Prologue②-Shin
prologue②―Shin
明け方の青山通りは時折タクシーが走っていく程度で、ひどく静かだった。
夏の終わりの空気を纏いながら、ゆっくりと自転車のペダルを漕ぐ。ブリヂストンのクロスバイクで走るサイクリングは、今日も絶好調だ。
このタイプのクロスバイクは、車体もギアもとにかく軽い。
東京のような狭い街を走り回るには、下手にマウンテンバイクやロードレーサーを使うよりも、格段に快適だった。近所の商店街にあった昔ながらの自転車屋の閉店に伴い、店長の親爺さんからタダで譲ってもらってから、もう三年になる。定期的なメンテナンスさえ怠らなければ、バイクや車のように数年ターンで買い替える必要もない。最初は別にこだわりもなく譲り受けたのが、今では生活に欠かせない相棒となっている。
紀尾井町のホテルから5分ほど走って、外堀通りとの交差点で信号に引っ掛かった。車も人もほとんど姿を見せないこの時間帯にも、赤と緑のライトは律儀に稼働している。特に急いでいなかったこともあり、僕はペダルを漕いでいた脚を止めた。待ち構えていたように、背中に汗がにじんでくる。
火照った首もとに少しでも風を送り込もうと、上を向いて空を仰ぐ。いい天気だった。さすがに星は見えないが、西の方には傾きかけた満月が霞んでいる。さらにその下には副都心の高層ビル郡の影が、ぼんやりと映っていた。
海の向こうの故郷を思わせる、煌びやかな虚飾に満ちた大都会。
僕が生まれたあの街には、とにかくあらゆるものが揃っていた。モノ、金、テクノロジー、芸術、軍事力、ゴミ、ヤク、病原菌と、とにかく何でもあった。それらを欲して、あるいは利用すべく、人々は街に集まり、また新たなものを生み出し、社会を回す。そうやって形成されてきた街を、幼かった僕は、汚れた通りで汚れた服を纏いながら、指を咥えて眺めていた。
故郷を飛び出してからは、二つしかなかった僕の世界は一気に増えて、広がった。僕の知らなかった世界には、僕の知らなかったものがたくさん存在していた。
それでも、こうして海を越えて来てまで僕が手に入れることができたものは、一つもない。
今の僕の周りには、あの頃とは比べものにならないほどたくさんのモノがあって、たくさんの人がいる。食べるのに困らない程の仕事ももらっているし、友人と呼べる人たちもいる。
だけど、足りない
子供の頃からの夢だった、広くて大きな家を買った時も、フランス屈指のシェフのフルコースを堪能した時も、ラスベガスのカジノで大勝ちした時も、僕の中にぽっかりと空いた洞が消えることはなかった。それは時に鈍く、でも確かな痛みとともに疼き、僕を蝕んでいった。
どうすれば、この渇きは潤うのか
何が、この痛みを治めてくれるのか
自問するたび、唇が歪むのが止まらない。
答えがわかったところで、いや、たとえ望むものが手に入ったところで、僕は死ぬまで求め続けるのだろう。
この洞を満たし、癒してくれる何かを…――
強い風の音で、都心の交差点に意識が戻った。天を仰いでいた視線を音の方へ向ける。長距離トラックが、黄色信号を猛スピードで走り抜けていくところだった。
随分信号を見送っていたらしい。汗はすっかり乾いていた。赤く浮かんだライトを尻目に、僕はまたペダルを漕ぎだした。
表参道との交差点の200メートルほど手前に建つマンションは、エントランスから洩れる灯りで、必要以上に自己主張していた。
12階建の割に1フロアに二部屋しかないという贅沢な造りが売りらしく、区内でも有数の高級マンションだと言われている。知人に薦められるままに購入し、契約時にはそれなりの金額も飛んでいったが、それに見合うだけ住心地もよく、特に不満もない。バイクが停められる駐輪場が完備されていないことが不便と言えば不便だが、下手に目の届かない場所に置くより、自分の部屋で管理できるほうがありがたい。家賃に比例しているのは広さも同様で、自転車の5台や6台置けるスペースならいくらでもあった。
「おかえりなさいませ」
スーツも髪型も文句なしに決めたコンシェルジュスタッフは、自転車を転がしながら通り過ぎる僕に、いつものように精密な挨拶をくれる。僕もいつものようにお疲れ様、とだけ返して奥のエレベーターへ向かう。業務が忙しくても退屈を持て余すのも、疲れが溜まるのに変わりはない。
部屋の冷蔵庫で僕を待ちわびているオレンジジュースのことを考えながらエレベーターの回数表示を眺めていると、鼻をすする音と、続いて盛大なくしゃみが響いた。一呼吸おいて、先程より控えめなくしゃみが聞こえる。僕は自転車を押しながら、ホールの更に奥にあるロビーを覗いた。
「馨さん」
くしゃみの主は顔をあげて、僕の爪先から頭まで視線を滑らせてから、シンちゃん、と呟いた。心なしか、鼻声が混じっている。
「仕事帰り?」
「うん。寒くないの?」
「冷房が効きすぎなのよ」
「そんな薄着だからだよ」
ワイシャツ一枚の僕にも人のことは言えないが、彼女はタンクトップにショートパンツという、まるっきりの部屋着スタイルだった。ロビーの入り口に自転車を留め、三度目のくしゃみをした彼女の隣に腰掛ける。
「あいつがね」
「うん」
「メール送ってきたの。三週間ぶりに」
「『仕事終わらせた』って?」
頷く代わりに、馨さんはふっと、ため息を吐くように笑った。
「私、それいつ話した?」
「冬に鍋した時」
「駄目、覚えてない」
「僕のベッド占領して寝ちゃってたじゃん」
「それは覚えてる。シンちゃん家のベッド、シーツも布団も黒いんだもん。あれはインパクトあるよ」
「馨さんの部屋にキティちゃんの特大ぬいぐるみいる方のがインパクトでかいよ」
女子だもん、と、彼女はまた自嘲気味に呟いた。僕は何も答えず、傍の自動販売機に向かった。ホットの緑茶が売っていたのでそれを買い、彼女に手渡す。
「待ってる、って返事を送ったの」
両手で握るようにして緑茶を受け取り、馨さんは言った。
「本当は何かをしながら待つのが一番いいと思うんだけど、駄目ね。手に付かない以前に、何もやりたいことが思いつかないの」
「だから、ここにいるんだ?」
「多分、自分がそわそわしながらあいつを待っているのが嫌なんだと思う。だったら文字通り、じっと待っててやろうかなって」
「彼、喜ぶんじゃない?」
「どうだかね。別にあいつのために待ってる訳ではないし」
そう言って、これってツンデレっぽいねなどと、彼女は自己つっこみを入れている。僕には彼女が高慢だとは思えなかったが、否定しないでおいた。
「それよりシンちゃん、昨日くれたメール、PDFファイル添付されてなかったわよ」
緑茶を一口飲んだ彼女が、唇を舐めながら言った。記憶を手繰り、前の晩に送信しようとしたまま寝てしまい、今朝寝起きに携帯から送ったメールだと思い当たる。
「あれ、本当?」
「本当?じゃないでしょ。文面だけで理解するの大変だったのよ」
「返信か電話くれればよかったのに」
「よく言うわよ、まともに返してくれないくせに。本当適当なんだから」
「それ、さっきも言われたよ」
「報告だけとは言っても一応仕事のメールでしょう。ミスして痛い目見ても知らないわよ」
「馨さん相手だからだよ。こうやってちゃんと指摘してくれるし」
「お隣さんが失踪とか拉致で行方不明なんて気分悪いじゃない」
「迷惑はかけないよ。その辺は足が着かないようにやってるから」
ならいいけど、とあっさり応えた馨さんは、いる?と、ペットボトルを僕の方に差し出した。オレンジジュースが頭を過ったが、口の中が渇いていたので二口ほどもらった。300cc入りの緑茶は、半分くらいになった。
「意外に熱いね、これ」
「シンちゃんが猫舌なだけでしょ」
「猫舌っていうけどさ、犬とか猿とか、他の動物もあんまり熱いものって駄目なんじゃない?」
ふと思いついた疑問を口にしてみる。
ヒトに飼われている犬や猫ならともかく、野性の動物たちは、舌を火傷するほどの食物を口にする機会などあるのだろうか。自然界には、電子レンジもガスコンロも存在しない。
「そもそも動物は、食物を加熱する必要がないよね。火の使用の有無がヒトと動物の差って言われてるくらいだし。例外もいるかもしれないけど、どうして全動物の中から猫が選ばれたんだろう?だったら犬舌とか、極端な話ティラノザウルス舌とかでもよくない?」
「ティラノザウルスは長すぎでしょ」
「やっばり語感なのかな。猫だと身近だし、かつ一番言い回しがよかったとか。だけど猫の方はたまったもんじゃないよね。自分たちだけ舌が弱いみたいな偏見を持たれるんだよ?猫たち自身が一番憤慨してると思うよ」
「猫舌からそこまで連想するの、シンちゃんぐらいよ」
「多分僕以外にもいっぱいいるよ。馨さんは気にならない?」
「興味はあるけど、気にはならない」
あくびまじりのその応えは、心底どうでもいいと言うふうに僕には聞こえた。馨さんはそれきり無言になりソファの背もたれに沈み込んだ。目を閉じている。退屈がピークに達したのかもしれない。
僕は僕で、ポケットから携帯電話を取出し、切りっぱなしになっていた電源を入れた。タッチパネル式のディスプレイにパスワードを入力し、検索機能を呼び出す。猫舌、由来、と検索ワードを入力しようとしたところで、肩にずしっ と重い塊が寄り掛かってきた。携帯の画面から目を動かさないまま、僕も少しだけ、頭を傾ける。
「眠いの?」
「この高さが気持ちいいの」
ちょうどいい角度を探っているらしく、彼女は僕の肩に乗せた頭を小刻みに動かす。シャツの隙間から潜り込んでくる髪が、くすぐったい。
「なんで、シンちゃんじゃないのかなあ」
聞き間違いかと思ったが、ぽつん と呟いた彼女の声は、確かに僕の耳に届いた。
「僕じゃ駄目だよ」
肩に掛かるさらさらした茶髪を撫でながら、僕は応えた。
「僕じゃ、馨さんを満たせない」
「シンちゃんも、私じゃ駄目なんでしょう」
彼女の頭にもたれたまま、首を振った。
駄目なんじゃない
彼女は僕にとって、とっくにただの隣人以上の存在になっている。
こうして今、恋人のように寄り添いながらいることに、何も感じていないと言えば勿論嘘になる。お金もキャリアもあって、話もノリも合い、おまけに美人な彼女と数メートルも距離のない隣同士の部屋で生活していれば、特別な感情を抱かない方がおかしい。
彼女といると、忘れられる
僕の中に巣くっている空洞と、音もなく深まっていく痛みを
彼女がくれる心地よい脱力感は、僕にとって今やかけがえのない安らぎとなっている。
お互いに認めあって、飾らず、だけど常に刺激し合っていられる間柄。そんな関係を、恋人と呼ぶのかもしれない。だとしたら、彼女はこれ以上にない、最高のパートナーになりうるのかもしれない。
だけど
「僕がおかしいだけだから」
「シンちゃん」
「馨さんが僕を必要としてくれるだけで、十分だよ」
もしこの気持ちを恋愛感情と呼ぶのだとするのなら、尚更だ。
この人を、恋人という名の所有物になど、したくはなかった。
肩が、ふっ と軽くなる。
頭を起こした馨さんは僕の手から離れ、代わりに僕の髪に彼女の手が触れた。その手は頭を撫でるわけでも、髪に指を絡ませるわけでもなく、ただ僕の頭に置かれていた。
「一つ、聞かせて」
僕は黙っていた。神に触れていた彼女の指に、ほんの少しだけ力が入る。
「貴方には、私は必要?」
返事の代わりに、彼女の瞳を見つめ返す。声には出さず、心の中で言葉を送ってみる。
僕の瞳を真っ直ぐ見据えていた茶色の眼が、不意に瞬いた。見開かれたその瞳は、僕の肩越しを映していた。
彼女の唇から、その人の名前が吐息と一緒に洩れる。
またね、とだけ馨さんに残し、僕はソファから立ち上がった。ロビーの出口で、眼鏡をかけた背の高い男性とすれ違った。会釈をしてきた彼に、僕も目礼を返す。そのまま自転車を転がし、偶然止まっていたエレベーターに乗り込んだ。
明るいエレベーターからガラス越しに降りていく街を眺めながら、僕は下に残してきた二人のことを思った。
馨さんには彼が必要で、彼もまた、彼女を必要として会いに来ている。お互いがお互いを求め、満たすために彼らは今夜も静かに抱き合うのだろう。壁一枚隔てた隣の部屋で眠る、僕のことなど忘れて。
それでよかった
痛みだけを抱えて一人で生きる僕に、彼女の体温は暖かすぎる
扉の開いたエレベーターを抜けて、部屋に続くオレンジ色の電灯が浮かぶロビーを進み、部屋に辿り着いた。
僕を迎えてくれる場所は、どこよりも暗く、冷たく、心地よかった。
プロローグ第二話です。
シンちゃんも、晃斗君に負けず劣らず訳ありでございます。
そして隣人の馨さん、この人もまた面倒くさい人。
次回は馨さんと、訪ねてきた眼鏡さんのお話。
読んでくださってありがとうございました^^