【2】Ⅰ-2,Roundabout
煙草が欲しかった。
店までのわずか数分の道のりに耐えられず、部屋のサイドボードに置いてあるそれと同じパッケージを、自販機で買った。相変わらず虫の居所の悪いライターがやっと灯った時には、すでに店の脇の外階段を半分登ったところだった。
「明日は、私が連絡するまで休んでていいよ」
マンションの最上階の部屋まで送り届けたあと、彼女は肩越しにそう残して、息の出来る場所へと帰っていった。いつも欠かさずくれていた「お疲れ様」も「おやすみ」も、今夜は聞くことはなかった。
暗いねぐらに戻る気が起きず、闇になりきれない明るい街を眺めながら、しばらく過ごした。買ったばかりの箱から、一本、また一本と灰になっていく。美味くもない煙を吸い込んでも、何の解決にもならない。そうわかっていながら、呼吸と一緒に繰り返すこの行為をやめることは、おそらく不可能なのだろう。
退屈からの脱却に選んだ道は、案の定それまでの温い日常を嘘のように彼方へ押しやり、今までにはなかった日々を連れてきた。
護衛についた対象者の気まぐれや八つ当たり、知りもしない事情に振り回されるなんてことは多々あった。理不尽や無理難題は耐えるものではなく、受け流し、越えて、時には逆手にとるものだと学んできた。思い返してみると、命の危機に晒されるような目に遭ったこともなく、大した要求などなかったような気さえする。そのせいか、思い通りにいかず腹が立つとか苛つくとかいった、ガキじみた鬱憤を溜めることも少なかった。
フロイトが提唱した精神分析における「防衛規制」を扱った、昔受けた講義を思い出す。自我を脅かす要因を無意識下へと封じる「抑圧」を常とし、欲求、感情を「意識的に」、意識上へすら浮上させない状態となる訓練を、毎日抜き打ちで行っていた。
ある者は突如ありもしない休暇を言い渡され、本人が信じ込み養成所の敷地から一歩出た瞬間奇襲をかけられた。またある者は、異性の教官の色じかけに誘惑され、ベッドに入ったところで首筋にナイフをつきつけられた。さらにある者は、全教官訓練生に、給仕係や清掃員にまでグルになって丸三日間存在を無視され続け、発狂寸前まで持ちこたえたところにようやく指導教官から合格を言い渡されるというような、一般の教育機関であれば大問題になるような「指導」のもとの日々が、世に言う思春期に、俺が過ごした日常だった。
環境の変化や警護対象者の変更、難易度の高い任務への従事などにはいくらでも相対してきた。自我や欲求のコントロールなど訳はなかった。機械のように忠実に、無機質になることに、抵抗も躊躇いもなかった。
それが、この有様だ。
吐き出しようもぶつけようもない、得体のしれない苛立ちが募ってはいつの間にかどこかへ行き、また気づくとかさばっていく。
抑圧すべき対象、感情を揺らす要因が掴めなければ、それは否認という一時的な対処にしかならない。ある程度時間が区切られた任務中であればそれでやり過ごすことも可能だが、現状は違う。ここ数週間続く正体不明なアップダウンは、抑え込もうとすれば何事もなかったかのように霧散し、逆に姿を現したかと思えば音もなく積み重なっていく、これまでにまったく経験のない症状だった。
今までと、何が違う。
思い当たる節ならある。だが、どれも決定的な要因だとは思えない。
排除が不可能であれば、手探りで掴んでいくしかない。
筋道を立てて理解しているつもりではあっても、腑に落ちることはなくまたループが繰り返されていくのだった。
唇の皮に近づいてきた熱と煙を、隙間のなくなったシガーケースでもみ消し吸殻を押し込む。溜息ばかりの持ち主にやる気が失せたらしく、ライターの火が灯ることはなかった。
真後ろの扉のドアノブを掴みかけて、手を宙で止める。暗い部屋ではなく、料理の香りが漂う階下へ脚を向けた。
「明日は台風か?」
靴を履き変えサロンを身に付け、店に入ろうとしたところでおっさんに大袈裟に驚かれた。フロアは珍しく賑やかで、ざわめきと笑い声でBGMがかき消されている。
「悪いかよ、仕事して」
「今まで散々時間外労働だとか抜かしてたくせに」
俺が彼女の護衛につきはじめてからはおっさんは学生のバイトを雇ったらしく、店に入るのは久しぶりだった。
「一人よりかはマシだな」
「バイトの奴は」
「課題が終わらんから休ませてくれだと」
そのバイトの課題がどれほどかは知らないが、彼女曰くは「手を抜けば倍になって帰ってくる」らしい。今頃提出間際のそいつを片付けるべくパソコンに向かっているのだろうかなどと思い浮かべる反面、先刻の曖昧な笑顔を思い出して、また溜息を洩らしそうになる。
「一丁前に稼いでるんだから、給料は出さねえぞ」
「わかってるよ」
仕事に集中すべく油まみれの鍋を磨き始めていた俺に、おっさんは屋根でも補強しとくか などとうそぶいた。
ネットの口コミを見て来たという若者グループが千鳥足でそこら中に体をぶつけつつようやく帰ったと思ったら、既に店を閉める時間になっていた。
久々の盛況で、どんな接客をして過ごしたか思い出せなかった。何度か鳴っていた店の電話も取れないほど、俺もおっさんも始終手脚を動かしていた。
一転静まり返った店内の隅で洗い物を済ませフロアの掃除をしていたところで、奥で売上の計算を終えたおっさんが、明日の仕込みに戻ってきた。
「どうだ。久しぶりの労働は」
「人をニートみてえに言うな」
「似たようなもんだろうが」
言いつつ、いつの間に淹れたのかソーサーからマグカップにコーヒーを注ぎ、取手をこちらに向けカウンターに置く。
「新しく手にいれた豆だ。味見てみろ」
「今度はどこのだ」
「小笠原は父島。植物っぽさが売りらしい」
そりゃ植物だからな と声には出さずにマグカップを手にとる。
一口含んだところで、ポケットの携帯電話が震えた。あらかじめ設定してある、彼女からの着信のパターンだった。せっかくの一口を、味わう前に飲み込んでしまう。カップを片手に、もう一方の手で届いたメールを開いた。
二口目を口にすることはなかった。おっさんが横で何か言っているのだけを認識しながら、メール画面からツータッチで彼女の携帯へ発信する。数コールで留守電に切り替わったのを確認する前に、悪態と一緒に店を飛び出した。乱暴に閉ざされたドアが、けたたましく怒鳴ったのだけが聞こえた。
夜遅くにごめんなさい
プリンタの用紙がなくなってしまったのですが、電話が繋がらないので買いに出ます
近くのコンビニなので、心配しないでください
最短で辿り着いた心当たりの店に、まだその姿はなかった。
息を整える間もなく、彼女のマンションを目指す。通り過ぎていく街に目だけは配りながら、夜中にも関わらず人の群がる路地を抜ける。
馴染んでいるはずの道が、迷路のようにじれったい。
肩に衝撃が走る。
怒号が背後に流れて、消える。
繋がらない電話を耳に押し付けながら、呼吸も忘れて走った。
数時間前にあとにしたマンションのエントランスに着いても、彼女をとらえることはなかった。
しん としたその空間に、エレベーターの電灯だけがぼんやりと浮かんでいる。階数表示が動こうとしないのを三秒で見極め、薄暗い階段を駆け上った。降りてくる足音がないかどうか目の代わりに耳を澄ませながら、何段か飛ばしながら、ステップを蹴り続けた。
このまま会うことなく、部屋まで着いてしまったら。
熱を持った身体に、悪寒が走る。
鼓動と、足音と、思考がうるさい。
膨張した肺が、悲鳴をあげていた。
最上階の最後の一段を踏みしめた馬鹿でかい騒音と、カチャン と戸が閉まった音が、ほぼ同時に響いた。
振り向いた彼女の髪が、空気を孕んで靡く。
動いた唇からの声は、自分の呼吸で聞こえなかった。
煮え滾った体温を知覚し始めた身体に鞭打ち、立ち尽くす彼女のもとへ脚を動かす。
「晃斗さ...」
「俺が」
絞り出した声が、彼女が呼んだ俺の名に被る。
「俺が、別の奴だったら、どうした」
応えはない。いつも真っ直ぐに俺を見ているその目は、俯いている。
「なんで、外に出た」
腹の中が、荒れている。
「言ったはずだ。連絡がつかなくても、絶対にひとりで行動するなって」
なぜ、何も言わない
「わかってるのか?今の、おまえの状況がどれだけ」
「電話出てくれなかったのはそっちじゃない!」
反響が、耳に刺さる。何を続けようとしたか忘れた口が閉じないまま、他の機能もすべて、一瞬で止まる。
「お店にも電話したし、メールもした。でも折り返しも返事もなかったから、寝ちゃったかもとか、別の仕事なのかもとか考えたんだよ。だから自分の用事くらい自分で済ませなきゃって思ったの。気まぐれでも、軽い気持ちで出ようと思ったわけでもないんだよ。破りたくて約束破ったんじゃないんだから」
殴られたかのように、目の奥が揺らいだ。
俺には果たすべき義務であっても、彼女にとっては違った。
履行すべき契約でも、ましてや命令でもなかった。
「俺が引き受けるから」
だったら、約束を破ったのは。
「店に出ていて、電話にもメールにも気づけなかった」
弁解する気はなかった。事実は、事実だ。そして。
「それでも君は、俺を待つべきだった」
彼女の判断に非がなかったとは言い切れないのもまた、事実だ。
「さっきも言ったが、仮に今来たのが俺でなく悪意を持った誰かだったら、君は無事じゃすまなかった」
いくら身体能力が高くても、研ぎ澄まされた殺意に大抵の生き物は為す術を持たない。訓練を受け、幾度となく修羅場を潜ってきた人間であっても、死という未知を前にすれば、その「無」に支配される。
想像など意味を持たず、ただ己の存在の小ささと無力さを突きつけられ、声をあげる間もなく、奪われる。
生命の危険どころか、怪我一つ負うことなく日々過ごしている者たちに、理解しろという方が酷な話だ。
だが、だとしでも。
「もっと自覚を持ってくれ。じゃないと」
「死ぬ?」
意気込んだ言葉は、冷たい眼差しと声にかき消された。
「死にたくないなら言うこと聞け って、そういうことでしょう?」
口もとには笑みさえ浮かべたまま、目には色も情の揺れも浮かべず、彼女は笑う。
「私は自分のせいで自分がどうなってもどうでもいいんだけど、貴方は困るよね。責任問題になっちゃうもんね?」
「どうでもいい?」
「そんな怖い顔しないで」
言われて我に帰った隙をつかれた。カチャン と音をたてて開いた扉に、その姿が滑り込むように消える。
「仕事だからって、気負わなくていいから」
扉の隙間から、声だけが届く。顔は、見えない。
「私に何があっても、貴方は悪くないから」
何だよ、それ
口の前に、手足が動いていた。指と爪先で、閉まる寸前のドアの縁を捕えこじ開ける。見開かれた目と、ようやく視線が合わさる。
「だから、放っておけとでも言うつもりか」
まただ。
腹の中が煮えていくように、膨張していくように、沸き上がっていく。
「勝手を許して、手抜いてやり過ごせと」
「ダメなの?」
「こっちは仕事なんだよ。適当にやれるもんじゃ」
「だから、仕事だったらいいじゃない」
座ってスニーカーの靴紐を解いていた彼女が、扉を挟んですぐ目の前に立ちはだかった。敷居を挟んだ段差分だけ近づいた目線は、やはりどこか温度がない。
「お店の手伝いとか、他にも優先しなきゃいけない方を優先すればいいじゃない。私なんて二の次、三の次でいいんだよ。そうすれば、私も自由にできるし」
取っ手を引いてドアを閉ざそうとする彼女を、指と足先に力を入れて止めた。冷めた目の色が、挑むように鋭く俺を睨む。
「そんな訳にいかねえだろうが」
「どうして?」
再び引かれた扉を、抑えて食い止める。履き古した靴に、重い金属の塊がくい込む。
「なにか、理由があるの?そこまでこだわるのに」
理由ならある。
この役目を引き受けると決めた時に、同じように決めたことがある。
だけど。
「理由があろうがなかろうが、これが俺の役目なんだ」
彼女には関係ない。
伝える必要も、価値もない。
「俺が選んだ。それだけだ」
「でも、守れてないじゃない」
約束 と聞こえた時には、目の前の扉は閉じていた。続いて、カチャリ と鍵のかかる音が無機質に響く。
「もう、帰って」
「おい」
「中途半端にするんなら、最初から縛りつけたりしないで」
ドア越しの細い声は、それきり聞こえなくなった。
あんなに酷使してもなんともなかった身体が、ひどく重く、動かせなかった。
用紙どうするんだいルナちゃん