Ⅱ-4,Daydream
Eclipse 2-④ daydream
正午少し前の外苑前のコーヒーショップは、昼時を前に人が群がり始めていた。
汗をかいたアイスラテを一口含み、ぞろぞろと蠢く頭の群れをテラス席から眺める。夏の名残でぎらつく日差しと人の熱気、それに耳障りな喧騒から隔離されたこの場所は、まだ湿り気を孕んだ風が過ぎるだけで充分涼しい。
「テラス席にいる」
短く送ったメールに、いまだに返事は来ていない。サブディスプレイの時刻表示を点灯させると、まだ10分も経っていなかった。アイスラテをもう一口飲む 。ミルクで薄まった茶色が、透明なカップの半分くらいになった。
医院まで迎えに来てもらえば、クッションの効いた回転椅子によりかかりあぐらをかきながら、水っぽいラテを持て余すことなく済んだと今さらになって気づく。中途半端な空き時間をこうしてただ待ち続けながら過ごすのは嫌いでこそなくても、止まることのない何かに置いていかれているような感覚におそわれる。人や車、風、空が動いている中にいると余計にそう感じる。 来てくれるのをではなくて、埋もれているのを見つけてくれるのを待っている気分だった。
「Can I have your next?」
不意に耳に入った綺麗な英語に振り向くと、そこに立っていたのは、藍色の着物に身を包んだ上品そうなおばあさんだった。
「あら、外国の方かと思ったわ」
私の表情が止まったのを見てその人は、やっぱり上品にふふ と笑った。
「よく言われます」
というよりも、周囲がそう思ってるであろうことは、彼らの目を見ればわかる。
「そうでしょうねえ。絵になってるもの」
「絵?」
「佇まいっていうと変かしら。雰囲気?脚の組み方とか、お洋服の感じとか」
「浮いてるってこと?」
「そうじゃないわ。気を悪くしないで」
気を損ねたつもりはなかったのに、何故か詑びられた。いいえ と、いつもよりも口角をあげて応える。
「確かに半分は外国人だから、やっぱりわかるのかなあって」
「お父様?お母様?」
「父親が日系なんです。母親も日本人だから本当は半分も入ってないんだけど、ずっと向こうにいたから」
「そう。それで半分、ね」
なんだか、憎めない人だった。マイボトルらしき水筒のカップを茶道みたいにずず とすすりながら、このあたりも変わったわねえ とおばあさんは語り出す。私も、もはやラテ味の水になったカップの中身をすする。
「と言っても、年に1回は来ているんだけどね。どんどんどんどん、紙芝居みたいに変わっていくわね」
「1年に1回だけ?」
「主人にね、会いに来るの」
青山の霊園で眠っているのであろうその人を思い浮かべている顔は、私なんかよりもずっと可愛らしかった。海の傍で旅館を切り盛りしていること、最近買ったタッチパネル式のタブレットのこと、何年も会ってない孫のこと。とめどなく、でもゆっくりと喋るおばあさんの話を、私は相槌を打つこともなくひたすら聞いていた。テーブルの上の携帯電話が鳴っているのに気づいたのは、持ち主の私より彼女の方が先だった。
「もしもし」
「悪い、今着いた。どの席?」
「2階のテラス。降りてくから待ってて」
短い会話を終え、空っぽのカップを持って椅子から立った。
「恋人?」
悪戯っぽく声を潜めた問いに、全然 と笑って首を振る。
「ただのあれです。えっと」
「腐れ縁?」
「そう、それ」
「ダメよ、意地張ってちゃ」
彼女はまた、にっこりと笑う。
「電話きた時のあなた、恋してる娘さんの顔だったわ」
娘さんなんて呼ばれたのは初めてだった。頬に手のひらをあててみる。気のせいかも知れないけれど、なんとなくあったかく感じた。
「正直になっていいのよ。ううん、正直にならなきゃダメ」
ね と小首を傾げるその仕草も、やっぱり可愛らしかった。屋内に通じる自動ドアの前まで歩いたところで、もう一度振り返って、訊ねた。
「おばあちゃん」
「はあい?」
「おばあちゃんのご主人は、どんな人だったの」
ゆっくりと瞬きをしてから、おばあちゃんはそうねえ とこれまたゆっくり呟いた。
「私がいなきゃ、ダメな人だったわ」
え と口に出してしまっていた。もう行きなさい と手を振って、それからはこちらを振り返ることはなかった。ありがとう は、もしまた逢えたら言うことに決めた。
「ごめん、待たせて」
こちらに気づいて軽くあげられた手に、うん と頷いて返す。店の入口の柱に寄りかかっていた立ち姿は、相変わらず嫌味なくらいに様になっていた。ガラス窓際のカウンター席に座っていた女の子が、あからさまな視線を送っている。その隣に座っている、多分恋人であろう男は、そんな彼女に気づいてか知らずか、一生懸命何かを喋っていた。
「仕事?」
「いや、渋滞。車で来たから」
「何でまた」
「話、車の中でいい?」
「秘密の話?」
「そ、国家機密」
冗談めかして車のリモコンを弄ぶ横顔は、目が真剣だった。ご馳走してもらう気満々だったお昼は、期待できそうにない。腹の虫に釘を差しつつ、堂々と路駐されていた高級車に乗り込んだ。
「終わりにしよう、俺たち」
何個目かの信号待ちで、それまで黙っていたユキが、前を見ながら呟いた。
「何それ」
思わず、失笑した。まさか、そう来るとは。
「女でも、できたの」
「ごめん」
「私が聞いてるの。答えなさい」
「俺じゃなきゃ、ダメなんだ」
淡々と吐き出される言葉たちは、左から右へ、清々しく通り抜けていった。
「馨は、俺じゃなくても大丈夫だよ」
悪びれもせず
「きっと1人でだって生きていける」
知ったふうな口を
「そうして、どんどん俺を置いていくんだ」
ぱしん
「そうだろ?」
高そうな黒縁の眼鏡がずれても、目線一つだって動かさない。
「そうね」
ひっぱたいた手を降ろし、私もフロントガラスの向こうを眺めて、喋る。
「あんたなんか、いなくても」
ダメよ、意地張ってちゃ
「1人で生きて、かっこいい、ステキなおばあちゃんになって」
正直になっていいの、ううん
「後悔させてあげるわ。私を選ばなかったことを」
正直な気持ちかどうかなんて、わからない。
そんなものは、どこかに忘れてきた。
美味しいものが食べたい と別れ際に我儘を言った私を、ユキはこじんまりとした定食屋に連れてきた。
四人用のテーブル二組とカウンター席が数える程しかないその小さいお店で、二人で並んで同じランチ定食を食べた。出汁の香りが充満する空間での食事は、家での朝食みたいに穏やかに進んだ。仕事の話はしなかった。代わりに、長いこと封印してきた昔話に花を咲かせた。
「エリカは、許すかしら」
「泣かれそうだな」
「どっちの意味で?」
「どっちもかな。よかったね とか言って送り出したあと、背中を見送りながら泣くよ、たぶん」
少なくともひっぱたきはしない なんて余計なことを言うので、爪を食い込ませて耳をつねってやる。
「ピアス、塞がったんだ」
「ビジネスマンだからね」
赤くなった耳たぶをさすりながら、ユキは格好つけて言う。
「もう使わないだろうし、全部いとこにあげたんだ」
「いとこ、女の子じゃなかったっけ」
「そうだよ。しかも、ピアス開けてないし」
「何に使うのよ」
「さあ。とりあえず喜んではくれたよ」
「ふうん」
「馨は?最近してないの」
「別に今さら洒落っけ出してもね。職場と家の往復だし」
「たまには遊んでもいいと思うけど」
「そんな暇ないわよ。どっかのお坊ちゃんと違ってね 」
「どこの坊ちゃんだろうな」
出来心で口走った皮肉に、ユキは珍しくむっ として眉根を寄せた。冷静で隙のない男の不機嫌顔は、色っぽくすらあった。
「遊びも仕事のうち、とでも言うわけ」
「逆だよ。仕事も遊びのうち。好きでやってるんだから」
「それでメンタル削れてちゃ世話ないわね」
「削れてるように見えるんだ?」
「隠すぐらいなら、ちゃんと寝て、食べなさい」
指を伸ばして眼鏡を外し、その奥を見据える。隠れていた隈が、はっきりと見える。
「俺もまだまだだなあ」
「どうせ、言ったって聞かないんでしょう」
「それでも言ってくれるのは馨くらいだよ」
「今更何言ってんのよ。散々暴言吐いてフったくせに」
「ひっぱたかれた分、おあいこだろう?」
奪った眼鏡を目の前に持ってきて、覗いてみる。首を傾けて肘をついている姿が、ぼやけて映る。目の奥が、くらくらした。
「ねえユキ」
「ん?」
「どこに、行くの」
「どこも行かないよ」
「嘘」
「嘘じゃないさ。ただ、今までみたいに会えなくなるだけ」
「そうやってかっこつけて、ヒーローでも気取ってるつもり?」
開いていた眼鏡を閉じて、テーブルに乗せた。
「邪魔なの?私が」
「違うよ」
「じゃあ、役に立たないから?」
「そうじゃない」
「なら、答えはひとつね」
椅子を押しのけて立ちあがり、財布から千円札を取り出して音を立てて置いた。指の隙間の野口英世の顔が、やけに歪んで見えた。
「指を咥えて終わるくらいなら、頭から突っ込んで、引っかき回してやるわ」
「馨」
「安心しなさい。頼まれたからには責任は持つわ。だけど」
おい と、ユキの大声を背中で聞いた。後ろは、向かなかった。
「私はエリカとは違う。大人しく守られる気も、尽くす気もないわよ」
引き戸の音に混じって、もう一度、呼ぶ声を聞いた気がした。
午前中はあんなに進まなかった時計が、気がついたら定時時刻になっていた。
週末で浮き立つ人波と一緒に流れて、いつもと同じ道を、同じペースで帰った。コンシェルジュの青年のおかえりなさいませ で、やっと地に足がついたような、戻ってこれたような気分だった。エレベーターで見慣れた顔と鉢合わせなければ、また宙に浮くところだった。
「馨さんだ。おかえり」
自転車と一緒に現れたシンちゃんは、髪の毛を一つに結って、いつもの白のシャツの上にカーキ色のモッズコートを羽織っていた。
「今から仕事?」
「ううん、ちょっと用事」
「よかった。ちょうど」
「ちょうど馨さんに電話しようと思ってたんだ」
切り出した私より先に、シンちゃんがにっこりしながら言う。
「夜、帰ってきたら馨さんとこ行ってもいい?」
「あら、一緒に寝てくれるの」
「だから、寝るだけならいいよって前から言ってるじゃん」
「まちがいなく本気で寝るわよね。どっちも」
「馨さんちのベッド気持ちいいんだもん」
「じゃあ、ご飯作っとくから、早くいってらっしゃい」
「やった。お鍋がいいな」
「はいはい」
一瞬、先に用件を済ませてしまおうと過ったが、やめておいた。あとでね と入れ違いでエレベーターに乗って別れた。暗くなった街に自転車で颯爽と駆けて行く姿が、ガラスの箱から見えた。
冷蔵庫の中身は、案の定鍋を作るには明らかに寂しすぎた。時計を見て、テーブルに置いたバッグを再び掴み、部屋を出る。返信は来ないだろうと予想はできたけれど、念のため「買い物行くね」 とメールを送った。前にやけにウケていた変な顔文字も、一緒につけておいた。
すっかり日の落ちた道を2分ほど歩いて、大通り沿いのスーパーマーケットに入る。いつ来ても冷房が強い店内は、時間のわりに人が多かったおかげで寒くはなかった。具材を選び、締めのうどんをかごに入れ、あとはノンアルコールのビールを数缶買った。少し考えて、果汁100パーセントのオレンジジュースも一緒にレジに持って行った。お気に召さなければ、自分で飲めばいいだけの話だ。
「ママあ」
買ったものをレジ袋に移していると、足元から声がした。私と目が合うと、その3、4歳くらいの男の子は 瞬きもせずに、口を開けたまま固まった。買い物かごがからっぽになっても、その子は売り物らしき絵本を大事そうに抱えたまま動こうとしなかった。バッグと買い物袋を持ち直ししゃがんで、その大きな瞳と目線を合わせる。
「迷子?」
ひと呼吸置いて、首が横に動く。
「ママは?」
もう一度、繰り返される。
「わからないの?」
ようやく、頭が縦に動いた。
「そういうのを迷子って言うのよ」
おいで と絵本を抱えていた手を引いて、近くのスタッフに声をかけた。バイトらしきその女の子は、上の者に確認してきます と、小走りでその場を離れた。残された私たちは、手を繋いだままお喋りをした。というよりも、私が一方的に話しかけた。
「いくつ?」
本を持ったままの小さな指が、3本伸ばされる。
「そう。私は教えないけどね。ヒミツ」
通じなかったらしく、目がぱちぱちと動く。
「名前なら教えてあげる。私はカオル。貴方は?」
10秒前とまったく同じように、目がしばたかれた。だけど今度は、その小さい口も一緒に動いた。
「おんなじ!」
かおる と、やっぱり本を持ったまま器用に自分を指さしながら、その子は言った。
「おんなじ、おんなじ」
「そうね、一緒ね」
思わず頬が緩む。小さいカオルくんも、目をぎゅっと瞑ってにっこりした。店内に流れていたお店の宣伝歌に混ざってカオルー と呼ぶ声が聞こえたのは、そのときだった。
「ママ!!」
繋いでいた手をすり抜けて走っていく背中に、小さい声でバイバイ と呟いて見送った。ママの姿が見える前に、バッグを肩にかけて明るい店をあとにした。
冷蔵庫にオレンジジュースを入れていたところで、ポケットの携帯が震えた。珍しく、シンちゃんからの返信だった。ショーケースの中に並んだケーキの画像と、『お土産買ってくね』の一言と、さっき送ったのと似た変な顔文字がついてきていた。
ふと、かごのついてない自転車で、どうやってお土産を持って来るのか心配になった。電話をかけようとして思い直し、そのまま携帯を閉じる。器用なあの子のことだから、なんとでもするのだろう。
買ってきた野菜を並べて、支度を始める。
柄にもなく、鼻唄が出てきた。
昼間の出来事を思い出さずにはいられなかったが、夢の断片みたいに、記憶の隅でぼやけているだけだった。
どうもです楪美です。
あとがきが思い浮かびませんが、一個だけ。
素敵な女性を目指して頑張る女の人は素敵です。
次回はシンちゃんの一大決心の話。
ありがとうございましたー!