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Eclipse  作者: 楪美
【2】-Ⅰ
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【2】 Ⅰ-1,Distance




マイク越しの抑揚のない声と、窓の隙間風の音、それにあちこちで紡がれるお喋りが、大教室の壁にぼんやり響く。



この前隣に座っていた子のマニキュアのにおいはもうしない。代わりに、唇に塗ったばかりのリップクリームが、オレンジの香りを送ってくる。



教室の入口近くの備え付けのデスクに並べられていたレジュメは、書き込む余地もないくらい字がびっしりと詰められていて、ところどころが太字になっている。最初の授業で、試験に出るポイントだと先生が言っていた。同じく最初の授業で買うように言われた先生が書いたというテキストは、今日までの講義の中で、開くように指示された記憶はない。



そんな無用の長物なテキストの、真ん中より少し先のページをデスクに開きっ放しにしながら、晃斗さんは腕を組んで背もたれに寄りかかり、目を瞑っていた。



「契約」を交わして三週間、マンションの部屋にいる時以外はそれこそ四六時中、彼は私の隣にいる。今みたいな大教室での講義の時は何食わぬ顔で学生に紛れ、どうしても潜れない少人数制の授業や体育の時は、先生が来るぎりぎりまでいて、授業が始まると静かに出ていく。そして授業が終わると、いつの間にか教室に戻ってきている。一度、どこでどうしてるのか聞いてみたら、トイレだとはぐらかされた。九十分間トイレに篭っている晃斗さんを想像するのは、なんとなく嫌でやめた。



頬杖で支えた首を傾けて覗きこむと、瞑っていたはずの瞼が開いて目が合う。どうした と、唇が動く。



「寝てるかと思った」

「寝れるか」

「なんで?」

「仕事中だ」

「いいのに。別に」



プロの殺し屋とかならともかく、こんな大人数が詰め込まれた教室で誰かが襲ってくるとは思えなかった。それはここに限らず、昼中の大通りを歩いている時も電車内でも同じだったけれど、晃斗さんはいつでもどんな時でも、ストイックなまでにピリピリと気を張っていた。



「眠くならない?」

「いや」

「すごいねー」

「割と面白いし」

「ちゃんと聴いてるの?」

「一応」

「わかるんだ?」

「理解はできてない」



社会学部生なら必修科目のこの社会心理学のクラスは、社会とは何か というような哲学的なテーマから、現代のネット社会における群衆心理のような身近な話題まで幅広く扱っていて、個人的には興味がある分野だった。ただ、担当の先生の滑舌がとにかく悪く、しかも抑揚なく話すため、せっかく面白いことを話していてもあまり頭に入ってきてくれず、むしろ睡魔を呼んでくる。ゆらゆらする意識の境目で動かすシャーペンから、古代文字が並ぶことも珍しくなかった。義務教育中の苦手科目のクラスならともかく、好きで選んだ勉強中に眠気に負けてしまうのは嫌なのに、気がついたら講義が終わっていたなんてことが二、三回ほどあり、なんだか悔しかった。



そんな授業中でも、目は閉じていても絶対に眠らない強者の晃斗さんは、腕組みをやめて、開きっぱなしだったテキストをぱらぱら捲っている。聞いてみたところ、大学には行っていなかったらしい。そのせいか最初の数日間は、口にこそ出さなかったけれど、キャンパス内の建物や掲示板、図書館などを興味深そうに観察していた。



もともとそこまで親しい人がいないおかげもあり、彼のことをとやかく言ってくる人は今のところいない。さすがに全身黒ずくめでは怪しいので、南口近くのショップやルミネのメンズで揃えた、大学生に見えそうなカジュアルな服を着てもらっている。Tシャツやポロシャツにジーパンといったシンプルなスタイルが好みらしく、いわゆるお兄系やちょっと崩したストリート系の服は、試着すらしてくれなかった。いつも眉間にしわを寄せて不機嫌そうではあるけれど、程よく細身で背も高いから、上手に着こなせばその辺の読者モデルよりもずっと様になりそうなのに、もったいない なんて密かに思っていたりもする。



「...だって」

「超ゲスト?」



完全にトリップしていたせいで、聞こえた空耳をそのまま返してしまった。取り繕う余裕もなく、開き直って突っ込みを待つ。



「来週、小テストだってよ」



笑うどころか少しも表情を変えず、冷静かつ簡潔に繰り返して、晃斗さんは黒板を指さす。指先を追うと、確かに試験対象のレジュメの範囲と日にちが板書されていた。



「そんなに眠いなら、少し寝てれば」

「大丈夫。ちゃんと聴くから」



見栄と勢いで答えた私にそうか と呟いて、晃斗さんはまた腕を組んで、今度は眼をあけたまま、教室の中を眺める。



どんな退屈な講義だって、眠くなんてなるわけがない。今さら気にしたところでどうにもならないけれど、これ以上、間抜けな寝顔は見せたくなかった。



聞き取りにくい先生の声に耳を集中させ、シャープペンの先を見つめて、深く呼吸しながらノートをとった。無意識に舐めた唇のオレンジ味が、舌の先に染みた。







「次、中空きだよな」

「うん、そのあと5コマ目がフランス語」



お昼時には満員電車並みに混み合う食堂も、三限目の終わりのこの時間帯は、空き時間を過ごす少人数のグループや、黙々と勉強している学生がちらほら見えるだけで、比較的落ち着いている。周りにあまり人のいないテーブルを選び、背負っていたリュックをおろして椅子に乗せる。



「次までどうする」



私の座った向かいの椅子を引いて、晃斗さんも座る。



「レポートやりたいんだけど、ここでもいいし、図書館行ってもいいし」

「進み具合は?」

「明日の提出には間に合うよ。とりあえずお弁当食べてからね」



昼前の二限目の講義は休講で、連絡の来る前に用意してしまっていたお弁当は、家で食べずに持ってきていた。



「お昼買ってくる?」

「学食は」

「もう閉まってるよ」

「マジか」



ランチタイムが過ぎると十四時で閉まってしまう学食は、既にシャッターが下ろされていた。普段は昼休みに合わせて利用しているため、気にも留めていなかった。



「何か買ってきたら?」

「いいよ。抜く」

「ダメだよ、食べなきゃ」



大学生協が運営しているコンビニは、すぐ上の階にある。目を離すのが心配なら、ついていくくらいちっとも構わなかった。



「大丈夫だよ。一食くらい」

「でも」

「課題やるんだろ」



そう言って携帯電話を取り出すと、それきりこっちを向いてはくれなかった。



黙ったまま指を動かす彼と、箸と顎を動かす私のあいだに、周りのざわめきだけが渦巻く。伏し目のせいか怒っているように見えて、話しかけるのを躊躇ってしまう。



「どうした」



無遠慮に見つめていた視線に返してくれる声は、教室で隣に座っていた時と変わらない。なのに、喉におかずがつっかえているわけでもないのに、うまく喋れない。



「食べる?」



咄嗟に、箸とお弁当箱を差し出した。少しの間を開けて、彼は首を振る。



「いいって」

「多いから、ちょっとだけでも」

「気遣わなくていいから、本当」



わからない。



苛立ちに似た、重いもやつきが広がる。



おせっかいを押しつけているつもりはない。ただ、入り込んでくるなと拒絶されているみたいで、行き場がなくなった。仕事だからって遠慮して、遠ざけてほしくなかった。



結局、お弁当を食べ終わって図書館に移動しても、二言三言交わしただけで、会話らしい会話はなかった。いつも使ってる窓際のデスクではなく仕切りのないテーブルを選んだのに、ごく当たり前のように、彼はひとつ隣を空けて座った。不自然に空いたその隙間は壁みたいで、距離なんかよりもずっと遠くに感じた。



余計なことを考えないように、ディスプレイに向き合いキーボードを叩く。画面の端の時計表示は、ちっとも進まない。ぱちぱち と、文字の刻まれる音だけが耳を通り抜けていく。



集中しなきゃ。繰り返し言い聞かせていたせいで、肩を叩かれたのに気づくのが遅れた。



「やっと会えた」



にかっ と八重歯を見せて笑いかけてきたのは、金髪の、あの童顔の男の子だった。



「シュン君」

「よかったー、名前おぼえててくれたんだ。あ、勉強中だよね。はい、これ。ありがとう。返すの遅くなってごめんね」



息継ぎをしてないのかと思うくらい矢継ぎ早に喋りながら、貸していた社会心理学のレジュメを差し出す。特に何もせずそのまま渡していたそれは、きちんとクリアファイルにしまわれている。



「本当はさっきの授業の時に返そうと思ったんだけど、最近いつも彼氏と一緒だから声かけにくくて」



言って、隣の隣で新聞を読んでいる晃斗さんに視線をやる。晃斗さんは一瞬だけその視線に応じ、また新聞に戻る。



「彼氏じゃないよ」

「え、そうなの?でも仲いいよね。ずっと一緒にいるし」



呑気なその台詞は、皮肉にしか聞こえなかった。黙ったまま、曖昧に笑っておく。少しも可笑しくなんかないのに、笑っておいた。



「これ、お礼ね」

「いいよ、そんなの」

「超ショボイけど、せっかく持ってきたからもらってよ」



渡されたのは、抹茶やいちご、きなこ味など、いろんな味のチョコレートの詰め合わせの袋だった。



「本当はなんかメシでもおごりたいんだけど」



言って、もう一瞥した目の動きに、晃斗さんの反応はなかった。



「充分だよ。ありがとう」

「いや、おれの方こそ超助かったよ。マジありがとうね」



またね と少し手をあげて、スニーカーの擦れる音と一緒にシュン君はゲートを通り抜けていった。明らかにオーバーサイズのBボーイ系ファッションの背中が自動ドアの向こうに消えていくのを、横を向きながら見送った。



「今の奴って」



新聞越しに、晃斗さんがこっちを見て訊いてくる。友達 と言いかけて躊躇い、同級生 と言いかけて迷い、結局社会心理で同じの子 と答えた。



「親しいのか」

「ちょっと前に初めて話したくらいだよ」

「ほかに接点は」

「ないと思う。なんで?」

「交友関係も把握しておきたい」



短く答えると、今度は携帯電話を開いて何かを打ち込み始めた。そして十秒もしないうちに携帯を閉じると、また新聞を手にとって読み始める。



愚問だ。



この人が今ここにいるのは、それが仕事だから。



健康に、怪我もせず、普段通りの生活を私に送らせることが、この人がお金をもらう術だから。



なんにもなかった日々から抜け出せる気がして、協力しようと決めた。



思い描く方へ、一緒に行けるような気がしてた。



勝手に、思い込んでいた。



「誰かと喋るのもいけないの?」

「そうじゃない」



口に出して、すぐに後悔した。不満と不機嫌が、あからさまに刺になっていた。返ってきたのは、壁みたいに無機質な返事だけだった。



見向きもしない視線に、胸がざわつく。



余計なことは言いたくなかった。だけど、黙っていたくもなかった。苦し紛れに、もらったチョコレートの袋を開いて、差し出す。



「チョコレート、食べる?」

「いい」

「何も食べてないじゃん」

「甘いものダメなんだ」



ごめんな なんて謝らないで欲しかった。気遣ってるのはどっちよ と言いかけて、飲み込む。言いたいことを言えばすっきりできるなんて、無神経な誰かの言い分だ。唇の代わりに、指先を機械的に動かすしかなかった。



ずっと隣にいるのに、遠い。



これじゃ、あの人と同じ。



前を行く背中を追わなくても進めるようになった矢先、今度は、一緒に進むはずの肩を、並べられない。



差し伸べられた手に触れようとすれば、こうやってすり抜けていく。



そうしていつか、振り払われるくらいなら



「いらない」



声にはせずに指で刻み、ディスプレイに表れたその思いを、すぐにまた指先で消した。








ごきげんよう。楪美でございます。


第二部っつっても自分の中で区切っただけで

超★新★展★開 とかそういうあれではないんですけれども、

なんとか始まりました。よろしくどうぞ。


5人いた主要人物を2人+ときどき1人に絞り、

あとは彼らの関係性というか心の動きというかより主観的な視点で

進めていければいいなってくらいですかね。


しばらくは急接近中のルナお嬢ちゃんとむっつり晃斗くんが

どうなっていくかが主軸になると思います。

恋愛要素ももちろんですが、ただいちゃいちゃラブラブさせるだけじゃ

ムカつくんで、存分に人間関係の波に溺れさせてあげるつもりです。


一応「アクションサスペンス」っていうくくり(のつもり)なんで

今まで以上にごちゃごちゃまぜまぜになっていくかと存じますが

おつきあいのほどよろしくお願い申し上げます。


ありがとうございましたー!

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