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Eclipse  作者: 楪美
19/41

Ⅲ-4,Jump




車持ってくるわ と言い残して女は去り、男の方は眼鏡の奥で笑みを携えながら、靴音とともにゆっくりと近づいてきた。



「上で待ってたんだよ」

「なんの説明もなかったから、とりあえず来たところだ」

「で、到着したはいいが、オートロックに阻まれたと」



連絡くれればよかったのに、と涼しい顔で抜かして、黒羽征景は彼女の部屋番号を告げる。



「前にも言ったが、祖父はグラン・ホテルでの襲撃阻止を感謝し、君の能力を高く評価している。彼女の安全をという意味では、案じてはいるが心配はしていないと思う。とはいえ昨日のような一件があった以上、警戒は緩めずにいてもらいたい。少しでも気にかかることがあれば、シュウさんを通さなくても構わない。すぐに知らせてくれ」




黒羽ルナを、守ってほしい



真夜中少し前だった。客はおらず、おっさんが電話をとらなければ、そのまま店を閉める流れになりそうな、退屈で静かな夜だった。



おっさんではなく俺を名指しして、黒羽征景はバーカウンター越しに依頼してきた。



おっさんが喋ったのか、それとも独自に調べたのか、注文した水割りもそこそこに、征景は俺の昔話を持ち出して説得してきた。SIOに属していた時代に培った能力と護衛のキャリアを活かし、一大企業の令嬢のボディガードを頼みたい、その一点を、言葉を変えアプローチを変え、俺が首を縦に降るまで頭を下げてきた。



頑なに拒否するつもりはなかった。だが、簡単に引受けようとも思えなかった。その日は結局承諾せず、征景が店を出た後、部屋でパソコンを開きマル対の女の情報収集に入った。



調査結果は、不思議かつ不審だった。



征景から事前にもらっていた基本データをもとに、区役所、学校をはじめとしたデータベースに入り込んだにも関わらず、得られた情報は極端に少なかった。



国内でも五本の指に入る名門私立大学に入学したこの春までは、程近い都立高校に三年間通っていたらしい。それ以前はこれまた有名な全寮制の女子中学で過ごしていたようだが、おかしいのは中学以前の経歴だった。



中・高・大学それぞれのデータベースには、有名大学付属の幼等部、初等部卒業と載っていたが、肝心の幼等部、初等部のデータベースに、黒羽ルナという生徒が在籍していた記録は一切なかった。役所の保険や納税のデータを見ても同じだった。年齢にして十二歳以前の彼女の記録は、申し訳程度に一部が改竄されていた他にはほとんど存在していなかった。



一見問題なく思える記録にも、不自然な点はあった。



中学以降、学業面で修めた成績や入試時の性格分析、図書館での本の貸出記録等は他の生徒と変わらず残されていた。だが、他の生徒にはちらほら伺える部活動や自治体、委員会からの表彰や逆に苦情の記録、それに教員が独自にまとめていた生徒同士の交友関係の記録やエピソードのまとめなどに、彼女の名前は見受けられなかった。修学旅行や文化祭のような行事の際に撮影された写真や映像データにも、それらしき姿はひとつもなかった。過去、そして今なお確かに日々を送っている黒羽ルナという女の存在が、まるで意図的にぼやかされているような、そんな印象を受けざるを得なかった。




さらに不可解だったのは、彼女の出生にまつわる記録だ。



彼女の母親はWing会長黒羽征成の娘であり、征景の父、征政の妹にあたるひかりという女だった。



父親に関する情報は一切得ることができず、母親に関しても、英国留学より帰国後、病院ではなく自宅で娘を出産後消息を絶っていると判明したのみだった。この母親に関しての情報は娘のルナ以上に実体がなく、娘がちょうど中学に上がって以降の記録はゼロに等しかった。留学時代を鑑みて、調査範囲を英国まで広めてみたが、無駄骨だった。



明らかに何かの意図のもと、この親子の存在はひどく曖昧で、掴みがたくぼやかされている。



黒羽征成の意向か、はたまたこれから巻き込まれようとしている、得体の知れない「流れ」に関係するブラックボックスか。マル対と接していくうえで最低限必要な情報は仕入れたので深追いする気はなかったが、愛すべき退屈な日々からの脱却を予感するのに、材料は十分だった。



そしてその予感は、征景来訪の翌日、奇妙な偶然という形で的中する。



店の裏で鉢合わせた彼女は、全速力で、しかも全身ほこりや煤まみれで駈け込んできたのち、アスファルトの道路に大の字に転がるという、とてもボディガードに守られるような令嬢とは思えない行動をとった。



彼女が追っていた人物に心当たりはなかったが、彼女を追っていた奴らからは胡散臭い気配を感じたので取り敢えず与えられた役目は果たしておいた。気配を垂れ流しにしている時点で凡人であることは明白だったが、あとから聞いたところ、やはり黒羽会長の指示で動いていた、ただの便利屋だったという。そんな成り行きでその後彼女は店でくつろぎ、連絡先を交換し、夜中に実際に連絡が来たのだった。



シンから預かったノートパソコンには、特におかしな設定もプログラムも仕込まれてはいなかった。余分なものを残さないようデータはすべて削除し、念のためディスク上書きソフトも使って記憶域内を完全にフォーマットした。奴の本当の狙いがなんなのか、俺にはもちろん、おっさんにもおそらくわかってはいない。



誰が、何の目的で彼女を狙うのか。「詳細は不明」を押し通す征景、それに黒羽の人間がどこまで真実を掴んでいるのか。彼らが俺に依頼をした真意は何か。それらがわからない以上、彼女を通じて手繰り寄せていくのが一番効果的だった。そしてそれを実行した結果、彼女は不審者に襲われかけ、危険な目に合わせてしまった挙句、手がかりの一つも得られないまま襲撃犯を取り逃がしてしまった。



脳の奥の奥にしまいこんでいた、手が届く距離で崩れ落ちていった姿が重なっていた。あの時と違って、考える前に動けてはいた。



だが、しこりが残った。



俺は、彼女を守ったか?



大丈夫、と気丈に笑った彼女の脚は震え、声は掠れていた。心理療法を心得るドクターのもとへ電話をかけ、頼ることしか、俺にはできなかった。



「あの娘が気になるんなら、とっとと覚悟決めちまえ」

「本来あの娘は、何も知らないでいる方が幸せなんだから」



おっさんの発破と、ドクター、もとい蓮見馨の忠告がもつれるように絡まり、思考を歯止めする。



深く考えず、彼女の身の安全を保障するという役目を果たせばいいのかもしれない。与えらえた任務に従事していれば、おのずと真相が見えてくるかもしれない。



すべてが明るみに出ることがないとしても、葬り去られた真実に、少しでも近づけるのなら



あの人の無念を晴らすことができるのなら






部屋の前のインターホンを鳴らすと、彼女は誰かと確認もせずドアを開けた。



「征景さんが、今から晃斗くんが行くよって下から電話くれたから」



通されたリビングルームは、想像していたような華やかさはなく、モダンかつ無駄のないデザインとインテリアが施されていた。



「コーヒーがいいよね」

「いや」

「違ったっけ」

「じゃなくて、お構いなく」

「遠慮しなくていいよ」



彼女がコーヒーメーカーに向かう間、ソファに座ったままで見える範囲で、もう一度部屋を見渡してみる。羽のような素材の絨毯の上に置かれたガラス製のテーブルに本革張の黒のソファ、四十インチはある薄型の液晶テレビ、部屋の隅にそれぞれ置かれたオーディオ、あとは身の丈ほどある観葉植物が、日当たりのいい窓辺に飾られている。入ったことのある数少ない女の部屋であるドクターのリビングと比べると、こだわりが強く、そのくせスタイリッシュな見栄えを気にした部屋 というのが初めに持った印象だった。



「何もないでしょう」



白い湯気をたてた、漆塗りの椀を象ったようなマグカップが手元に置かれる。同じ素材のもう一つのカップ、それからシュガーポットとミルクサーバーが、一つとなりに並べられた。



「シンプルでいいと思うよ」

「私の趣味じゃないよ」



俺の隣に腰かけ、彼女は自分のカップに砂糖とミルクを入れて、かき混ぜる。



「前に一緒に住んでた、従兄弟が揃えたの」

「従兄弟って」

「征晴っていう、征景さんのお兄さん」



飽きるほど眺めたディスプレイの中の文字列を脳内に呼び起こす。そんな記録は覚えがなかった。



「私が高校に上がった年に、ここで一緒に住み始めたの。それで、半年前に、何にも言わないでいなくなっちゃった」



何も映っていないテレビの画面を見つめながら、彼女はコーヒーを一口すする。



「双子なのに、征景さんとは全然性格似てないの。勉強でわからないこと聞いても全然教えてくれないし、家事は私に押し付けるし女の人平気で連れ込むし」



でも、とそこでやっと、ふわり と彼女は微笑んだ。



「おもしろいことはいっぱい教えてくれたよ。昔の映画とか音楽とか本とか、世界中放浪してた頃の話とか、それから」



フリーランニングって知ってる?と、揃えられた前髪の奥の瞳がこちらを向く。



「グラウンドとかトラックじゃない、街の中、自然の中のどんなところでも跳んだり、回ったり、登ったりを繰り返しながら走っていくの。この辺だとあんまり目立つと捕まっちゃうけど、ちゃんと国内でチームとかサークルもあるし、そこの中央公園とかで練習してる人もいたりするよ」

「パルクール てやつか」

「知ってるの?」

「少しは」

「本当はフリーランニングとパルクールはちょっと違うんだけどね。って、これもハルくんの受け売りなんだけど」



パルクールは移動効率や速さに特化しており、対してフリーランニングは、いくらかエンターテインメント性をもち、見せ方にこだわる技法だと、彼女は教えてくれた。



「中学は全寮制だったんだけど、とにかくつまらなくって、走るのが好きだったから一応陸上部にも入ったんだけど、上下関係とかルールとかが面倒ですぐやめちゃった。そうしたら、ハルくんがやってみないかって誘ってくれて。トレーニングは部活なんかと比べ物にならないからキツかったけど、毎日退屈だったのが、ちょっとずつ楽しくなったよ」

「今でも、続けてるのか」

「トレーニングはさすがに場所も時間も必要だから、週末とか時間のある時に公園とかで。でも今でも腕立て100回くらいなら全然できるよ。それに夜は雨の日以外は毎日走ってるし」

「それなら、あんな風に跳べるわけだ」



昨日の、エントランスでの一件を思い浮かべる。素人にはできない軽やかな動きだったが、素人ではないのだから、納得せざるを得ない。



「それで、晃斗さんは何の経験者なの?」

「経験者?」

「何かやってたんでしょう?じゃなきゃあんなふうに一発KOできるわけないもん」



あらかじめ用意していた、元自衛隊員という答えを伝える。防衛省管轄内という意味では、まんざらでたらめでもない。



だが、そこからは嘘の上塗りの繰り返しだった。陸海空のどれだったとか、なぜ自衛隊をやめてルーチェで働いているとか、おっさんとの関係についてなどを根掘り葉掘り聞いてくる彼女を、付け焼刃の知識ととっさのでまかせでなんとかかわし続けた。興味深そうに相槌を打ちながら熱心に耳を傾ける彼女を見ていると、とてもコーヒーなど堪能できる気分ではなかった。



結局、国防の在り方と将来設計を考えた末、昔世話になったルーチェのオーナーであるおっさんに誘われ転職した元自衛隊員で、時たま過去に身に着けた戦闘術を活かして雇われ用心棒をしているという経歴が、俺の設定となった。



映画とか作れちゃいそうだね などと彼女は感心していたが、信用したのかどうかはわからない。



それから、なぜか疑ってごめんなさい と謝られた。俺をスパイか何かだと思っていたらしい。



「昔ね、私の実家のこと知って仲良くしようとしたり、近づいて来ようとした人がいたから。だから、家のことも秘密にしてたの」



あっけらかんと言いきってはいても、それなりの苦悩があったのだろう。気丈にふるまっているのか、それとも乗り越えたのか、その横顔だけではわからなかった。



「でもさ、私なんか狙ってどうするんだろうね。誘拐とかかな」

「ではないだろうな。ふたりとも君を攫うというよりも、むしろ危害を」



そこまで言って、無神経な発言だったと気づいた。だが、ごめん と謝った俺に対し、彼女はなんで?とこれまたとぼけた答えを返してきた。



「確かに怖かったけど、どっちかといえば悔しかったな。身体全然動かなかったし」

「動けないのが普通だよ」

「普通の女の子だったらそうかもしれないけど」

「普通じゃないのか」

「どうなんだろうね。わかんない」



普通が何かなんて知ったことではなかったので、懲りずにまた深く考えずに口走っていた。それきり彼女が黙ってしまった事に気づいて初めて、今度こそ失言だったと悟った。



十代の頃は、普通になりたい とふと思うことが多々あった。



近所の中学生が着ていたダサい制服も、海風が吹きすさぶ通学路も、何の価値もないと嫌っていた退屈な勉強も、疑うことすらなく思い描いていた未来が真っ黒に塗りつぶされてからは、二度と手に入れられない憧れとなった。



彼女の経歴をあれだけ調べ上げたにもかかわらず、彼女は俺の持ち得なかった「普通」を享受してきたのだろうと、どこかで勝手に思い込んでいた。



途切れた会話をつなぎ合わせられず、冷めかけたコーヒーを飲む。毎朝自分で淹れているコーヒーよりも美味く感じた。おかわりいる?と彼女が訊いてくれたおかげで、空気がどん底に重くならずに済んだ。



「契約の話だけど」



二杯目のコーヒーがカップに入ったのを見計らい、本題を切り出す。ようやく、再び彼女の目がこちらを向いた。



「契約?」

「依頼者である君の従兄弟と話はついてても、実際につく君との間ではまだ何も決めていないから」

「契約書とか書くの?」

「そんなに難しく考えなくていい。どちらかと言えば、君の要望を聞くのがメインだ」

「私、要望なんてないよ」

「じゃあ二十四時間常駐監視で」



冗談が通じなかったらしく、目に見えて表情が固まる。嘘だよ と告げると少し眉を寄せて唇を尖らせ、それからすぐに笑った。



「ケビン・コスナーみたい」

「ケビン?」

「そっか、映画見ないんだっけ」

「なんだよ」

「なんでもなーい」



明らかになんでもなくなどなさそうに、彼女は楽しげに何かの歌を口ずさみ始めた。聴いたことのあるようなないようなその歌が途切れるのを待つ。どうも調子が狂う。コーヒーで、口内を癒す。



「君にも生活のサイクルがあると思うから、外に出るなとは言わない。だが不要な、特に暗くなってからの外出は控えてほしい。学校までの送り迎え、それから買い物とかの雑用は俺が引き受けるから、面倒だろうけど都度連絡してくれ。あとは」

「ちょっと待って」



彼女が俺の方に十センチほど移動し、空いていた隙間が縮まる。



「私はいつもどおり電車で学校に行きたいし、帰りには夕御飯の買い物もしたい。週三でバイトもあるし、トレーニングだって」

「できるだけ不自由にはさせない。だが外に出ればそれだけ危険度が上がるし、相手が狙ってくるのは君が一人になった時とは限らない」

「それって」

「関係のない人間も巻き込まれる可能性があるってことだ。現に駅で階段から落とされた時、下手すれば傍を歩いていた通行人にも被害が及んだかも知れない」



何の非もない彼女の良心につけこんだ、卑怯な懐柔策だった。正論じみた口八丁だけは、呆れるほどに難なく出てくる。



「おそらく君の行動パターンやスケジュールを、相手は何らかの方法で調べている。それを崩さない以上、完全に安全を保障するのは難しい」



自分の口から出てくる言葉が、機械仕掛けの音声のようだった。これ以上、今ここで彼女に言ってやれることは何もなかった。



何かを考えているのか、それとも悲しんでいるのか、もしくは理不尽に身に降りかかる不自由へ覚えた怒りを抑えているのか。前髪の奥の瞳を俯かせたまま、彼女は下を向いている。少しだけ開いた唇が動くのを、黙ったまま待った。



「わかった」



何かを決心したように、頷きながら彼女が言った。



「学校やめるよ、私」

「は?」



自分の耳がにわかには信じられず、思わず間抜けな声が出た。彼女は小さく笑い、続ける。



「別に行かなくてもいいの。図書館に入れなくるのと学割なくなっちゃうのは痛手だけど」

「何もそこまで」

「だって、いつまた階段から落とされたり、待ち伏せされるかわからないんでしょう。うちの大学広いから、危険地帯だらけだもん。それに」



少し躊躇い、だが俺を見据えて、彼女は言う。



「関係ない人たちを巻き込んじゃうかもしれないし」



またしても耳を疑った。振りかざした正論は、何にも飾られることなく、だけど鋭く磨かれて、こうして投げた元へ戻ってきた。



「学校行かなくても知りたいことは勉強できるし、バイトも今のところはやめて、ネット使って家でできるもの探すよ」



開き直りでも、投げやりでもない。彼女の決心は、真っ直ぐで揺がない何かに裏打ちされている、そんな気がした。



「だからお願い。走りにだけは行かせて。暗くなってからがダメならお昼でも、朝早くでもいいから」



情熱、と言ったところか。



それからはいくら説き伏せても彼女は聞こうとせず、屋外でのトレーニングに関して一歩も退くことはなかった。物分かりがいいのかと思えば、譲れないものに対してはとことん頑固らしい。ディスプレイの向こうの文字と数字の列からでは、見えてこない一面だった。



気付かされてから後、とにかく条件を飲ませようと躍起になって妥協を促す自分が浅はかで、滑稽に思えた。目的は彼女を護ることであって、自由を奪うことではない。彼女の生活に口を出す権利など、俺にはない。



最終的に、バイトは彼女の進言通り在宅でできる仕事を探し、大学は行き帰りの電車通学を続け、また可能な限り、世に言う「モグリ」となって授業に付き添うことになった。肝心のトレーニングも、できるだけ日中に、目の届く範囲で、という条件をつけて許可した。



浮かれている自覚はあった。一方で、彼女のため と、数々の判断を正当化してもいた。



三年前のあの時とは違う。

やり方も、心持ちも、何もかもが、以前のままで通じる訳などない。

封じ込めてきた過去を堀り起こさずとも、今、目の前にいる彼女へ向き合えばいい。



その後は日毎の通学時間や一日の大まかなスケジュールについての話を聞き、外出時は近所であっても必ず電話連絡すること、無闇に他人をマンションの敷地内に招き入れないこと、在宅時でも留守電に設定しておくこと等、他諸々の取り決めを交わした。トレーニングの話の時とは違い、彼女は特に異論を唱えることもなく、大人しく頷いていた。



「あとは、携帯やパソコン、というかネットだな。通販とかで個人情報の入力が必要な時があると思うが、なるべく控えた方がいい」

「もうこのマンションバレてるのに?」

「相手が君の情報をどこまで知っているか掴めない以上、警戒に越したことはない」



仮に向こうが、彼女がこのマンションの住人だということはわかっていても、部屋番号までは把握していなかったり、電話番号を知らなかったりしていても、ネット上に情報が上がれば、こちらから餌をまいてしまうことになる。



「あんまりネット使わないからたぶん大丈夫。私超アナログ人間だし」



恥ずかしげもなく言い切る彼女が、余計に危なっかしかった。パソコンはもちろん携帯を使っていて、少しでも妙なことがあったらすぐ呼ぶように とも釘を刺した。



「あとは、今の時点でなにかある?」

「今は特に。必要なことは全部伝えたと思う」

「じゃあ、これからよろしくお願いします」



ぺこり と頭を下げた彼女に釣られて、俺も頷き返した。呆気はないが、とりあえず契約成立だ。



「じゃ、着替えて来るから待ってて」

「着替え?」

「一緒に行ってくれるんでしょう?トレーニング」



今からか と突っ込む前に、彼女は扉の中へ姿を消した。そして一分もしないうちに、やたらとサイズのでかい男物のパーカーと、これまた男物のカーゴパンツに身を包んで現れた。



「晃斗さんはどうする?着替える?」

「俺も走るのか」

「だって、そうじゃないと目なんて届かないよ?」



長い髪を一つに束ねながら、ヘアゴムを挟んだ歯を見せてにかっ と彼女は笑う。



「いいよ。このままで」

「そう」



イヤホンを繋げたスマートフォンをパーカーのポケットに入れる彼女に、鍵持ってくから先に出て と促され、玄関に向かった。仕事用で履いてる安物の靴は、料理の油はねやコーヒーの染みで汚れている。動きやすさを重視しているため、走れないことはないはずだ。




着替えよりも時間をかけてスニーカーを履いて出てきた彼女のあとについて、エレベーターは使わず階段でエントランスまで降りる。マンションの外に出て、一応あたりに注意を走らせてみた。特におかしな気配はない。



「ここからもう走っていくけど、大丈夫?」



軽いストレッチ運動のあと、スマートフォンでタイマー機能を呼び出し、STARTボタンに指をかけて彼女は俺の目を伺う。



「いつでも」



店から腰に巻いてきていたサロンは外して、丸めて手に握っていた。シャツの腕も捲り、靴の爪先を鳴らす。



「目標は5分以内ね。中央公園まで」

「信号は?」

「無視!」

「おい」

「嘘だよ。行けるところまで」



またも悪戯っぽく笑い、かと思うと、すでに遠く伸び行く道の先を、まっすぐに捕えていた。隣に並び、合図を待つ。



「GO!!」



飛び出した彼女に一瞬遅れて走りだし、わずかな距離を開けて並んだ。



速い。



限りなく全速力に近いスピードで、ほんの少し前を行く彼女がなびかせる髪を追う。無駄なく軽やかに、一直線に駆けていく彼女は、まるで弾丸だった。



懸念していた赤信号は、二つ目の横断歩道で訪れた。平日の明治通りと甲州街道の交差点はそれほど通行人も車も多くなく、かといって信号無視で突っ切れば、下手をすれば大惨事間違いなしだ。



スピードを緩めるかと思い、少しだけ速度を落とす。その一秒にも満たない隙間を縫って、

彼女は俺の前を横切り、青信号が点滅していた交差する横断歩道を走り抜けた。そのまま、街のシンボルの柱時計の方向に、スピードを保ちながら向かっていく。



迷路のように入り組んだ細道を抜け、タイムズスクエアの敷地に入り、デパート前のエスカレーターを駆けのぼる。何本も並ぶ線路の上にかかったデッキ造りのアーチを、通行人の間をすり抜けて過ぎる。高層ビルのエリア目前で右に曲がり新宿駅舎を正面に捕えると、今度はガラス張りの窓が並んだ駅直結のビルに繋がる、甲州街道を跨いだ歩行者用の橋への階段を駆け上がった。買い物客が群がる細い通路を突っ切り、地上の道路へと降りる階段の直前まで来た、その時



彼女は、飛んだ。



ビルの三階ほどの高さのある陸橋から、欄干を飛び越え、彼女の身体は宙に浮いた。前触れなどない出来事だったせいか、何事もなく着地し走り出した彼女を好奇の眼や黄色い声が追うことはなかった。見失うわけには行かなかったので、同じように、柵を飛び越え端から跳んだ。後方に驚嘆の声を聞いた気がしたが、すぐに通り過ぎた風の向こうに消えた。



次の交差点付近で追いついた彼女の横顔は、並んだ俺に気付くと、挑発するように口元だけで笑みを見せ、また向かう先を見据えた。



変わったお嬢様だとは思っていたが、こいつはとんでもないじゃじゃ馬娘だ。



徐々に上昇してきた体温と、重い音を立てて波打つ鼓動と、繰り出される呼吸の中で、絡みつく風が思考だけを冷たく研ぎ澄ます。



彼女を取り巻く黒羽一族の人間模様、彼女を付け狙う姿なき襲撃者、そして彼女、黒羽ルナという女の、謎に包まれた過去とどこか掴みきれない存在が、実体のない、だが明らかに近付いてきている影を予感させつつあった。おそらく、おっさんやシンが懸念している大きなうねりは、足音を忍ばせながら背後で腕を広げて、俺も、彼女も、周囲の人間たちをも飲み込もうとしている。あるいは、すでに飲み込まれているのかもしれない。



飛び込んだ以上は、逃れるすべなどない。



俺のやるべきことは、足元を掬わんとする濁流から彼女を守り、こうして自由に、何にもとらわれないように走らせてやることのみだ。



たとえそれが思い上がりでも、身の丈にあってなどいなくても、それを突きつけられるのは少なくとも今ではない。



意味などなくても、何一つ得られなかったとしても、消えてしまった真実に光が当たる可能性があるのなら。




何番目かの交差点に差し掛かり、カーブに沿って備え付けられたガードレールを、彼女は少しもスピードを落とさず鮮やかに飛び越える。




彼女と並んで、行く手を阻む柵を踏み越え、一緒に飛んだ。


ごきげんよう、ちゃみです。


晃斗君がようやく吹っ切れたようで。

一方のルナちゃんはお転婆ぶりを発揮ですね。

なんとなく晃斗君に「じゃじゃ馬」っていう表現を使わせたくてですね。

今どき言う人いるのかどうかはともかく言わせたくてですね、はい。


それから作中で出て来るケビン・コスナーとは「エンダアア(ry」で有名な映画「BODYGUARD」より。かっこよかったよフランク。ただ晃斗、君はあんなガラじゃない。残念。


あと一話書いたら、ちょっとお話の形式を変えようと思っていて、

晃斗ルナ+たまにシンちゃんを中心に進めていくつもりです。

つまり、いままでの5人から3人に視点が狭まる分、各々濃く書くことはできるんだろうけど広がりというか、視野はせまくなるだろうな とは予想しています。


まだ予想、というか妄想、言うだけは無料!!


とりあえずこのお二人メインに進めていきます、とだけ。


次回で、渦中にありながらすべてを鳥瞰するシンちゃんにひとまず第一部をしめくくっていただきましょう。


ありがとうございました!

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