【2】Ⅰ-4,Awake
大都会に埋もれ、日光もろくに届かない暗くて寒い部屋でも、取ってつけたようではあるが利点は存在する。
部屋の北側と東側にの壁に取り付けられた窓のうち、東側の方には早朝の僅かな間ではあるが、日が通る時間帯がある。ブラインドをあけておけば、余程寝相が崩れていないかぎりちょうどベッドの枕の位置に眩しい光が差し込んでくるため、目覚まし時計も携帯のアラームも不要という塩梅だ。
ただ、その唯一の利点も、時と場合、そして気分によっては煩わしいデメリットになりかねない。
まともに寝付くことができず明け方になってようやく微睡んできた頃に、寝不足の瞼にもろに直射日光を浴びた今朝など、その最たる例だ。
目が完全に覚める直前までは、頭の中ではいつものように彼女の部屋へ行くつもりだった。
その必要がないことを思い出してからは、ブラインドを閉め忘れた昨夜の自分、そして、彼女を傷つけた自分を呪った。
何が悪かったのか、どこで食い違ったのか。
冴えた目を無理矢理閉じて、いつまで経っても遠のかない意識の中、考えても考えても結論は出なかった。電話は通じず、何十分もかけて捻り出したメールの返事も来なかった。
携帯のディスプレイに映る時刻はAM06:07と、仕入れに行くには遅すぎ、他の何をするにも早すぎる。
昨日の今頃は、まだ眠りの中だった。十分後には目を覚まし、身支度と朝食を済ませてまだ紺色が残る空の下、同じように準備を終えていた彼女のもとへ向かった。白み始めた街を、冷えて澄み切った空気を、並んで切り裂きながら走った。
明日も同じかと尋ねたら、課題が終わってたらね と彼女は笑った。
今、状況を問うメールを送ったとしても、送信ボックスにたまるだけでおそらく返事は返ってこない。
携帯を確認する暇がないか、もしくは無視しているのか。
いずれにしろ、今彼女にとって俺からの連絡に応える優先度は、限りなく低いのだろう。昨日、店に出ていた時の俺と同じように。そう思うと、彼女を責めることなどできなかった。
とは言え、もしも、外になど出ていたら。
思わず飛び起きたところで、落着け と、言い聞かせる。
自棄になって衝動だけで行動するような、浅はかな女ではないはずだ。
今日は一限目から講義のある日だ。今まで朝一、夕方一コマの授業であってもサボったことはなかったし、昨日だって、今朝までには課題を間に合わせると意気込んでいた。いつも通り直に携帯が鳴り、何らかの連絡が来るはずだ。
そうやってつらつらと並べ立てて思い込もうとすればするほど、突き付けられる。
昨日と同じように一日が始まる保証なんて、どこにもない。
携帯を手にしては放るのを繰り返し、やがて意味のない行為に飽きて、手探りでサイドボードから煙草を引き寄せた。浅く吸い込んだそれは、美味くも苦くもなんともなかった。
「血出てるぞ」
おっさんに言われて初めて、左手の親指の付け根に目がいった。二センチほどの切り傷ができて、血が溢れている。一瞬遅れて、痺れるように水が染みた。
「気づいてなかったのか」
湿った手で雑に貼った絆創膏は皮膚にうまくつかず、気休めにすらならない。
「集中できんなら出なくていい」
「問題ない」
どこがだ と、おっさんが言う前に自分の胸の内で突っ込みを入れる。
「てめえの血が混じったモン客になんか出せるか」
「だから、悪かったって言ってんだろ」
「いや一言も言ってねえだろうが」
言い返すのすら億劫で、黙ったまま皮むきを続ける。刃が思うように動かず、余計に苛立ちが募った。
「ったく」
予測していた拳骨は飛んでこず、代わりに差し出されたのは煙草のケースだった。
「いらねえ」
「そう言うな」
顔を背けた俺の態度にも機嫌を損ねることなく、ご丁寧にライターまで貸してきた。いつもはキャラが被るだのなんだのよく分からない理由で厨房では銜え煙草を許さないくせに、馬鹿に気前がいい。
「らしくねえ とでも思ってんだろ」
言って同じように煙草を灯したおっさんは、その舌でスープの味を見ている。
「正直気持ち悪い」
「こっちの台詞だ。じれったくてしょうがねえ」
「何が」
「まだすっとぼける気か」
味に納得が行かないらしく、ローリエの葉を半分に割いて、足している。煙草は口にしたままだ。
「聞くほどのモンじゃあないんだろうがな」
「じゃあ聞くな」
「だったら顔に出すな。そんなツラで立ってられたら商売にならん。どうも薄いな」
ぶつぶつ言いながら、おっさんは塩だの香辛料だのを加えて味を確かめ続けていた。うちの店のメニューにはちゃんとしたレシピなど存在せず、おっさんの頭と舌だけが頼りである。たとえ煙草で味覚が狂っていたとしても、 だ。
「何かが足らん。何だ」
わからん と頭を掻きむしるおっさんを横目に 、仕込みを終えた具材にラップをかける。剥がれかけた絆創膏がラップにくっつき、思わず舌打ちをした。口にしていた煙草が湿っていた厨房の床に落ち、音を立てて消える。
「そうか。晃斗、ガテマラを20挽いてくれ」
喉まで出かけた悪態より、おっさんの指示の方が先だった。意図はわからなかったが、どやされる前に従う。
「入れるのか」
「これでコクが出るはずだ」
「色悪くなるんじゃないのか」
「加減するさ」
「苦味も出そうだし」
「試す前からうだうだ言ってんじゃねえよ。ダメならダメで、アタリなら儲けもんだ」
その楽天的な思考回路が羨ましいくらいだった。ロースターで挽いたコーヒー豆を渡すと、おっさんはそれを茶葉用の紙パックに入れて鍋に沈め、蓋をする。それを十五秒程の間隔で取り出しては味見、また入れては取り出し、確認する流れをしばらく繰り返した。
必要な仕込み作業を一通り終わらせ、携帯電話を確認すると九時の十分前だった。相変わらず、着信もメールも通知はない。この時間に連絡がないということは、彼女が一時限目の授業をパスするか、そうでなくとも俺が彼女の部屋へ迎えに行く必要がないことを意味していた。
「ほら見ろ。この濃厚な口当たりが欲しかったんだよ」
人の気なんてお構いなしに、おっさんは得意気に味見を勧めてくる。言われるままに、受け取った小皿のスープを口に運ぶ。
「わかるか?」
「なんとなく」
「そのなんとなさが決定打になんのよ。勘づいて詰めるのと、放置するのじゃ大違いだ」
もう一度味を見てから火を弱め、おっさんは口にしたままだった煙草を美味そうに吸い込む。
「考えてもわからねえならまずやってみりゃいい。よくも悪くも、なるようになるもんさ」
「なるようになった結果が、最悪だとしてもか」
手間をかけて仕込んだ料理が駄目になるとしても
一日一日築いてきた関係が、壊れてしまうとしても
「上手くいかないのを承知で、それでもやれって言うのか」
「おまえの言う、最悪ってのは何だ」
換気扇へ吸い込まれていく煙を眺めながら、おっさんが呟く。
「死か、それとも」
最後まで言い切らないまま俺の背中を拳で叩くと、おっさんはそのままパーティションの奥へ入っていった。スープの匂いが香る中、タイル地の床に落ちたままだった吸殻を煙草用のごみ箱へ捨てる。訳もなく、深く息を吸い、そして吐いた。
最悪、それは
想像しただけで、肺が握り潰されるようだった。
携帯を開き、ツープッシュで電話をかける。待つ。出ない。
留守電の音声案内の一声目で電源ボタンを連打し、続けてメール画面を呼び出して短い一文を送信する。もう片手で腰に巻いていたサロンを解きながら、店の奥へ声を張り上げた。
「おっさん」
「なんだ」
「今日店出ねえから。バイト呼んでくれ」
おう と返事のでかい声を耳だけで確認し、勢いをつけて走り、店を出た。
つい数時間前、暗い中走ったコースを同じように駆け、同じ場所を目指した。
登り始めた陽に照らされた道は広く、人波にも信号にも、今度は邪魔されることはなかった。見慣れたマンションのエントランスに飛び込み、指が覚えている暗証番号でセキュリティロックを解除する。エレベーターを待つ時間すら惜しく階段を一気に昇っても、呼吸は乱れず汗も出なかった。
部屋のドアの前で脚を止める前に、先にインターホンに指を突き刺した。
呼吸と鼓動、熱が戻ってくる。
秒針替わりの、動悸がうるさい。
もう一度インターホンを強く押し、携帯電話を取り出して開く。メール受信のライトが点灯している。
開こうと親指をボタンの上に乗せたのと同時に、ガチャ と 、目の前の鍵の開く音がした。反射的に顔を上げ、同時に無意識に安堵した。
俺の恐れる「最悪」。それは、死ではなく
キイ と重たく、ゆっくりと扉が開かれていく。
このまま、まともに向き合えすらしないまま、失ってしまうなど
両手を、爪が食い込む程に握り締めた。
「...どちらさん?」
低い声とともに姿を現したのは、彼女ではなかった。
コーヒーを入れると美味しくなるスープってどんなですかね