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Eclipse  作者: 楪美
【2】-Ⅰ
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【2】Ⅰ-5,Vow



暖房の効いていたロビーからエントランスの外へ一歩出ると、冷たい空気が顔肌に刺さった。



「よい一日を」



案内役の社員に見送られ、噴水が踊る広場を横切って通りへ出る。いくつか角を曲がってからウォールストリートへ出たあと、ブルックリン・ブリッジ方面へ歩いた。



川へ近づいてくに連れ、建物の隙間から覗く空が、だんだん広くなっていく。慣れ親しんだ街と似ているようで違う景色と空気は、奥深くに隠していたはずの記憶を、一枚ずつ剥がすように呼び起こす。




穏やかな喧騒を切り裂いた轟音と、容赦なく襲ってきた熱気、煙。



離すまいと握った手の感触が途切れたのと、宙に釣り上げられたような衝撃に襲われたのが、同時だった。



長い、長い、長い夢から覚めたあとが、本当の悪夢の始まりだった。




今、この街は、生々しい傷跡も忌まわしい記憶もまるで存在すらしていないように時を刻み、回っている。



痛みを伴う記憶は時間とともに薄れ、塗り替えられて過去となり、形どられて記録となり 、最後には歴史となって埋もれていく。



流れていくしかないのならば、せめて失わないようにしがみついて、追うしかない。



車道に一歩踏み出して手を挙げ、タクシーを止めた。視線だけを寄越した運転手に、同じように視線と、行き先を返した。



「JFK空港まで」













「Welcome back!」



今度こそ忘れられているかと覚悟していたが、週一回のテレビ電話が功を奏していたようだった。油断すると負けそうな勢いで突進してきた小さな身体を屈んで抱きとめ、思い切り高くまで持ち上げた。



「よし、元気だなジョー」

「おみやげは?」

「部屋に入ってからな。サラは?」

「おじいちゃんといっしょにいるよ。ねえはやくはやく」



裾を引っ張って急かされながらコートを脱いでいると、じっとこちらを凝視するサラを抱えた義父さん、もといリックが階段を降りて迎えてくれた。



「おかえり、ユキ」

「リック、足の具合はどう?」

「彼らと遊び回ってると、程よい運動になるみたいでね。最近動かしやすくなってきたよ」

「あんまり無理しちゃ駄目だよ。サラは、元気かい?」



リックが抱き上げていても俺の目線より低い位置から、サラはやはりじっと見つめてくる。数週間に一度しか会えないのでは、覚えていろという方が無理があるのか。と、突然目の前に影が差す。俺の眼鏡を小さな手で握りながら、サラはようやく笑った。



「Daddy!」



身を乗り出すサラをリックから受けとめ、頬からは少し外れて耳の付け根のあたりに小さくキスをもらう。今回も杞憂に終わったようで、一安心だ。



「よかった。まだ忘れられてないみたいだ」

「ジョーもサラも、何日も前から今日はパパが来る日だってちゃんと覚えていたよ。いい子にしてないとおみやげはナシだって聞かせておいた」

「なら、ちゃんと渡さないとな」



仕事用の鞄と一緒に持ってきた紙袋から、二人にそれぞれプレゼントを渡した。ジョーは包装紙をセロハンテープから綺麗に剥がし、サラの方は豪快に破いたのち早々に諦めてリックに開けてー と甘える。誰に似たのか、二人ともすでに性格が出ている。



「くるまだ!」

「これなあに?パパ」



結び目にダイヤを型どったビーズを散りばめた大きな赤いリボンを、サラは蝶ネクタイのように首元にあてる。



「サラは髪が長くなったからね、ほらこうやって」

「わあ!かわいい」



結った髪を手鏡で覗き込むサラの横で、ジョーはミニカーのおもちゃセットを早速走らせている。目を輝かせてはしゃぐ子どもたちを見守りつつ、リックはカプチーノを用意してくれる。



「また、すぐに日本に戻るのかい」

「うん、最終便で。慌ただしくてごめん」

「顔見せに来てくれるだけでも、子どもたちにとっては大事な時間さ」

「仕事、仕事じゃダメだってわかってはいるんだけどね」

「動けるうちに、時間が取れるうちにっていうのはいい心がけだよ。いつ、何がどうなるかなんて、誰にもわからないからね」




日常は、たった一秒で破壊される。



大事な人は、前触れなどなく奪われる。



俺も 、義父さんも、身に染みて、叩き込まれて思い知っている。



犠牲にしていい時間なんて、ありはしない。




「今日は、エリカのところにも行ってくる。前に来たときは、寄れなかったから」

「たしか、一緒に行ったのは去年の九月頃だったね」



この前に来た時はひまわりだった花瓶には、赤と白の薔薇が一輪ずつ飾ってある。茎をなぞって、突き出た刺を撫でる。そっと触ったので、痛みはなかった。



「早いなあ」

「もうすぐ、二年だ」

「次は、子どもたちと、四人で行こう」

「うん」

「気をつけるんだよ、ユキ」



すべてを知りながらなおこうして身を案じてくれる義父に、いつもと同じようにありがとう としか伝えられないのがもどかしかった。



「俺は、何もできてないのに」

「何言ってるんだ。隠居して老い先短い年寄りに、こうして孫たちが傍にいてくれている。十分さ」

「せめて、こっちに拠点を持ってこれればいいんだけど」

「子どもたちが心配なのはよくわかる。だが仕事を全うすることで、こうして家族を守る術にもなっているはずだ」

「俺には手放せないものが多すぎるのかもしれない。欲張りなんだろうね」

「ひとつもないよりはずっといい。今、君は君にできている最善を尽くしているだろう?それでいいんだ」

「最善と理想は、一致しないね」

「悲しいけれどね。私もずっとそうだった」

「それなら、少しは救われるよ」



何十年も会社を引っ張り、家族を養ってきた先輩の言葉は心地よく重かった。それからまた少し仕事の話をし、子どもたちの最近の様子を聞きながら過ごした。リックの淹れたカプチーノは、シナモンが利いていて美味しかった。



日米の外交についての話題が一段落したところで、廊下から柱時計が大きく響く。腕時計を確認する。時計は、三分ほど音よりも早かった。



時計の鐘が鳴るのと合わせて、テーブルのへりに茶色の髪の頭のてっぺんが現れた。続いて、同じ色の目がゆっくりと覗く。



「おはなし、おわった?」



背伸びをしているらしく、ジョーの丸い目はテーブルから見えたり隠れたりを繰り返している。



「ぼくとサラも、パパにおみやげあるんだよ」



こっちこっち と手を引かれ、俺とリックは椅子を立ちリビングに向かった。檜造りの低いテーブルには二人が思い思いに描いた絵とクレヨンがそのままになっており、去年の誕生日にサラにプレゼントしたぬいぐるみが、ソファの隅に座らされている。



「おみやげ、なーんだ?」



サラがもったいぶりながら、手のひらを合わせて隠している。小さい両手からは見当がついてしまうほど丸見えだったが、なんだい? と両手を差し出してみる。



「おじいちゃんにおしえてもらってつくったの」



渡されたのは、小ぶりな青い石に革紐を通して作られたブレスレットだった。どれも形が揃っており、光が反射するほど磨かれている。



「似合う?」

「にあう!」

「すてき!」



ジョーとサラが海辺で一つずつ選んだのをリックが研磨して穴を開け、皆で紐を通したという完全なハンドメイドだそうだ。右手首にはめたそれは、スーツと合わせてもアクセサリーとして違和感のないデザインだった。



「いつもつけておくよ。ありがとう」

「おじいちゃん!しゃしん!」



サラにせがまれ、リックのタブレットと最近新しく買ったと言うカメラで、ブレスレット、それから四人で写真を撮った。そのあと、自分の携帯でジョー、サラ、リックを一枚ずつ映し、最後にもう一枚、四人揃って撮った。










「今年も、綺麗に咲いたね」



遠くに街並み、その向こうの明るく色づいた山々が見える小高い丘の上は、風が唸り、満開の薔薇とコートの裾と、供えた花束を揺らしている。



「ジョーは走るのが速いね。もうバスケットに興味津々らしい。サラは髪質が君にそっくりだ。猫っ毛でくせっ毛」



話してから、彼女の方がよほど頻繁に子どもたちと会っていることに気づいた。三人が住む家から距離があるとはいえ、海の向こうとは訳が違う。



「俺が傍にいなくても、あの子たちは育つ。義父さんが育ててくれる。俺じゃなくても」



口にすれば真実になりそうで、続きを飲み込んだ。



親になると決めた日、命の限り、守ろうと誓った。



一緒なら、何があっても乗り越えられると思っていた。



「それでも、役目を果たすしかない。わかっているよ。だけど」



何度も何度も、帰ってくる夢を見た。



同じくらい、業火と煙に蒔かれて燃え尽きていく夢も見た。



「おかしいよね。やるべき仕事をするのも、親として傍にいようと願うのも、どっちもあの子たちのためっていう気持ちは変わらないのに」



いつか選ばなければならない日が来たら、切り捨てられるのか。



何も失わないように などと願うのは、間違っているのか。



「もう、あんな思いは二度としたくないよ。エリカ」



墓石に彫られた、最愛の名に触れる。



物言わぬまま静かに立つ十字架は、太陽の光に当たって暖かい。



少しの間目を閉じ、そのまま上を向いて、空を見た。



初めてここに来た日と同じ、高くて青い空だった。



「わかってる。わかってるよ」



迷いを押し込めるのは簡単だ。



かけがえのない人を失った傷を、痛みを、抉り返せばいい。



右手首のブレスレットを、そっと握る。もう一度、妻が眠る方へ向き直り、花束に唇で触れた。




同じ過ちは、繰り返さない。



絶対に、奪わせなどしない。




音を立てて吹き荒ぶ風の方へ、石畳の道を一歩一歩踏みしめ、降りていった。






リックの本名はリチャード。

リチャード・ギアさんがモデルです。

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