Ⅲ-2,Reverse
Eclipse 3-② Reverse
気付いたらベッドの上で裸だった、なんて目覚めは、何度経験しても心臓に悪い。まずは隣に誰もいないこと、自分の部屋であること、バッグも携帯も持って帰ってきてること。全部を認識してから、待ち構えていたようにずきずきと頭が痛む。
明治記念公園のそばの屋台で一緒に飲んでいた院長を乗せたタクシーを、国立競技場の角で見送ったのは憶えていた。自分がタクシーに乗った記憶も、軽く30分はかかる道を歩いた記憶もない。
ひとつだけ、部屋に入る直前に、どことなく甘い香りがしていたのを思い出した。うちのアロマでもないし、お菓子やフルーツの匂いでもない。百貨店の一階みたいな、化粧品やフレグランスとも違う。今この場で空気のにおいを嗅いでみても、なにもない。鼻を動かしたせいでくしゃみが出たので、記憶を辿るのをやめた。
なぜか姿見の角にひっかかってた下着を回収したところで、足の指の先に、何か尖った角みたいなものがあたった。姿見の脇に立てかけるように、花柄の可愛い紙袋が置いてある。拾い上げてみると、意外に重かった。こちらも可愛くラッピングされたチェック柄の袋と、メモが入っている。読もうと開いてみたところで、ピンポーン と、遠くから呼び鈴が響いた。
「おはようございます。あの、隣に越してきた者です」
インターホンのディスプレイには、眼鏡をかけた髪の短い女の子が映っていた。今開けます、と伝えてソファに丸まっていたタンクトップとジーンズを身につけながら向かい、 玄関のドアを開ける。眠りと一緒に脳の奥に引っ込んでいたあの甘い香りが、空気に乗って入ってきた。
「昨日お隣に引っ越ししてきた、風舞と申します」
丁寧にお辞儀をしたその子は、物心がつくかつかないかくらいの年頃の女の子を抱いていた。小さい口に指をあてながら、ぱっちりした目でじーっ と私を見ている。
「昨日も伺ったんですがお留守だったみたいで、ドアノブにお土産を下げておいたんですが」
さっきのあの袋のことだと気付く。ドアノブにかけてあったのを、無意識に持って入っていたらしい。
「昨日は仕事だったの。どうもご丁寧にありがとう」
名前を告げてよろしく と挨拶すると、ずーっと私を眺めていた小さい子の方が、不意ににっこり笑う。大きな目がきゅっと細くなって、可愛い。
「お子さん?」
「レイっていいます」
こんにちは、と言った私のあとにこんにちはー と上手にこたえたあと、急に恥ずかしくなったのか、ママの肩に埋もれるようにそっぽを向かれてしまった。
ママの方は空ちゃんというらしい。私よりも年下で、旦那さんと3人暮らしでもうすぐ2歳になるレイちゃんを育てているという。
「このあたり来たばっかりなんで、よろしくお願いします」
「土日と水曜は休みでヒマだから、いつでも声かけて」
それから少し話をして、来週の休みに早速ランチの約束をしたところで、レイちゃんのごはんの時間だから と分かれてお互い部屋に戻った。ドアを閉める直前で、もう一度空気の匂いを確かめる。まだほんのり残っていたその香りを吸い込んで、音をたてないようにドアを閉めた。
半分に切っておやつ用に持っていった空ちゃんお手製のパウンドケーキは、ラムが効いていて美味しかった。院長が二日酔いのおかげで早めに閉められたクリニックから帰宅すると、お隣からは夕食の暖かい匂いがした。部屋に入る直前のロビーが、コンソメと、相変わらずのあの甘い香りが混ざった、不思議な空間になっていた。
昨日まで生活感なんて微塵も匂わせない、CMに出てくるモデルルームみたいだった隣の部屋が、今は小さな女の子のお城になっているのかと思うと、急にあの風変わりな隣人が懐かしくなった。携帯を開いて、メール画面を呼びだす。メッセージを打ちこもうとして、やめる。私にできることはもうない と、あの子は言っていた。
きっとあれは、あの子の時間を、楽しみを奪うなという警告だった。
そして、あいつも同じ。
私の為なんかじゃなかった。だけど、それでよかった。
きっと、あのふたりは、私なら大丈夫だなんて思っている。たぶんその通りなんだ とも思う。
気にかけるふりをするくらいなら、いっそ放っておけばいい。
無性にお腹がすいたので、残り物をかき集めてサラダとスープを作り、冷蔵庫の奥に眠っていたローストビーフを用意した。食べ始めると途端に食欲がなくなるいつもの調子はどこへやら、30分以上かけて作った食事は、半分も経たないうちに胃の中へ消えた。それでも足りなくて、また空ちゃんのパウンドケーキをひと切れ食べる。冷えていても美味しい。
歌番組とバラエティしかやっていないテレビは、チャンネルを一周させて消した。目的もなく起動させたPCは、広告まみれのメールチェックを終えて、じっと次の指示を待っている。デスクトップの桜並木が、季節外れにもかかわらず、液晶の中で咲いている。
まだ読んでいなかった新聞に目を通し終えると、本当にやることが思いつかなくなった。見上げた時計の針は、まだ9時にもなっていない。
さっさとお風呂を済ませて寝てしまおうか。でも、明日起きたら何をしようか。どこに出かけて、どうやって過ごそうか。
どうでもいい答えを浮かべては消しながら、ソファに寝そべる。秒針が刻む音しかないほどの退屈でなければ、クッションの上で発していた携帯電話の振動にも気づかなかった。
「はい」
普段は放置している非通知での着信を取ることも、きっとなかった。
「今どこにいる」
「Who's calling?」
名乗りもしない、曇った声に、苛立ちを含ませて聞き返す。相手をしてやろう なんて思うくらいには、暇を持て余していた。
「JET」
からかって正解だった。寝返りを打って、久しぶりね と返す。
「珍しいじゃない」
「緊急事態なんだ。今家か」
「来るの?」
「できればすぐ」
「これからお風呂なんだけど」
「頼む」
「随分切羽詰ってるのね」
「診て欲しい子がいる。詳しくは後で話す」
答える前に、電話は切れていた。携帯を折り畳もうとしたところで、今度は短い振動が手のひらに伝わる。届いたメールに目を通し、今度こそ蓋を閉じた。しばらくは、眠気の出番はなさそうだ。
インターホンのディスプレイに映ったその男は、睨むような目つきで私を見据えていた。
招き入れようとドアを開けると、女の子がひとり、黒い図体の後ろに隠れるように立っていた。入って と、肩を抱かれながら、その子は彼と私とを交互に見る。
「心理カウンセラーの蓮見馨。おっさんの知り合いだ。この子は」
「黒羽ルナです」
遮るように言って、流れるような髪を揺らせて頭を下げたその子の、頭から爪先までをじっとなぞる。
「そういうこと」
「何が」
「別に。入って」
お邪魔します と律儀に挨拶して靴を揃える彼女を、私は嫌いになれそうになかった。
「可愛い子じゃない」
「ああ」
「やだ、惚気?」
「じゃねえよ。詳しく話す」
相変わらず、愛想のない男だ。少し離れたところで固まっている彼女にソファを勧め、男の方は床に座らせる。遠慮がちながらも興味深そうに部屋を眺めるその子の横に腰掛け、視線を捉えた。少し急な曲線を描く眉とすっと通った鼻筋が、確かに似ている。
「あんたの話はいいわ。まずは、私がルナちゃんに、聞きたいことを聞く」
「私?」
「シャンプー、何使ってる?」
案の定きょとん としながらも、ルナちゃんはイギリスのハンドメイドコスメブランドの名前を答える。
「さっき、いい匂いがしたから。フレグランスとか洗剤っぽくなかったから、気になって。ずっと使ってるの?」
「2年くらい、です」
「匂いといえば、うちに入る前、いい香りしたでしょう?ロビーのところ」
「なんか、甘い匂いが」
「私、アロマ好きなんだけどあれがなんの香りなのか全然わからないの」
「学校とかであんな感じの匂いを嗅いだことある、気がします」
そこから学生生活の話を5分ほどしたところで、お茶を淹れる と席を立った。ダイニングキッチンでティーポットを用意しながら、耳を澄ませるませる。私の存在を意識してか、ふたりはほとんど喋っていない。当たり障りのない会話がぽつぽつ紡がれる中、ゆっくりかき混ぜながら、ミルクを温める。
「どうぞ」
じっくり蒸したアールグレイのロイヤルミルクティーのカップを、手のひらを温めるように彼女は両手で持つが、口をつけようとはしない。一方で男の方、JETは、喉を鳴らして一口飲んでから、電話してくる と残して席を立った。二人だけになった空間に、妙に重い空気が流れる。
「あの」
沈黙にそっとメスをいれたのは、彼女の方だった。
「蓮見先生は」
「カオルでいいわよ」
「馨先生はおじさんと、ルーチェのマスターさんと、お知り合いなんですか」
「店にはたまに行くわ。あの人には大きな借りと、ちょっとした貸しがいくつかあるの」
「借りと貸し?」
「昔の話よ。それよりも」
テーブルに肘をついて、少し下から、上目遣いに彼女の視線を捕える。瞬いた目を縁どるまつ毛は、マスカラなんて塗られていないのに、綺麗に長い。
「他に、訊きたいことあるんじゃないの?」
「え」
「あいつのこととか」
相手は、一癖も二癖もある手ごわいビジターなんかよりも、ずっと素直で純粋そうな女子大生だ。カウンセリングのセオリーなんて気にしないで、普通の女の子として話せばいい。先ほどの数分の会話で、既に判断は出来ていた。
「あいつって、晃斗くんのことですか」
そう、アキトだ。憶えていたのは通り名だけで、本名は思い出すのを諦めていた。
「違うの?」
「違わない、です」
読み通り、素直な子らしい。声を出さずこくん と頷いて、赤くなった頬を隠すようにミルクティーを口にする。
「知りたい?」
「知りたいです」
「セフレよ」
「…そうなんですか」
「ごめん、嘘。本当にただの知り合い」
一度だけであっても夜を過ごした相手をただの知り合いと言っていいのかはわからなかったけれど、平静を装ってミルクティーを飲む彼女がいじらしくて、からかうのはやめてあげた。
「そんな器用そうに見えないでしょう?あの男。あなたみたいな子がいるのに」
「私、ですか?」
「彼女なんじゃないの?」
冗談抜きの質問に、ルナちゃんは今度こそ真っ赤になって首を振った。なぜか、目が潤んでいた。
「そんなに全力で否定しなくてもいいじゃない。気になってるんでしょう」
「そうだけど、でもそんなんじゃなくて」
「じゃあ、どんななの?」
わからない と、彼女は視線を落として言う。
「わからないんです」
「なにがわからないの?」
「あの人のこと、私、何も知らない」
彼の姿を探すように廊下に通じるリビングの入口をちらり と見てから、彼女はまた、目を伏せる。
「馨先生は、よく知っているんですか」
「あなたよりかはね」
「あの人の、秘密のことも」
「ええ」
「教えてくださいって言ったら、教えてくれますか」
「NOね。それは自分で直接聞くべきだわ」
どうしても意地悪をしたくなってしまうのは、単なる私の歳のせいだ。
「聞いて、壊れるのが怖い?」
少し考えるように空を仰いでから、 彼女は首を振る。
「今はただ、知りたいだけだから」
「知りたい、か」
「初めて会った時から、たぶん、気にはなっていたんです。なんとなくだけど、今まで会ってきた人とどこか違う感じで、興味が湧いて、会うたびにもっと、知りたいって思って」
「それで、好きになったの?」
「好き、なのかな」
「そこからなのね」
思わず、手を伸ばしてその小さな頭を思いっきり撫でたくなった。代わりに、自分のマグカップを口元に運んで堪えた。
「認めちゃえば、楽になれるかもしれないわよ?」
「認める?」
「私はあの人が好きなんだ、恋をしているんだ って」
どの口がいうか、と内心突っ込みを入れる。言うだけなら簡単だ。いつも、仕事でしているのと同じ。
「そうすれば、わかってくるんじゃないの?自分のことも、あいつのことも」
「でも、なんか、浮かれてるみたいで」
「そういうものよ?恋愛なんて」
「だって、私は何もしていないのに、あの人は私に優しくしてくれて、今日だって」
そこまで言って、はっとしたように、彼女は濡れた目で私を見る。黙ったままま、私も見つめ返した。作らなくても、自然に頬が緩んだ。
「いいわよ。教えて」
「でも」
「大丈夫。誰にも言わないわ」
「さっきも、変な人に襲われたのを、助けてくれて」
電話をよこしたあとのメールでは、私からはあまり触れないでくれと言われていたが、知ったことじゃなかった。
「どうしようもなかったところに来てくれて、嬉しくてほっとしたのに、それだけじゃなくて」
零れそうな涙を、彼女は意地でも流そうとしなかった。言葉に詰まっても、そこに泣き声が混じることはなかった。
「今までずっと優しくしてくれてたのも、助けてくれてたのも、どうして ってしか思えなくなって」
だんだん詰まっていく言葉に、頷きながら耳を傾ける。
これが、私の役目。
「あの人が、晃斗くんが私に近づいたのは、何か目的があるからなんじゃないかって」
「目的?」
「知ってるんだと思う。私が」
「あなたが?」
「わたし、が」
「悪いな」
「高くつくわよ」
中身が半分ほど残ったマグカップを片づけながら、戻ってきた男に言葉を返す。
「薬もらえないって言うから焦った」
「医師じゃないから処方はできないって言っただけよ。私用で使っているものを服用させてあげるだけなら、資格はいらないわ」
テーブルに顔を伏せて寝息を立てる眠り姫は、最低でもあと6時間は起きないはずだった。嫌な夢を見ることもなくぐっすり眠れば、震えるような体験で傷ついた心も、少しは和らぐだろう。
「寝室のベッドに運んであげて。ちょっとやそっとじゃ起きないから」
「ああ」
「変な気起こすんじゃないわよ」
「起こさねえよ」
世に言うお姫様抱っこでお姫様を抱えたアキトは、本当に20秒もしないで戻ってきた。
「つまんない」
「何が」
「あんたが」
「悪かったな」
「灰皿ないわよ」
「いらない」
断りもせず煙草を口にしながら、アキトはシガーケースをテーブルに置く。
「本当なのね。JACKが、灰皿使わないって」
向かいに座って、肘をつく。目の前の男は、ビジターでも迷い悩む少女でもない。
「拾われて、唾液でも調べられようものなら命取りだもんね?」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「つれないわね。そういうところ、全然変わってない」
記憶の中の何年か前の彼も、愛嬌なんて微塵もない仏頂面だった。
「そのあなたが、あそこまで女の子に入れこむなんて」
「俺は別に」
「迷ってるくせに。本当のこと全部話すかどうか」
「彼女の安全のためだ。自分の置かれている状況を知っておいた方が」
「あんたが、楽になりたいだけでしょう?」
言葉を遮って畳みかけた。鋭い目が、睨みつけてくる。いい顔。
「立場明かして、君を狙ってるやつがいるから俺が傍にいてやるって、四六時中べったりくっついて」
煙になっていく煙草に、視線を移した。睨みつけられるのには慣れていたけれど、この男の目つきは別だ。
「それが、本当にあの娘を護ることになるの?」
答えはない。動かない表情の下で、何を考えているのか。予想はできても、私が踏み込む領分ではない。
「あの娘、言ってたわよ。自分が黒羽の娘だってことを知ってて、あんたが近づいてきてるんじゃないかって」
ライターの灯る音が、返事のかわりに響く。焦げた臭いが、鼻をつく。
「私からは何も言ってないわ。あんたのことも、「SIO」のことも、クリスタのことも」
「恩に着る」
ようやく吐き出された言葉は、煙と一緒にすぐに消えた。
「自分の役目は承知してる。余計な真似はしない」
「彼女が、望んでも?」
「必要の有無を判断するのは、俺じゃない」
「そうやって、また傷つけるつもり?」
声が荒がったのを、深く息を吸って堪えた。どいつもこいつも、舐めている。
「気づいてるくせに。あの娘の気持ちも、自分がやるべきことにも」
勝手に背負った気になってるプライドだの、責任だのにかこつけて、自分で自分を追いつめて、その苦しみに酔いしれて。
「護るなんて笑わせないで。あんたたちが抱え込んでるのは、ただの都合のいい幻よ」
「幻の、何が悪い」
音もなく立ち上がりもう一度煙草をふかしてから、アキトは寝室に繋がる引き戸をちら と見て言う。
「何も見えないことに甘ったれて、闘いもしねえよりマシだ」
「その思い込みのせいで、不幸になる人間がどれだけいると思ってるの」
玄関で靴を履く背中は、振り向こうとはしない。
「あの娘が、どれだけ悲しむと思ってるの」
外へと通じるドアの隙間で、一瞬動きが止まった。見送りのかわりに、その後ろ姿に追い打ちを浴びせかける。瞬きを境に、忘れようとしてもしつこく居座り続ける、別の背中が見えた。
「よく考えることね。本来あの娘にとっては、なにも知らないでいることが一番の幸せなんだから」
幸せ、か
呟いて、黒に身を包んだ男は夜の街へと帰って行った。
ドアの外の香りは、もうわからなかった。
彼女が目を覚ましたのは、すっかり陽がのぼった10時すぎだった。
「あの、晃斗くんは」
「昨日のうちに帰ったわ。仕入れ行くからって」
挨拶もそこそこに尋ねてきた彼女に適当な嘘をつくのは、少しだけ心が痛んだ。そのせいもあって、普段作らない朝食に、久しぶりに力を入れて準備した。
作りすぎて私が残そうとしたブランチを、ルナちゃんはお腹が空いていたらしく、私の分まで綺麗にたいらげた。食後のお茶には、昨日と同じロイヤルミルクティーを出した。こちらも、彼女のリクエストだ。
「美味しい、このケーキ」
「お隣から、引越してきた挨拶にもらったの」
空ちゃんからのパウンドケーキは、彼女にも好評だった。ぐっすり眠ったのと食事を一緒にしたのとで、昨夜に比べて緊張も解けたらしく、落ち着いたようだった。
「私もお菓子とか、作ってみようかな」
「あんまりそういうのはしないんだ?」
「学校行って、バイトして、帰ってご飯作るとすぐ一日がすぐ終わっちゃうんです。どっちかといえば家にいるよりも、外出る方が好きだし」
「アウトドア派なのね。スポーツやってるの?」
「はい、走るのが」
続きは、鳴り響いた携帯の着信で途切れた。スマートフォンをちらり と見て、ルナちゃんはそれをまたポケットに戻す。
「出なくていいの?」
「はい」
「いいわよ。遠慮しないで」
鳴りやまないそれをもう一度ゆっくり取り出し、やはりゆっくりと、彼女は電話にでた。
俺だけど と、ノイズのかかった声が、小さく聞こえる。
「今、家?」
私が聞いたことのない、よく知っている声だった。
「会って話がしたいんだけど、今日、空いてるかな」
丁寧に、恭しく、優しく話す電話の向こうの男は、それこそ大切に育てた花に語りかけているみたいで。
「12時に、迎えにいくね」
音量が大きすぎるのか、電話が切れる音までこちらまで届いていた。短い会話を終えて、そろそろ行きます と、ルナちゃんはスマートフォンをポケットへとしまう。
「彼氏?」
反応が見てみたくて、わざと訊いた。昨日とはまるで違った、照れも戸惑いもない笑顔で彼女は首を振る。
「違いますよー」
「アキトが泣くわよ」
「従兄弟です」
「仲いいのね」
「誰にでも優しい人なんですけど、すごい面倒みよくて」
「ふうん」
私の知らない彼をこの娘が知っているように、この娘の知らない彼を、私は知っている。
そんな心のうちを想像すらしていないであろうルナちゃんは、ラックにかけてあったコートを着て長いマフラーを巻き、ソファの脇に置かれたリュックを背負う。昨日も思ったように、やはり一大企業のお嬢様というよりは、カジュアル系雑誌のスナップ特集を思わせるファッションだった。
「送るわ」
「大丈夫です。ひとりで」
「いいじゃない。ドライブしたい気分なの」
昨夜のショックをもう忘れたのか、それともわざと忘れようとしているのか。どちらにしろ、放っておくわけにはいかなかった。男共が過剰なまでにこの娘を取り巻く理由が、たった一晩同じ空間で過ごしただけなのに、何となくわかる気がした。
「おうちは?」
「新宿です。御苑の近く」
滅多に日の目を見ないミニバンに乗り込み、混みはじめた週末の表参道を上る。
「だからか」
「え?」
「ルーチェ、近いでしょう。寄ってく?」
「いいえ。ヒロくん…あ、従兄弟が来るんで」
「ヒロくんって呼んでるんだ」
「本当はユキヒロなんだけど、小さい頃からそう呼んでて」
今度会ったら、呼んでやろう。「今度」がいつになるかわからないけれど。
「そんないいお兄ちゃんがいたら、彼氏なんていらない訳ね」
「お兄ちゃんか。確かにそうかも」
「私だったら退屈すぎて我慢できないけど」
棘を含めたのは、ヤキモチも入っていたからかもしれない。だけど、気づかないうちにいつの間にか見えない糸にがんじがらめになっていく彼女を、気の毒に思ったのも本当だった。
「甘えるのって楽ではあるけど、いざ自分の脚で歩かなきゃいけなくなったときに、動けなかったら困るじゃない」
さすがに言い過ぎたかと思い、助手席の彼女を横目で見る。ぐるぐる巻きのマフラーの中に埋もれかけた口もとに指をあてて、足元を見ている。
「やっぱり、ダメだな」
シートにもたれかかり、今度は上を向いて天井を眺めながら、ルナちゃんは呟く。
「自由でいるためには、ひとりでいた方がいいのかな」
答えはすぐに思いつかなかった。そうねえ と、ハンドルを握りながら、考えてみる。ひとりは淋しいとか、自由には責任が伴うとか、浮かんでくるのはありきたりな正論ばかりだった。
「本当にひとりになってみないと、わからないかもしれないわね。誰とも会わない、話もしない、何があっても頼らないで、自分だけで生きる」
「難しそう」
「生きていくのが大変なのは、ひとりじゃダメだからなのか、それとも他人と上手に関わっていかなきゃいけないからなのか。どっちなのかしらね」
「でも、自由な人って、かっこいいじゃないですか」
そうね と今度は迷わず彼女の言葉に答えた。
埋め込まれたデジタル時計は、十二時の二十分前。少しスピードを落として行けば、呆気にとられるあの男の端正な顔が拝めるだろうか。
遠くで青に変わった信号に向かい、アクセルを踏む。女二人のドライブは、休日の渋滞にこそはまったものの、少しのお喋りと程よい沈黙の繰り返しのおかげでなかなか悪くはなかった。
ごきげんよう。ちゃみです。
今回は中身を語る前に、
いつだったかTwitterで募集した、「フォロワさんを創作の世界でキャラ化する」、実現させましたよ!
今回シンちゃんが去ったあと馨さんちのお隣に越してきた風舞空ちゃん&お子さんのレイちゃんは、Twitter上での超仲良しさんでリアルに会いに行っちゃうほどのソウルシスター、そらたんと娘さんのレイちゃんがモデル(というかモロ本人)ですよ!
やっと、やっと約束を果たせたよ…遅くなってごめんよ……
彼女とは一回だけだけど一日中遊んだ仲だから、ある程度イメージははっきりさせて書けました。お子さんのレイちゃんは写真いっぱい見てるから言わずもがな…(コラ
もうお一方はまだ先になる予定ですが、必ずご出演いただくので!
ご本人覚えていてくれてたらいいな~……
そして、中身のことを少々。
馨さんと晃斗が繋がりましたな。もともと繋がりはあったんだけど再会、か。
この再会と、ルナとの出会いで、馨さんの中ではわりと動きがあったみたいですよ。空ちゃんとの出会いもしかり。
若い子とか自分と全然違う環境の人を羨ましく思う傾向って、そういうのを露骨に表に出すのはあんまりよろしくないっていう考えはもっともではあるかもしれないけど、なかったらなかったで何かつまらないかなあと。
嫌いではないし、憎んでもないんだけど妬いちゃうっていうね。めんどくさいですねー。
まあ、そこがいいっていえばいいんだけど♥
次回は、本格的に動き出した御曹司視点。この人は、何がしたくて何をさせたいんでしょうか。
ありがとうございましたー!