっかり椅子の背にかけてあった。いつものようにスーツ類はそのままに、散乱していた衣類はまとめて椅子の上にたたんでおく。放っておいても文句を言われる訳でもないのだが、部屋に他人の服が脱ぎっぱなしになっているのは、あまり気分のいいものではない。
自分の服を洗濯かごに放り込み、朝食の用意のためにキッチンへ向かった。
いつもはヨーグルトとシリアルで済ましているところを、彼が来たときはちゃんとした食事を作ることにしている。昨日のうちに買っておいた食材を冷蔵庫から取出し下準備をしていると、充電中の携帯電話が鳴った。メールの着信音だったため取りには行かず、そのまま味噌汁用のじゃがいもの皮剥きを続けた。
滅多に自炊などしない私には勿体ないほどのシステムキッチンからは、リビングを挟んでベランダに通ずる窓の外がよく見える。ガラス一枚で隔てられた街は少しずつ眩さを増し、明るい陽光に包まれていく。朝の太陽が昇り切る前にキッチンに立ち、ベッドで眠る男のために朝食を用意する。笑えてくるほどに穏やかな一場面。じゃがいもに続いて、玉葱を切りながら、そんなことを思う。
昔は違った
男の身の回りを世話して、ご飯を作って、帰りを待って、同じベッドで甘い夜を過ごす。
そんな生活を軽蔑して、嫌悪していながらどこかで望んでいた。女の幸せなんて信じていなかった私を変えてくれる人が現れるのを、強情を張りながら待っていた。
そんな私にも、寄ってくる男はいた。会社を3つも4つも持っている初老のおじ様が財産を全部くれる、なんて約束してくれたこともあれば、年下のニートやヒモが結婚しよう、なんて言ってくることもあった。
嬉しくなかったと言えば嘘になる。
だけど、今こうしておひとり様ライフを満喫しているのが、彼らに私が出した答えだ。
彼らが欲しがったのは、私という存在じゃなかった。
私じゃなくても、彼らを満たしてやれる女はあぶれるほどいた。
たとえば
たとえば私が男だったら
彼らは私を愛してなんてくれなかった
目の奥が、じんと熱を持った。
瞬きをすると、目の際が濡れた。それを拭わず、私はまた玉葱切りを再開した。植物と薬品が混ざったような香りは、仕事場で使っているアロマオイルに似ていた。
「馨」
突然耳元で呼ばれ、包丁を握っていた手と、おまけに呼吸までが止まる。いつのまにかまな板の上で山を作っていた玉葱は、どう見ても二人分以上あった。
「まだ当分できないわよ」
振り返らず、山盛りの具材を、水たっぷりの鍋に移して火を付けた。
すかさず、煙草を持った指が伸びてくる。火がついたラークグリーンの匂いは、野菜の青臭い香りと混ざり、一瞬だけキッチンを満たして消えた。
「今日はゆっくりでよかったのに」
「暑くて目が覚めちゃったのよ」
「そうかな。むしろ寒い気がする」
「シャワー浴びて来たら?」
「あとでいいよ。新聞とってくる」
「今日は休み。昨日の夕刊ならあるけど」
「どこ?」
「テレビのところ。ついでにテレビつけて」
返事の代わりに、やけに切迫した女子アナの声が聞こえてきた。全国に複数のチェーン有名ホテルに、無認可カジノ運営に関わっていた疑いが浮上したという。溶き卵のボウルを抱えながら、振り返って画面を見てみる。ここからそう遠くないホテルが、字幕と一緒に映っていた。
「赤坂のグラン・ホテルじゃない」
私が呟くと、彼も新聞から顔を上げた。
「…本当だ」
「こんな近くでカジノなんてやってたなら、行ってみればよかったな」
日本で暮らして数年経つが、今だにこの国でカジノが御法度である理由がわからない。懸命に走る馬や自転車に罵声を浴びせるよりも、スロットやカードゲームの方がよほど知的に思えるのは私だけなのだろうか。菜箸で卵をかき混ぜながら、私はソファに座る彼の横に並ぶ。煙草の匂いが、煙と一緒に纏わってくる。
「ロスのグラン・ホテルになら行ったことあったけど、あそこはカジノなかったのよ。ベガスが近いからそっちに出してたみたいで」
「うん」
「でもアメリカだけで30も展開して世界中にチェーン持ってれば、日本でもやりたくなるでしょうね。日本人は金回りいいから」
「うん」
「ユキ」
「うん?」
「煙草、危ないよ」
そこでようやく、彼は爪の先くらいの長さになった煙草をテーブルの上の灰皿に置いた。画面を凝視しながら腕を組む彼を残し、私はキッチンに戻った。卵焼きを焼いてる間、さっきとは打って変わった明るいトーンで、パンダ来日のニュースを伝える女子アナの声が流れていた。
「昨日、創設記念式をやってたホテルなんだ」
五穀ご飯にごま塩を振りかけながら、彼は呟いた。いただきます、と律儀に手を合わせてから、ご飯ではなく味噌汁に箸をつける。多すぎて盛り上がっている玉葱に特に突っこみを入れることもなく、ゆっくりと口に運んで、噛んで、喉を動かして飲み込み、言葉を続ける。
「親父も祖父さんも、まだあそこに泊まってる。テレビで見たかぎり、大騒ぎだろうな」
「いいの?行かなくて」
「秘書からメール来て、早いうちに逃げるって。ヘリでも飛ばすのかもしれない」
「さすがウィングね。お金持ち」
「まったくだよ。去年の決算が黒字だったからって無駄遣いしないでほしいね」
他人事のように言って、ユキはようやくご飯を頬張った。私もそれ以上は続けず、玉葱の盛り上がった味噌汁をすする。具が多いせいか、飲み込むのに喉が狭く思えた。
「食欲ないの?」
やっとのことで一口分通ったところで箸を置くと、ユキがこちらを見ていた。ちょっとね、と答えて私は再び箸をとる。そう、と呟いて、ユキもまた卵焼きをかじる。普段なら遅食いの私にペースを合わせてくれる彼に心配されってしまった
「仕事は、うまくいってるの」
今日はよく喋るな、と思いつつ、私はまた箸を置いて質問に思考を巡らせる。
「まあまあかな。前よりは繁盛してきてる気はする」
「患者相手に繁盛なんて言っていいの」
「いいのよ。そもそも、私は患者だなんて思ってないから」
今度は私が苦笑する番だった。
心療カウンセリングとかメンタルクリニックとか呼称は様々だが、我ながら現代ストレス社会のニーズを的確にとらえたビジネスだと思う。
この手の業界は明確な資格や認可が必要ないため、それなりの知識と手腕があれば誰でもカウンセラーと名乗れてしまうのだ。実際うちのクリニックも医師免許を持っているのは院長だけで、私を含めあとのカウンセラーは、治療行為とは見なされない範囲でのカウンセリングを行っている。来訪者の愚痴や世間話、時には妄言にひたすら耳を傾け、話し相手をするのが私の仕事という訳だ。話すだけ話して帰っていく人もいれば、自分のことを人に伝えるのを躊躇いすぎて、話し始めるのに何十分もかかったり、こっちが何を言ってもだんまり決め込んだままだったりする人もいる。
「タイプは色々だけど、私のところに来る人たちは、大抵が他人との対話を上手にできないだけ。私は、それが病気だなんて思わないし、思いたくもないのよ」
「世間的には、病気に当てはまる症状だとしても?」
「私は医者じゃないから、相手も患者ではない。っていうより、相手が病人だろうがなかろうが、ただのお喋りするにはたいした問題じゃないでしょう」
「ただのお喋り、か」
そう繰り返し、ユキは少し笑う。
彼が笑みをたやさないのはいつも通りで、話の最中に独り言をつぶやくのもいつものことだった。
「不謹慎、って思う?」
そんないつも通りの彼が、今日の私には異様なほど癪に障った。口をついて出た売り言葉に、ユキの笑みが消えた。
「思わないよ。逆にさ」
「逆?」
「的を射てるな、って」
常に穏やかで、どんな皮肉や罵倒にも揺らがない。余裕に満ちたその眼差しは鏡のように、私を映して、突き刺さる。
ベッドの中で見せる、あの寝顔と同じ。
私を丸裸にして、晒して、どうしようもなく惨めに堕とす。
「わかってるの」
プライドも恥じらいも引き剥がされた後に残るのは、空っぽな器だけ。
「ただのお喋りなのに、一方は金を払ってでも時間を買って、一方じゃそれを体のいい暇つぶし程度にしか思ってない。ぼったくりもいいところよね。そこらのキャバクラと変わりやしないわ」
勝手に飛び出してくる言葉は、勝手に荒く、強くなっていく。
玉葱を刻んでいるわけでもないのに、鼻腔の奥が厚い。
「傍から見てればくだらない会話ばっかりよ。社会批判や人間関係の愚痴なんてまだいい方。明らかな童貞が彼女でっち上げてセックスがうまくできないだとか、ウリしまくってるビッチ女が、捨てた男にストーカーされてて金せびられてるとか。そんな馬鹿馬鹿しい話をしに来る人たちから、金巻き上げて、相槌打つだけで何の貢献もしない。そんな仕事に満足してる私が一番馬鹿馬鹿しいんだって、わかってるわよ」
「馨」
「バカなのはお互い様。何の資格もないにわかカウンセラーに高い金払って愚痴りに来るあの人たちも、彼らに頼られてるなんて思いあがってる私も。医者と患者なんかじゃない。信頼も何もない、ただの利害関係よ。それでも」
「馨」
彼が呼んだ名前が耳に届いたのと同時に、額に冷たい指先が触れ、視界に影が差す。
「嬉しいのよ。私のところに来てくれるだけで」
「熱、あるね」
自分の手にも額を当てて、ユキは呆れたように笑って言った。
「なんで言わないの。自分でわかってたんだろ」
「だって」
途端に気が抜けて、体中が一気に重くなっていく。答える前に、ユキは立ち上がって私の手を引き、寝室へと連れて行った。一人で歩くと言おうとした時には、すでにベッドに座らされていた。
「着替える?」
抵抗するまもなく私を横たわらせたユキは、ベッドの脇にしゃがんでもう一度額に手を当ててくる。枕に沈んだ頭を振って、目を瞑る。冷たかった掌は、熱が移って溶けるように肌に染みてくる。
「ユキ」
「ん?」
「ごめんね」
返事はなく、代わりに額の少し上に、唇が触れる。額にあった掌は、そのままゆっくりと私の髪を撫でる。
「昨日のさ」
「うん」
「銀髪の彼、あれがシンちゃん?」
意外な名前に、薄く瞼を開く。
「会ったの初めてだっけ」
「話には出てきてたけどね。最初女の子だと思ったよ」
「細いでしょ、あの子。ちゃんとご飯食べてるのかしら」
「気になるの」
相変わらず余裕に満ちているその顔に、指を伸ばした。弧を描く、薄い唇に触る。
「怒った?」
「怒らないよ。自業自得だし」
「わかってるじゃない」
ぼやけていた視界が暗くなり、呼吸がふさがれた。
狡い男
そうやって甘えられると、放っておけなくなる
一瞬で離れた唇の名残を味わいながら、再び目を閉じ、微睡に意識を委ねた。
この二人は恋人じゃないし、ただのセフレでもないっていう設定にしています。
恋愛感情はなくても、抱いて、抱かれることはできる関係、というか…う~難しい!
こういう関係の男女がどんな風に映るかは読み手の方それぞれだと思うんで、ご自由に解釈してくださいませ。
次はユキさん、年下の女の子と密会!?の話です。
ありがとうございました!