【2】Ⅱ-1,Countdown
「おい」
「もうちょっと待って」
「いいよ、今日はもう」
「だめ。せっかくいいの見つけたんだから」
晃斗くんの溜息と、私の唸り声が重なる。後ろ向いて と指示を出し、右回りに半回転してもらう。姿見に、唇を結んだ不機嫌顔が映る。
「やっぱり、ネイビーだとぴったりしすぎなんだよね。もうちょっと余裕があれば完璧なんだけど」
「サイズこれしかないんだから、しょうがねえよ」
「カーキも似合うんだけど、色がしっくりくるのはネイビーだなあ。それにカーキのモッズコート、一枚持ってるよね?」
「あれは古いし、デザイン被んなきゃ同じ色でもいいよ」
「じゃあネイビーにしよう」
「ネイビー?」
「だめ?」
「いや、今の流れでなんでネイビーになるんだよ。デザイン被らなければいいって言ったのに」
「晃斗くんがどっちでもいいから決めてくれって言ったんじゃん」
無意識に声が大きくなったので、最後の方は少しボリュームを下げる。晃斗くんの方も、周りの様子を伺い口を閉ざす。
「今、何か言おうとしてた」
「いいよ」
「よくない。決めたでしょ。言いたいことは遠慮しないで言うって」
もう少し身長があれば、説得力も増すのかも知れない。だけどこの身長差では、私が駄々をこねる子供で、晃斗くんの方はうんざりしているお兄さんにしか見えないだろう。悔しくて、意味などないのに背伸びをしてみる。ますますムキになってるみたいだった。
「わかった」
首を振りながら、晃斗くんは試着していたジャケットを脱ぐと店員の男の人にこれをお願いします と伝えた。サイズと値段を確認し、店員さんはかしこまりました と私たちをカウンターへ案内する。
「わかったって、何が?」
「遠慮しないで言うってやつ」
「うん」
「うん?」
「だから、教えて?」
「今?」
「今」
「もう済んだからいいよ」
抗議する前に、店員さんが値段を提示してきたので晃斗さんはカードを手渡す。お待ちください と告げて、店員さんがレジを操作する。
「どっちでもよかったんだよ」
「それは聞いたよ?」
意地悪に聞こえるのを承知で、尋ね返した。ぷい と顔が背けられる。怒っているのではないのはなんとなくわかったので、応えを待ってみる。
「選んでもらえれば」
「ん?」
「選んでもらえるなら、どっちでもよかった」
不意打ち過ぎて、返事ができなかった。表情を崩さず荷物を受け取る横顔をまともに見れず、床のタイルの模様に目を落としながら、先を行く大きな靴の後を追った。
伊勢丹から通りへ出ると、空の暗さで日が沈んだあとだとわかった。背の高いビルの隙間を通り抜けて来る風は冷たく、顔がちくちくと痛む。前後左右どこを見てもショーケースの中は赤と緑、たまに銀色の聖夜仕様で、一年の終わりが近づいていることを告げていた。
「夕飯どうすんの」
入り乱れる人の波を、はぐれないようにできるだけ寄りながら歩く。
「昨日の煮物残ってるし、買い物行かなくてもあるもので済ませちゃおうかな。食べてく?」
「そのある分に寄る。足りなかったら帰って食うよ」
「今日はお店出るの?」
「たぶん呼ばれない。うちは宴会メニューとかねえから、このシーズンは他の店に客流れてってむしろ夜は暇なんだ」
「大丈夫なの、それで」
「大丈夫じゃねえだろうな」
他人事のように言い放つ晃斗くんの唇が、少しだけ弧を描く。
「じゃあ、晃斗くんが稼いであげないと」
「買い物で散財した女の台詞じゃねえな」
「散財じゃないもん。想定内だし」
「予算オーバーって言ってなかったか」
「いいの、クリスマス前なんだから」
目に力を入れて睨みつけると、晃斗くんは今度は小さい声で笑う。全然怖くないんだろうなと、自分でもわかる。
こんな会話ができるようになったのがいつからだったかはわからない。
こうやって軽口を叩きあったり、冗談を言ったり、一緒に洋服を選んだり、ご飯を食べたりする日々が、当たり前になっていた。
前みたいによく観察して、よく注意しなくても、ちゃんと一つずつ言葉を選んでいて、たまに意地悪で、あまりあからさまではなくてもしょっちゅう笑う人なんだって、わかるようになっていた。
初めて会って、言葉を交わしてから三ヶ月、私たちは名付け難く、でも誰よりも近い、不思議な関係を続けていた。
「クリスマスかあ」
自分で話題に出しておきながら、このシーズンにあまりいい思い出はなかった。最後の記憶は遥か遠すぎて、うまく思い描けない。幸せそうな人たちを遠くから眺めて、早くこの浮かれた空気が終わればいい、そんなひねくれた気持ちで、過ごしていた。
「なに」
「ん?」
「憂鬱そうだな」
「今年は楽しみだよ。ケーキ作るし」
「そうか」
「おじさんに教えてもらうんだ」
「覚悟しといた方がいい。普段は何に関しても適当だが、食い物のことになるとうるさいぞ、あの人は」
「それ、晃斗くんにだけじゃ」
終わる前に、晃斗くんとの間に逆方向から二人並んだ女の人が割り込んできた。一瞬で開いた距離の間に、後ろからどんどん人がついて歩いてくる。いつの間にか遠く押し流されてしまった頭を、目で追いかける。脚を動かしているのに、追いつけない。
スニーカーの上から、痛みが走った。振り向いても、誰が踏んだのかはわからなかった。もう一度前を向くと、完全にその姿は見えなくなっていた。
名前を呼んでも、応えは聞こえない。途端に、怖くなった。人波の中、立ち止まって、来た方を振り返る。見えない。
「晃斗く…」
もう一度呼んだところで、肩を軽く、でも強い力で引かれた。強制的に、向いている方向が変わった。目の前にいたのは、探していた姿ではなかった。
「大丈夫?黒羽さん」
彼よりも近い目線が、まっすぐ私を見ている。
「シュン君?」
「久しぶりだね。てか大丈夫?迷子?」
相変わらずの矢継ぎ早なトークのおかげで焦りがどこかへ飛んでいき、かえって落ち着きが戻ってくる。
「ううん、迷ってはいないんだけど」
「買い物?」
「そう、ちょうど終わったところで」
「一人?よかったら、これからメシでも行こうよ」
目深にかぶった黒のニットキャップの下で、シュン君はにかっ と八重歯を覗かせて笑う。屈託のない笑みを見せられ、ネガティブな答えを返すのに胸が痛んだ。
「ごめんね、実は一人じゃなくて」
晃斗くんの名前を出そうとしたところで、言葉が詰まる。
シュン君は、晃斗くんの名前を知らない。
彼との関係を表すのに、どんな言葉を使えばいいんだろう。
友達でも、家族でもない。
ましてや、恋人なんて
「あ、もしかしてあのでっかい人か。いつも一緒の」
考えを巡らす私をよそに、シュン君はぱちん と指を鳴らす。
「はぐれたの?」
「うん、さっきまで一緒だったんだけど」
「電話してみた?」
「ううん、まだ」
「じゃあメッセージ送って、どこかで待ってようよ。俺も一緒に行くから」
返事を聞く前に、シュン君は私の両肩に手を乗せて背中を押す。おかげで人混みからは退避できたものの、そこから見渡しても晃斗くんは見えない。
「しかし、どこ行っちゃったんだろうね」
「私が悪いの。よそ見してたから」
スマートフォンでメールアプリを開く前に、電話をかけてみる。繋がることはなく、話し中を伝える電子音だけが繰り返される。
「普通見失うかな」
冗談なのか本気で非難してるのかは、スマートフォンのディスプレイを見ていたせいでわからなかった。
「私、ちっちゃいから。埋もれちゃったんだよ」
「おれもちっちゃいけど、おれなら見失わないな」
今度は、逃げられなかった。私の目とディスプレイの間に入ってきたシュン君の大きな丸い目に、じっと見つめられる。当たり前だけれど、髪は金色なのに、まつげは黒く、密だった。
「見失ってねえよ」
頭の上から、声が聞こえた。
「晃斗くん」
思わず、頬が緩む。だけど晃斗くんは違った。いつか見た、あの刺すような目つきで、シュン君を睨んでいた。
「どうも」
対するシュン君も、挑戦的に唇だけで笑う。空気がぴん と張りつめている。耐えられず、私は声をあげる。
「ごめんね、はぐれちゃって」
晃斗くんは私の方を見ようとせず、声だけで返事をする。その間もシュン君から目を離さず、まるで映画やドラマの中のスナイパーみたいに注視していた。
「シュン君、ごめんね。ご飯はまた」
「いいよ。でもできれば二人でがいいな」
「二人で?」
「彼氏じゃないんだよね?アキトさんは」
今度は明らかに挑発だった。笑顔のまま、晃斗くんの視線をじっと見つめ返している。
「そんなわけで、連絡先教えてほしいな。今度メシ誘うから」
そう言って、シュン君はメッセージ用アプリのIDを尋ねてきた。使っていない と答えると、シュン君はひどく驚いた。
「マジで?メール派?」
「あんまりSNS好きじゃなくて」
「じゃあメアド、教えてくれる?」
答える前に、晃斗くんの顔を見てしまう。晃斗くんは何も言わず、表情も変えない。
「メアドもダメ?」
「ダメではないよ。ただ」
「もしかして、なんでもアキトさんに聞いてから、的な感じ?」
そうだとは言えなかった。意思のない奴だと思われるんだろうな と頭の隅に浮かぶ。一方で、それでも構わないと思う自分がいた。極力自分の情報を表に出さない、それは晃斗くんとの「契約」のうちの一つだった。
「ねえ、黒羽さん。この人とはどういう関係なの?おれみたいな部外者には言えない?」
「部外者なんて」
「思ってないなら、教えてよ。それとも、なにか弱みでも」
「触るな」
言葉につまってきたところで、低い声が混じった。私の両肘に触れていたシュン君の手を、晃斗くんが思い切り振り払っていた。
「いってえな」
シュン君の顔から、笑みが消えた。今まで見たことない、別人みたいに冷たい顔だった。
二人の間にぽっかり空洞が空いているみたいに、そこだけ人が通らず歩道のタイルが見えていた。通り過ぎていく人達の視線を感じる。寒さのせいではなく、身体が震えた。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえた。甲高いその音が、空気ごと緊張を切り裂く。救急車がすぐ横の車道を通り過ぎた時、晃斗くんもシュン君も互いに向き合ったままだったけれど、もう睨み合ってはいなかった。
「怒らせようとか思ってたんじゃないんです。気悪くさせたんなら謝ります」
ぺこ とシュン君が頭を下げる。晃斗くんも少し顎を動かして、頷いた。
また学校で と残し、シュン君は交差点の人混みに紛れて見えなくなった。
「悪かった」
大通りを抜けて裏道に入ったところで、晃斗くんが呟いた。買い物の荷物は、全部晃斗くんが持ってくれていた。手持ち無沙汰な両手をコートのポケットに突っ込みながら、私はその隣を歩いている。
「さっきのこと?」
「一瞬でも、傍から離れた」
「しょうがないよ。晃斗くんからは、私のこと見えてたんでしょう?」
「ああ。でも」
「そんなに気にしないの。なんにもなかったんだから」
晃斗くんの過剰なまでの心配症は、今に始まったことではない。もちろんそれが彼の仕事であり、私を案じてくれていることもわかっている。この何週間かで、私は対処の仕方を覚えていた。下手に深刻に捉えて、余計な負担や心配をかけたくなかった。
「どう思う、あいつのこと」
「あいつ?シュン君?」
「そう」
「どうって」
その質問の方がどうなのかと思う とは口に出さないでおく。意図はわかっていた。だから、必要以上にそれらしい答えを捻り出した。
「犬っぽい」
「犬?」
「そう、ミニチュアダックスフンドとか。目がぱっちりしてて、いっつもぱたぱた動いてて、可愛くない?」
「可愛くはない」
「可愛いって」
本来の話題から遠ざけようとしていることに、彼が気づかないわけがなかった。それでも、かろうじて保たれているこの時間を壊したくなかった。私が鈍感でいれば、それでよかった。
「でも、私は犬は大きい方が好きだなあ。ドーベルマンとかハスキーみたいにキリッとしてるの」
「猫派だと思ってた」
「猫も好きだよ。ルーチェの前でよく日向ぼっこしてる子いるよね」
「あいつはあそこにいりゃ飯もらえるってわかってて、居座ってるんだよ」
マンションについて、郵便ポストを確認して、エレベーターは使わず階段を登って、部屋にたどり着くまで動物の話題は続いた。晃斗くんがねずみを食べたことがあるという話題が終わる頃には、買ってきたものの整理も一段落していた。
「じゃあ、明日」
「うん、おやすみ」
「あのさ」
靴を履いて玄関のドアを開きかけたところで、晃斗くんが私を呼ぶ。
「なに?」
「気をつけろよ」
「なにに?」
「あいつ。あのシュンって奴」
なにを と聞き返す前に、おやすみ と残して晃斗くんは帰っていった。
閉められたドアと向き合ったまま、私はしばらく考えた。
薄々、気づいてはいた。シュン君が私に話しかけてくるのは、明らかに私個人に興味があるからとは思えない。もしかしたら、私と晃斗くんの関係や、私のバックグラウンドについて何か知っているのかもしれない。
だけど、だからと言って彼が私たちに危害を加えてくるとも思えなかった。仮にシュン君が晃斗くんの言うような、前にマンションのエントランスで飛びかかってきたような危ない人だったら、今頃とっくに学校の校舎裏で首でも締められているはずだ。
少しノリが軽くて童顔で、その裏に何かを隠している男の子。その何かに心惹かれると言うよりは、もちろん元からの性格ではあるのだろうけども、なぜわざわざ明るい、人懐っこい少年像を印象づけようとしているのか、そちらの方が気になっていた。
晃斗くんは、きっと私より警戒している。私も、私なりに余計なことを喋らないように気をつけていればいい。
我慢していた空っぽの胃が音を立てたので、スリッパを履いてキッチンに向かった。冷蔵庫の中のタッパーに入った残り物の煮物は、なぜだか一人分には多い気がしてきた。
次の日の体育の時間のあとも、私の胃は同じように変な音を立てていた。試合ともいえないような女子だけでのバレーボールのゲームを終えて、湿気と制汗剤と汗の匂いが籠った更衣室から早く脱出したかったのに、髪を結っていたゴムとヘアピンが絡まって、ひどいことになっていた。何本かの髪の毛を犠牲にしてようやくヘアピンを全部とり終わった頃には、更衣室には誰もいなかった。
スニーカーをつま先に突っかけたまま、冷たい外気に飛び出す。風が正面から襲ってきて、ただでさえ乱れた髪が後ろに持っていかれる。開けた視界の先に、そこで待っているはずの姿はなかった。
スマートフォンを取り出し、メールと着信をチェックする。何も来ていなかった。遅すぎて待ちくたびれ、トイレにでも行ったのかもしれない。そう思って、もう一度辺りを見回した時だった。
「今、いい?」
昨日と同じ黒のニットキャップを被ったシュン君が、正面に立っていた。
「気をつけろよ」
晃斗くんの言葉が頭をよぎる。握っていた携帯を、両手に持ち直す。
「あの人なら、もうすぐ来るよ。ちょっと電話してもらってるだけ」
「電話?」
「お願い。ちょっとでいいから、話させて」
話の流れがわからなかった。シュン君の顔は、昨日みたいに冷たくてきついものではなく、でも真剣だった。私は頷いた。いつでも走り出せるように、足の裏に力を入れた。
「あの人、アキトさん。気をつけたほうがいいよ」
「え」
「黒羽さん、本当はわかってるよね。あの人が普通の、一般人じゃないって」
ますます話がわからなくなった。
普通じゃないとか、一般人じゃないとか、突然何を言うの?
どうして、知ってるの?
「おれでもわかるよ。あの目つきと、過剰なまでの気の張り方。君みたいな普通の生活を送ってきた人には想像できない、地獄みたいな修羅場を生きてきた人のオーラを、あの人は持っている。たぶん、あの人は」
その言葉の続きを受け容れるのに、何秒かかかった。
それからまた何秒か過ぎても、言葉を発せなかった。
ぎらつくナイフを、喉元に突きつけられた気分だった。
「あの人の傍にいつづければ、君もきっと、いや絶対に、その地獄に引きずり込まれる日が来るよ」
返事ができないまま、その大きな目を見つめ返す。もしかしたら、睨みつけてたかもしれない。少しの沈黙のあと、シュン君はいつもみたいににか っと笑った。
「だから、おれのところにくるなら今のうちだよ」
じゃあね とウインクを残して去った背中を、立ちすくんだまま見送った。冷たい風が、汗で冷えた肌を服の上から刺激する。力が抜けて、そのまま押し流されそうだった。
「悪い、待ったか」
後ろから、晃斗くんの声がした。自分でもわかるくらい不自然に、素早く振り向いた。
「ううん、全然」
「征景から電話来てて。ここ電波最悪だったから、場所移動してた」
「征景さん?なんて?」
「君に、伝言」
渡された携帯電話のディスプレイは、メールの画面だった。送り主は、征景さんだった。
「これって」
「来週十二月二十四日午後六時、Wing及び系列会社合同開催のクリスマスパーティーに、君と俺も参加するようにって」
「なんで」
「黒羽会長、君の祖父さんからの打診だそうだ」
これ以上ないくらいに、頭の中がぐちゃぐちゃになった。返事をしない私に、晃斗くんが大丈夫か と声をかけてくれる。
「うん、ちょっといきなりすぎて、びっくりして」
「だろうな」
飯行くか と促す晃斗くんの、一歩後ろをついて歩いた。いつもと同じ背中の隣を、いつもと同じようには歩けなかった。
この何分かの間に強烈すぎる衝撃に二度も襲われ、私の鼓動は速まりっぱなしだった。
頭は混乱し、脚には感覚がなく、目にはディスプレイの文字が焼き付き、耳の奥では、シュン君の言葉が木霊みたいに反芻していた。全身がそれを拒否していたのに、胸の一番深いところには、真っ白な布に一雫滴った真っ赤な血みたいに、じわりと染み込んでいた。
わかってるよね
あの人が普通の、一般人じゃないって
たぶん、あの人は
「何人もの人間の命を、奪ってきた人だよ」
next
ゆびぱっちんとかウィンクとか練習しないでできる人羨ましい