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Eclipse  作者: 楪美
16/41

Ⅲ-1,Acceleration







間延びしたチャイムの音を合図に、突っ伏していた頭が、ウェーブみたいに次々と起き上がった。




広い階段教室の一番後ろの席は、不思議な気分になれる。マイクを通した先生の声も、あちこちで発生してるお喋りも、窓の隙間で唸っている風の音も聞こえるのに、目に映るたくさんの頭やスクリーンが遠くて、そこだけが別空間みたいに思える。




二つ隣の女の子が一生懸命塗っているマニキュアの匂いを吸い込みながら、テキストとペンケースを片付けた。ようやく馴染み初めてくれたスマートフォンで、時刻を確かめる。早めに買ったショート丈のダッフルコートを羽織り、大きめのマフラーを巻いてリュックを背負ったところで、誰かに黒羽さん と声をかけられた。




「ちょっといいかな」




見覚えのない、小柄な男の子だった。短い金髪で眉毛が薄いのに、目がぱっちりしていて高校生くらいに見えた。




「おれ、社会心理学もとっててクラス同じなんだけどさ。それで、この講義も一緒で」

「そうなんだ」

「で、悪いんだけどさ、先週の社会心理学のレジュメコピらせてもらっていいかな。休んじゃって」




初対面なのに、気兼ねなさそうに話す子だった。もう一度携帯のディスプレイを見ながら、ごめんなさい と応える。




「今日は持ってないの」

「月曜の授業の時で全然いいよ。ちゃんとお礼するからさ」




お願い と手を合わせてくるその子を、断る理由もなかった。




「わかった。じゃあ月曜に持ってくるね」

「ありがとう。ごめんね急に。あ、名前教えてなかったね。おれ、瀬戸瞬也。シュンって呼んでくれていいから」




じゃあ と去っていった彼は、瞬きをしたら見えなくなっていた。










教室移動でばらばらの方向に行き来する人波をすり抜けて、正門に向かって歩いた。10月に入ってやっと秋が来たと思いきや、服装を間違えるとすぐ汗をかいたり、反対にくしゃみを連発したり。今日の私は前者だった。コートの下のカットソーに、汗の感触が張り付いている。




少しずつ低くなっていく太陽は相変わらずじりじりと照っているが、ひんやりし始めた空気と風が、それを中和してくれている。最近切っていないせいで伸びまくりの髪が好き勝手に乱れていたけれど、気にしてる余裕はなかった。




正門を出て、目印の銀色の頭を探す。ひと目でわかるはずのその人は、見当たらない。携帯にはメールも着信も入っていない。待ち合わせ場所を間違えているのかも知れない。もう一度見回してみる。




と、探している人とは別の人が目に入った。大きいバイクを路肩に停め、そばのガードレールに座って煙草をふかしている。




明らかに学生に見えないその人は、周囲からの注目の的になっていた。女の子たちはちらちら顔を見ながら、男の子はその人とバイクとを交互に見て、どちらも一定距離をあけて通り過ぎていく。だけど私は空に向かって煙を吐き出す彼を間違えるはずもなく、躊躇わず声をかけた。




「晃斗さん」




私が呼ぶ前に気づいていたらしい彼は、いつもみたいに吸殻を携帯シガーケースに片付けながら立ち上がる。ルーチェで働いているときと同じで、全身真っ黒だった。




「どうしたの?こんなところで」

「え」

「え?」

「聞いてないのか」

「何を?」

「シンが来れなくなったから、代わりにこれ渡してくれって」

「そうなの?」

「…あの野郎」




溜息混じりに呟いて、晃斗さんはバイクのシートのところを開け、トートバッグに入ったパソコンを取り出す。




「直接渡せなくて、ごめんってさ」

「それで、わざわざ晃斗さんが来てくれたの」

「昨日頼まれてな」

「お店は?」

「休み。おっさんが一日出かけていないんだ」




受け取ったパソコンはさすが最軽量モデルだけあって、全然重くなかった。パソコンをリュックにしまって、ずれたマフラーを直す。晃斗さんは黙ったまま、私の手元を見ている。何を喋ろうか、頭を回す。




「バイク」

「ん?」

「かっこいい。いいなあ」

「興味あんの」

「こういうの乗り回して、風になるー!! ってやってみたい」

「高速乗ればできるかもな」




いつもみたいに少しだけ笑って、晃斗さんは黒とシルバーのボディを小さく叩く。




「今日は」

「ん?」

「もう授業終わりなのか」

「本当はもう一コマあるんだけど、今日はお休み」

「サボり?」

「違うよ。先生が研究会で」

「ごめん。言ってみただけ」




少しムキになって言い返しただけなのに、申し訳なさそうに謝ってくるのがなんだか可愛かった。ふと、彼が何歳なのか知らないことに気づく。聞いてみようと思ったけれど、切り出すには間が空きすぎていた。




「シンとは、どっか行く約束とかしてたの」




そんな沈黙をものともせずか、それとも気を遣ってくれているのか、晃斗さんは自然に会話を繋げてくれる。




「ううん。一限終わる十時半すぎに正門で待ち合わせてただけ」

「このあと予定は」

「特に決めてないよ。せっかく天気いいし、出かけたいなってくらい」

「行く?」

「え」

「どっか、行く?」

「一緒に?」

「嫌?」




ほんの少しだけど、眉毛を下げて寂しそうな目をして訊かれてしまえば、断る訳なんてなかった。




「全然!!連れてって」




思い切り首を振ると、晃斗さんはまた笑って、ゴーグルがついたヘルメットを渡してくれた。




「どこがいい?」

「どこがいいかな」

「普段どういうとこ行くの」

「ほとんど新宿出ないなあ。なんでもあるし」

「そりゃそうだ」




ヘルメットをかぶっていよいよ全身真っ黒になった彼がシートに跨り、私もその後ろに乗る。大きな背中に、少しだけ緊張した。唸るようにかかったエンジンごと、身体が震える。




「ここにないもの、か」




爆音に混じって、晃斗さんの、いつもより少し前を張り上げた声が聞こえた。




「掴まって」




言われて背中にしがみついた1秒後、私たちは走り出した。













走っている間の一時間弱は疾るように過ぎてしまい、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。




それでも、信号待ちの度に晃斗さんは大丈夫か とか寒くないか とか気にかけてくれたし、何より飛んでいく景色や挑んでくる強い風に、退屈する暇なんてなかった。





晃斗さんが連れてきてくれたのは、飛行機が低く飛んでいくのが見える海辺の公園だった。できたばかりの海上ハイウェイが通るおしゃれな橋や、ドン・キホーテもびっくりするような巨大な風車、それに空の青が綺麗に映る静かな海が見えるそこは、平日の日中だけあって人も少なく、都会の喧騒を忘れさせてくれるような、そんな場所だった。




「何年ぶりだろ、海なんて」




バイク乗り入れが禁止だったので、駐車場に停めてから遊歩道を10分ほど、並んで歩いた。潮の匂いに誘われてたどり着いた海辺は、波打ち際ぎりぎりのところまで階段のように舗装されていて、何人かがぽつぽつと座って海を見たり、喋ったりしていた。




「すごいねー。倉庫とかクレーンとかも、遠くまで見える」

「空気が澄んでるんだろうな」




お台場、横浜、房総半島、浦安、と、晃斗さんは海辺のスポットの方向を指さしながら教えてくれる。名前は知っていても行ったことのない場所を、どこかで見かけた記憶の欠片を組み合わせて想像した。




「晃斗さんは、全部行ったことあるの?」

「一応な。夢の国以外」

「私、ほとんどテレビとかネットの地図で見てるだけだ」

「逆だな。テレビはほとんど見ない」

「ネットで充分?」

「あとは新聞と、店においてある雑誌」

「読むのが好きなんだ」

「かも知れない」

「大学入ってよく図書館行くようになったんだけど、本って本当いっぱいあっておもしろいよ。タイトル見てるだけでも」

「小説とかマジで読まないからな。最後に読んだのは」




そう言って、しばらく空を仰ぐように上を向く。波の音が、聞こえる。




「思い出せない?」

「いや、小学生の時だから、十年以上前だ」

「中学とかで読めって言われなかったの?」

「まともに行ってなかったからな」

「うわあ、不良ー」

「じゃねえよ」




からかってみるのには、少しだけ勇気を出した。ごまかすように晃斗さんは笑って、高い空を見上げる。




「実際どうしようもなかったけどな」

「十代の前半なんて、誰だってそうだよ」

「誰だってか」

「私も学校なんて大嫌いで、無駄に周りに反抗して、見下して、自分のことしか見えてなかったよ」

「意外」

「そう?」

「なんか、その割にはすれてないっていうか」

「開き直ったからかも。大人になったんだよ、いろんな意味で」

「いろんな意味?」

「世界が広まったっていうか、自分以外の人のことが見えるようになったんだと思う」




つい最近だけどね と、そこまででその話は終わりにした。私が黙って、そうさせた。




本当は、聞いて欲しかった。だけど、言わなかった。





胸のうちで絡まった気持ちに、気づかないふりをして隠した。










ランチに入ったレストランで、私たちはおかわり自由のドリンクをお供にずっと喋っていた。地下でひっそりと営業していたそのお店は、時間の感覚も地上の喧騒も、何もかもを奪ってくれた。




私はミートソースのスパゲッティを、晃斗さんはラザニアのセットを頼んで、やっぱりいろんなことを喋りながら食べた。




「晃斗さん、食べるのは左利きなんだね」

「どっちも使える」




言って、左手で持っていたスプーンを右に持ち替え、器用にラザニアをすくってみせてくれる。




「お店で仕事してる時は右だよね」

「よく見てんな」

「練習したの?」

「まあ」

「いいなあ」




試しに左手に持ち替えたフォークでスパゲッティを巻いてみた。どうやっても、綺麗にまとまらずぐちゃぐちゃになる。2、3回やって、すぐに諦めた。




「日本はだいたいが右利き用になってるからさ、本当は揃えた方が便利なんだよな。何かと」

「確かに。左だと行儀悪いとかいう人もいるし、公共の設備とかもそうだもんね」

「散々直せってしつけられたよ」

「ご両親?」

「母親。すげえ厳しくてさ」




一度水を口にしてから、晃斗さんは思い出を辿るようにゆっくりと話す。




「特に飯の食い方にはうるさかった。箸の持ち方とか肘をつくなとか、音を立てて食うなとか」

「一口で三十回噛みなさいとか?」

「それはさすがになかったな」

「私言われてたよ」

「めんどくせえな」

「めんどくさいよね。でも」




誰かの人となりを見極めるにはご飯の食べ方を見るといい というアドバイスは、どこかで聞いたことがあった。その人の育った環境や性格が出るのは食事の席だ と。




「でも、今ならわかる。かも」

「そういうもんだよな。時間が経たないとわかんねえんだろ」

「時間、経ちすぎちゃったけど」




最後まで言ってから気づいた。晃斗さんが、じっと私の目を見ている。




あの日と同じ。




綺麗な漆黒の瞳に見つめられると、頭と胸の奥はすう っとするのに、心臓だけはやけに重く、だけど静かに音を立てて動く。ぐちゃぐちゃにもつれている余計な見栄とか、躊躇いとか、打算とかが全部消えて、かわりにすごく穏やかな、大きな海を見ているような気持ちになる。




「なんか」

「ん?」

「なんかついてる?」

「ううん、じゃなくて」




唇の周りを触る指は長くて、手は大きくて。




「綺麗だなって」

「綺麗?」

「目。黒が深くて」




その切れ長の目が、少しだけ見開かれる。それから、突然顔を背けて笑い出した。声はなかったけれど、肩と頭の動きで笑っているんだとわかった。





「なんで笑うの」

「だってさ」




戻ってきた顔は元通りだったけれど、髪に隠れた耳が少し赤くなっていた。




「目つき悪いとか顔が怖いとかは散々言われてきたけど、キレイはさすがに今までなかったな」

「怖いってひどくない?」

「とか言って、自分も思ってないか」

「最初だけだもん」

「思ってたのかよ」




鋭い口調の割には怒ってはいなさそうだったので、一緒に笑う。




「だって、最初はすごいぶすっとしてて、にこりともしてくれなかったじゃん」

「生まれつきだよ」

「でも、こうやって喋ってると、普通のお兄さんだし」

「普通ねえ」

「ううん、やっぱうそ」




今度こそ眉根を寄せて怪訝な顔をしてみせたので、素直に思っていることを言ってみた。




「普通って言ったけど、やっぱりなんか、そこらへんの人とは違う感じもする」

「たとえば?」

「たとえば」




声を出して考えてみても、しっくりくる言葉は浮かんでこない。




「ごめん、いいよ。そんな考えなくて」

「本当だよ。うまく言えないけど」




いいよ と言って、また晃斗さんは水を飲む。私もグラスを持ちながら、次の話題を探す。




「字は、どっちで書くの?右左」

「どっちもだな。特に決めてない」

「どっちでも同じように書けるんだ」

「そんな変わんねえはず」

「書いて書いて。これに」




テーブルの隅っこに置かれていた紙ナフキンとアンケート用のボールペンをとって、手渡す。ペンを持った左手の指が、迷うように小さく踊る。




「どうしたの?」

「いや、何書こうかと」

「じゃあ、名前」

「俺の?」

「うん。漢字で」




わかった と晃斗さんは最初は左で、次は右手に持ち替えてボールペンで小さく、でもすらすらと、漢字四文字の名前を書いてくれる。どちらも少し右上がり気味なところを除けば、綺麗に揃った字だった。




「…スモウ?」

「言うと思った」




わざとボケたのが通じてか、盛大な溜息が返ってきた。




「嘘だよ、ちゃんとわかるもん。サガミでしょ。相模湾の」

「もはやネタだよな」

「サガミアキトさんかー」

「呪文みてえだな。自分の名前だけど」

「かっこいいじゃん。相模晃斗さん」

「どうも違和感が」

「じゃあ、晃斗くん」




呼んでみて、はい と返事が返ってくるまで、三秒くらいの間が空いた。




「そんな改まらなくていいのに」

「いや、いきなりだったし、君呼びなんてされたことないから」

「ダメ?」

「いや」




表情は涼しげでも、なんとなくそわそわしながら水を飲んでいるのがわかった。照れてるのかもしれない。また、可愛いなんて思ってしまう。




「これでアキトって読むんだね」

「らしいな」

「日の光に、北斗星の斗だ」

「ホクトセイ?」

「北斗七星とかの」

「ああ」

「太陽と星、いい名前だね」

「完全に名前負けしてるけどな」

「私だってそうだよ」




自虐気味な呟きに、さりげなく被せて言った。切れ長の目が、興味深そうに瞬く。よく見てればわかる。全然無表情なんかじゃない。




「私の名前、ルナってね。神様の名前なんだよ」

「神?」

「ローマ神話の、月の女神をルナって言うんだって。発音は違うけど、イタリア語とかスペイン語ではそのまま月っていう意味だったり」

「なるほどな」

「小さい頃はそんなの知らなくて、お母さんにどうして私の名前は漢字じゃないの って詰め寄ったんだけどね」

「カタカナでルナ、か」

「うん」




初めて名前を呼ばれてちょっとどきっ としたのを、氷しか入ってないグラスを煽ってごまかす。




「小学校で漢字には一個一個意味があるって習ったのに自分の名前はカタカナで、意味なんてないんだと勝手に思い込んで」




涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で学校から帰た私を抱き上げながら、お母さんは話してくれた。





 ルナっていうのは、月の神様の名前よ




 真っ暗な夜でも、お月様が出ていれば怖くないでしょう




 寒くて淋しい夜でも、綺麗に光って、誰かを優しく照らしてあげるの




 貴女には、そんな人になってほしいから





「お母さんの話を聞いてすごく嬉しくなって、自分の名前が大好きになった。私はあの空に浮かんでいるお月様みたいになるんだって、本気で思ってた」




過去形を使ったのは、昔の話だから。




今は違う。




月が独りじゃ輝けないことも、傷だらけなことも、人を惑わしおかしくすることも、知っている。




「いい話じゃん」




目を細めて、晃斗くんは呟く。いつもくれる笑みとは、少し違っていた。




「そうかな」

「俺は、自分の名前の意味なんて知らないし」

「太陽と星、じゃないの?」

「親に聞かなかったから」




言葉にはしなかったけれど、同じ境遇なんだろうな となんとなく思った。こうして1メートルもない距離で言葉を交わしてはいても、どこか届かないような気がするのは、お互いがお互いを見つめているだけで、触れることができていないからなのかもしれない。狭くて暗くて寒い部屋で膝を抱えながら、透明な壁越しに存在だけを確かめ合っている、そんな感じだった。




「いいと思うよ。太陽と星で」




それでも、近くにいるってわかるだけで、少しだけど、暖かいって思えるから。




「私は月。晃斗くんは、太陽で、星」




クサいこと言ってるなあ と頭の片隅で思ってはいたけれど、恥ずかしくはならなかった。むしろ、退くなら退けばいいとすら思った。背伸びも屈みも、もうしたくなかった。




ありがとう と、晃斗くんは、またあの一瞬の笑顔を見せてくれた。泣きたくなったのを抑えて、私も笑い返した。









帰り道は、行きと違ってすごくゆっくりと過ぎて行った。



ジャケットを掴んでいた私の両手を、晃斗くんは無言で自分の腰に持っていった。いっそう近くなった背中に胸の鼓動がばれないように、わざとギリギリの隙間を作った。油断するとぎゅっと縋り付いてしまいそうで、お腹と脚に必要以上に力を入れた。




晃斗くんが話を振ってくれていたにもかかわらず、私は短い返事しかできなかった。頭の中は、それまで調子に乗って口走っていた数々の自分の言動だったり、初めてのご飯にミートソースを選んだ自分への呪いだったりがぐるぐるしていた。数十分前までの開き直りが嘘のように、呆れられた、変な女と思われた、なんてネガティブな思考で埋め尽くされていた。そのせいで、着いたぞ と声をかけられても、しばらく腰にしがみついたまま、景色が止まったことに気付けなかった。




肩を軽くたたかれて、ようやく現実に返った。落っこちないようにゆっくりシートから降りて、リュックを背負い直す。




「ありがとう。楽しかった」

「よかった」




ヘルメットをとった顔は逆光でよく見えなかったけれど、声でどんな表情をしているかは想像できた。




「また」

「ん?」

「ううん、なんでもない」




連れて行って とは言えなかった。調子のいい奴だと思われるのが怖かった。




「パソコン」

「パソコン?」

「わかんなかったら、俺でよければ聞くよ。シンの代わりに」

「あ、うん。ありがとう」

「大丈夫か」

「何が?」

「さっきまでと、なんか違う」

「ちょっと疲れたのかも」

「そうか」



ごめんな とほんの少し声が沈む。全然 と首を振って笑ってみせたけど、内心は気を遣わせた自分を殴りたくてしょうがなかった。




「じゃあ」

「うん。気を付けて」

「1分もかかんないけど」

「そっか」

「おやすみ」




言ってヘルメットを被った後ろ姿におやすみ と返す。にもかかわらずエンジンが鳴ったのと同時に、ちょっと待って と、勝手に叫んでいた。




「どうした?」




聞こえてませんように と半分祈ったのは無駄だった。何の意味もない引き留めに、晃斗くんはわざわざバイクから降りてきてくれる。頭だけでは足りず、リュックを漁って手を動かしながら言い訳を考えた。




「お金」




手に触れた財布を取り出して、中身を覗く。




「ご飯のお金、払ってもらっちゃってたから」

「いいよ。そんなの」

「だって」

「いいから」

「よくない!男だからとか働いてるからとか、そういうのはナシ」




言って一秒も経たないうちに、心底後悔した。可愛くないにもほどがある。面子を潰す以上に、馬鹿にしてると思われてもしょうがない。お札をいじくる指を止めないまま、ひたすらアスファルトに目を落とす。




「無理すんな」




ごそごそ動かしていた指に、節ばった長い指が被さった。跳ねそうになった手先を、神経を総動員させて抑える。




「いつも店に金落としてもらってるから、今日はそのお返し」




固まってる私に言い聞かせ、晃斗くんは財布を閉じてリュックの中にしまう。




「っつってもこんなんじゃ全然足りねえけど」

「そんなこと、ないよ」

「ウチのメニュー無駄に高いだろ」

「そうじゃなくて」




また、喉が詰まる。




伝えたいのに、許してくれない。




縺れた鎖が、邪魔をする。




「もったいないくらい、最高だったから」




本当は、もっと




「楽しくて、あっという間で」




もっと、一緒に




「本当に、ありがとう」




顔は見れなかった。夜でよかった。




じゃあ と手を振って走って、マンションのエントランスに駆け込んだ。振り向きも、エンジン音を聞きもしなかった。







分厚いガラスに取っ手のついた入口と、認証式の自動ドアのあいだのスペースで、乱れた呼吸を整えた。




少し走っただけなのに、心臓がうるさくて、頬が熱い。街を駆けまわった時の、何倍も苦しい。




そのまましゃがみこみたくなるのをこらえて、集合ポストまで歩いた。入っていた年金の定期便と成人式の振袖の案内を手に取って、訳もなく二つの葉書を最初から最後まで読む。ちっとも頭に入らないまま年金の方の文章を注意書きまで読み終えたところで、やっと呼吸と脈拍が元に戻った。




長くて短かった一日がくっきりと映るのをぼんやり認識しながら、指が覚えている暗証番号を端末に入力し、自動ドアを開錠する。重くない筈なのに肩に食い込むリュックが変にのしかかって、やたらに脚が重かった。いつもなら難なく登れる階段を使う気にはなれず、エレベーターのボタンを押した。その時だった。




足元から這うような寒気を感じ、咄嗟に身体を横に向ける。何かが、今まさに私が立っていたその場所をすり抜けて行った。




エレベーターの扉に音を立ててぶつかったそれは、ひるむことなく私の方に向き直る。グレーのウインドブレーカーにニットの帽子、それにマスクをした人だった。さらに被ったフードで、目元は見えない。それでも、すごい目つきでこちらを睨んでいるのはわかった。空気が、静電気でも発しているみたいに張り詰めている。




低い体制のまま突進してきたその人をギリギリまでひきつけて、その場から跳ぶ。着地した階段の手すりから見下ろすと、あまり身長は高くなさそうだった。




外に出なきゃ




掴みかかってこようとする動きを読んで、自動ドアの入口までジャンプする。距離は十分だった。だけど、自動ドアは違った。私を認識してから、道を開いてくれるまでが、どうしようもなく遅かった。




肩を掴まれ、強引に後ろから倒される。地面と平行に転ぶ前に咄嗟に身体を丸めたおかげで、その人はエントランスのドアのところまで勢いで吹っ飛んだ。またすごい音がする。頭をぶつけたらしく、立ち上がってこない。チャンスだった。なのに、力が入らなかった。




立てない




理解した瞬間、ぶるぶると身体が震えはじめた。胃の中を、ぎゅっと握りつぶされるようだった。




ゆら とうずくまってた影が動く。まだ鈍いけれど、さっきの、あの激しい眼差しが刺さってくる。




動け



立て




いくら脳で命じても、震えはとまらない。呼吸をするのがやっとだった。




影が、完全に立ち上がった。一歩が、踏み出される。口を開けて、思いきり息を吸い込む。




助けて




声に出そうとした時だった。




手すりつきのドアが大きく開かれ、風が入ってくる。




黒い影がもう一つ、ガラスとガラスの狭い隙間に入り込む。




後ろからのその気配に気づいた襲撃者が、振り向きざまに殴りかかる。




後から入ってきたその人は流れるようにそれを避ける。かと思ったときには、殴りかかった方は床にたたき伏せられて伸びていた。




「あ、きとく」



やっと出せた声は、情けないくらい細くて、掠れていた。近づいてきた晃斗くんは、怪我は と短く言って私を起こしてくれる。床に座り込んだまま、私は首を振った。




「なん、で」

「ここで君を待ち伏せていたんだろう。目的はわからない」

「じゃなくて」




差しのべられた手を掴んだまま、彼を見上げる。




「なんで、来てくれたの」

「帰ろうと思ったら、でかい音がして」

「嘘。バイクに乗ってたらわからないでしょ」




思わず口調が強くなった。と、同時にそれまで倒れていた灰色の男が、走って逃げて行く。追いかけようにも、脚は動かず立てないままだった。晃斗くんの舌打ちが、エントランスホールに響く。




「掴まって」




しゃがんだ彼の肩を借りて、ようやく立ち上がることができた。思考の方も、だんだんと落ち着いてくる。




「あの、ありがとう」

「よかった。無事で」




視線を合わせないまま向かい合って、しばらく沈黙が続く。意識してゆっくり息を吸って、吐いてを繰り返した。全身で鼓動と呼吸を感じながら、タイミングを計る。




「ねえ」

「うん」

「見たよね」

「何を」

「私が、跳んだところ」




覚悟を決めて、その目を見つめながら訊ねた。ああ と、晃斗くんは頷いた。




「私も、見たよ。貴方の、あの動き」




晃斗くんは、またああ と応える。視線は逸らさない。




「教えて。貴方は誰で、何が目的なのか」




私も と、深呼吸と一緒に、続ける。




「私も、秘密にしてること話すから、だから教えて」




もう、置いていかれるのは嫌だった。





「どうして、私を護ってくれるの」





晃斗くんは、静かに目を閉じた。





心臓が高鳴ったのに、もう気づかないふりはできなかった。







どうも。ちゃみです。


リア充とは程遠いわたくしがリア充を書いてみました。

リア充っつってもこやつらちゅーもしてなければ付き合うなんていってなくて

ただおでかけして喋って密着(笑)しただけなんだけど

何度か放火して爆発させたい衝動に駆られましたが楽しかったです。


とか言いつつ終盤で思いっきり不穏な動き出してますw

晃斗とルナはなんだかんだ言ってこのお話の中心人物なんで

彼等が軸に進んでいくんですね。


しばらくはこんなゲロ甘エピはなくなると思います。

うそです。書きたくなったら書きます。


あ、あと最初のほうに出てきたシュンね。

彼はモブじゃないです。ちゃんとそれなりの役割を果たしてもらいます^ω^



次回は、シンちゃんとさよならした馨さんのその後。

お待たせしました!

いつだったか約束したフォロワさんを創作に登場させるってアレを実現しますよ!



ありがとうございましたー!!




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