Ⅱ-1,Moment
Eclipse-① Moment
久しぶりに、お酒を飲んだ。
この前マスターのおじさんが作ってくれたピーチオレンジ系のカクテルと同じ味だった。美味しくてすぐに飲んでしまい、もう一杯同じものを頼んだ。
19時のバータイムがオープンしてから、お客さんの出入りは少しずつ多くなって1時間後にはほぼ満席に近くなっていた。おじさんと晃斗さんは忙しく、でも手際よく動いていて、見ているだけでなんだか楽しかった。
オレンジジュースを飲んでいた銀髪の男の子は、シン という名前だけ紹介して、何も食べないですぐにお店を出ていった。作業の合間に話しかけてくれるおじさんとお喋りをしながら、さっきまでの疾走とは打って代わって、ゆっくりした時間を過ごした。
「はい、ブラックペッパーフォカッチャお待ち」
お勘定を気にしなくていいとは言われてはいたものの、生来の節約体質のおかげで選ぶメニューはいつも簡単につまめる料理だった。ランチタイムはパスタやフレンチトースト、ハンバーグのようないかにも喫茶店らしいメニューが中心だが、バータイムはその辺の居酒屋よりずっと凝ったメニューを出してくれる。聞くと、おじさんは外国を渡り歩いて料理修行をしていたこともあるらしい。味も量も計算されつくしたメニューはどれも美味しく、ワンコインでケチっても毎回充分お腹は満たされている。
いくらかお店の席が埋まって、料理の波も途切れた頃合いだった。おじさんは煙草をふかしながらまだ青い林檎を丸向きし、晃斗さんはこちらに背を向けて洗い物をしている。私は熱いままのフォカッチャをかじりながら、その背中を眺めていた。
淡いオレンジ色の照明の端っこで黒い影のようにたたずむ後ろ姿は、たまに振り返ってこちらを見る。多分、私じゃなくてお店の様子を見ていただけなのだが、私を含めてお客さんと目が合って、さらに何か話しかけられても、そのポーカーフェイスを崩さずほとんど喋らなかった。客商売なのに、と余計な心配が浮かんでくる一方、この二人の関係が読めず好奇心も一緒に湧いてくる。
顔のパーツの一つ一つが大きく目立つおじさんと全体的にシャープな晃斗さんに、血の繋がりがないことは見てわかる。似てると言えば、喋り方、と言うよりも怒鳴り方くらい。普段の口調はまさに動と静で対照的なのに、一度口喧嘩が始まれば、声質から舌の巻き方まで同じだから面白い。仲がいいのかはともかく、憎まれ口を叩きながらもちゃんと近い存在であるのは羨ましくも思う。いくら一緒にいたって、近づけない二人だっている。
そこで、まただ と自分で呆れた。
せっかく追い出したと思ったところで突然また現れたあの男の、絶対に止まることのない後ろ姿がちらつく。
急に目の前に出てきて、手招きしてくると思ったらまた消えて、の繰り返しばっかり。
昔からわからないままだ。
あの人は何を思っていて、何がしたかったんだろう。
考えてもわからないと気づいてから、考えるのをやめて、やっと楽になれはじめていたところだった。
なのに、また私のを支配して、縛ろうとする。
なんで、どうして、の無限ループばっかりだ。
くだらなくて、無謀で、馬鹿みたいだって、わかっている。
わかっているのに
「ルナちゃん」
呼ばれていたのに気付くのに、何秒かかかった。返事をしそこねたと思った時には、空間を切り裂くような音が高らかに響いていた。
向いた先には、あの男の子がいた。オレンジジュースを飲んでいた、銀髪の彼だ。
いつもはおじさんのアンティークコレクションが飾られている棚が黒いカーテンで隠れていて、その手前のスペースがフロアより一段高くなってステージのようになっていた。暗くなった店内に、一つだけいつもより明るい照明をスポットライト代わりにして立っている彼は、すごくセクシーだった。
彼がサックスを操って奏でていたのは、私でも知っている曲だった。いろんな人がカバーして演奏し、歌っているのを、テレビでも、ラジオでも、街中でも聞いたことがあった。
綺麗な景色と、空、人々のお喋りに触れ、素敵な世界を唄う曲。言葉もリズムもない、サックスのシンプルなメロディが綺麗だった。
耳にすっ と入ってくる旋律は、泥沼に沈みかけていた思考を塗り替えて、懐かしい思い出を呼び起こす。
閉じた瞼の裏に、緑色の並木と、高い空と、雨上がりの晴れた空にかかった虹が映る。
今でもはっきりと覚えている、柔らかくて、優しい声が蘇ってくる。
お酒を飲んだせいかもしれない。鼻の奥がツン と来たのを目を閉じたままでごまかしながら、音とアルコールに酔って過ごした。CDとも画面越しとも違う、うねって、翻って、流れていく音楽の魔法に浮かされて、ここじゃないどこかに揺られて運ばれていくみたいだった。演奏が終わってカウンターの椅子に引き戻されたあと、私は彼がカーテンの向こうに消えるまで拍手を止めなかった。
夢心地の中、彼がほどなくして私の隣に戻ってきたのは意外だった。何を話そうか考える間もなく、口が勝手に動いていた。
「すごく、綺麗だった」
男の子は少し間を空けて、ありがとう とにっこり笑った。そして、シュウさん とおじさんを呼び、またオレンジジュースを頼んだ。
「綺麗 って、なんか嬉しいな」
「それ以外に、思いつかなくて」
「うまい、とかいい、とかよりも感覚的で、ストレートに誉めてもらえた感じ」
「もっと上手に言えればいいんだけど、たぶん薄っぺらくなっちゃうから」
「充分だよ」
そう言ってまたにこっ とする。銀色の髪とユニセックスな顔立ち、それに少し抑え気味の穏やかな口調が、只者でない雰囲気を醸し出していた。芸能人みたいな派手さではなく、たとえば架空の、映画や小説の中にしか存在していないような、そんなミステリアスさが彼にはあった。
その割には、彼は話をするのが好きなようだった。初対面にも関わらず、私たちは喉を潤すのも忘れてひたすら喋り続けた。
銀髪の彼、シンちゃんは引き出しが多く、音楽や本の話から、私が学校で勉強している文化人類学のようなアカデミックな話、さらには新品のスマートフォンの設定まで、いろいろアドバイスをしながら一緒にやってくれた。
「せっかく機能がいっぱいあるんだから、試してみた方が面白いよ。いると思えば使えばいいし、いらないと思えば一回アンインストールして、また必要になればもう一回呼び出せばいい」
慣れた手つきでタッチパネルを操作するシンちゃんは、指先まで綺麗だった。
「難しく考えてイライラするより、ダメだったら次、それでもダメだったら、少し時間を置いてあげる。こいつは確かに頭はいいし便利だけど、万能じゃない。ちょっと一息置いてそこを理解してあげれば、きっと仲良くなれるよ」
「なんか、友達の作り方教わってるみたい」
「多分、友達を作るより簡単だよ。君がこいつを嫌いになっても、こいつは寿命の限り君を嫌いになることはない」
「そんな風に考えたことなかったな。携帯とかパソコンとか家電とか、どうも苦手意識持っちゃってて」
そこで、リュックの中でご臨終した、可哀想なノートパソコンのことを思い出した。リュックを漁る私をじっと見ていたシンちゃんは、現れたパソコンを見てへえ と声をあげる。
「随分クラシックだね。7、8年前くらいのモデルだ」
「中学のときに譲ってもらったから、ちょうどそのくらいだと思う」
「上手に使ってたんだね。これじゃあさすがにもう無理だけど」
「もともと人から譲ってもらったものだし、新しいやつ買おうかなって」
「特にメーカーとかのこだわりがなければ、僕の使い古しでよかったらあげるよ?」
ありがとう と流れで言ったあとで、言葉の意味を理解した。変な声が出てしまった。
「パソコンを?くれるの?」
「うん」
「でも、高級品だよ、パソコン」
「売っても3万円もいかないようなやつだよ。あ、でもちゃんと動くし、デザイン性もあるから」
「本当にいいの?」
「僕、近いうちに今の部屋から引っ越すんだ。荷物少ない方がいいし、業者に出すより、知ってる人に使って欲しいし」
そう言って、シンちゃんはちょっと腰を持ち上げて、ズボンの後ろポケットから手のひらサイズの端末を取り出した。最初はゲーム機かと思ったそれは、6インチ程度のディスプレイにキーボードがついた、れっきとしたパソコンだった。何年か前に世界最小PCと銘打ったCMを見たことはあったが、実物を目にするのは初めてだった。
「あった。このモデルだよ」
その小さいディスプレイ画面いっぱいに映ったノートパソコンは、これまた世界最軽量を唄って印象的だったテレビCMのおかげで見覚えがあった。最小、最軽量、最速、最短。目まぐるしく塗り替えられていく歴史を時間の流れと無縁でいられるこの場所で感じたのが、なんだか不思議だった。
「僕も知り合いからもらったんだけど、これで十分だからさ。気に入ってくれれば、使ってほしいな」
「とか言って変なモン仕込むんじゃねえぞ、シン」
冗談混じりに言ったのは、おじさんだった。綺麗なレモンイエローのシャーベットに、さっきまで向いていた林檎を添えたデザートを置いてくれる。
「気をつけなよ、ルナちゃん。こいつはその気になれば国際ハッカー集団も潰せちまうくらいのやり手だ」
「そうなの?」
「だったら、どうする?」
パソコンを閉じてにこっと笑ったシンちゃんは、実は世界を乗っとるような悪人だと言われても納得してしまうような空気を纏っていた。その綺麗な顔の裏側があったとしても、同じように綺麗なんだろうな と、なんとなく思った。
「なんてね。そんなたいしたことはできないよ。ただ好きなだけ。サックスとか自転車と同じようにね」
そう言って笑ったシンちゃんはやっぱり魅力的で、それからまた再開したお喋りの中でも、彼への興味は尽きることはなかった。すっかり楽しくなった私は次の日朝から講義があることなど忘れて、おじさんに出されるままに甘いお酒を飲んでいた。
肩を揺すられて顔をあげると、映ったのはシンちゃんではなく晃斗さんだった。しばらく焦点が合わずぼう っとしたあと、不意にはっ と目が覚め、思いっきり不自然に目を逸らしてしまう。
「よく寝るな」
呆れたように呟いて、晃斗さんはふうっ と煙を吐き出す。辺りは照明が落とされ、シンちゃんどころか、他のお客さんもおじさんもいなかった。
「何時?」
「12時半」
「おじさんは」
「どっか飲みに行った」
「晃斗さんは、なんで」
「後片付け押し付けられたんだよ。君を送って、終わり」
もたれていたカウンターから立ち上がった晃斗さんに倣って椅子から降りようとすると、頭と足元が妙にふわっとした。晃斗さんに手伝ってもらいながら帰り支度をすませ、お店を跡にして夜の新宿へと出ていく。
「なんでだろ。ノンアルコールって言ってたのに」
「ノンアルっつっても完全に度数がゼロな訳じゃない。0.00何パーかは入ってて、それをあれだけ飲めば酔いもするさ」
「へえー」
隣を歩く晃斗さんにたまにぶつかりながら浮き足で歩く帰り道はいつもよりゆっくりで、いつもより街の音が遠かった。
短い1日だった。パソコンと携帯を新しくして、追いかけっこで街中を走り回って、綺麗な音楽を楽しんで、シンちゃんとお喋りをして、眠って、そして今、こうして晃斗さんと並んで歩いている。いろいろなことが起こって、いろいろな出会いがあった1日は私の知らない間に終わってしまい、日付が変わってもこうして誰かがそばにいるのは、久しぶりだった。
「晃斗さん」
「ん?」
「聞かないの?」
「何を」
「夕方のこと」
「走ってきたことか」
「そう」
「聞いてほしいのか」
煙草の煙と一緒に呟いて、晃斗さんが足を止める。その横顔は見上げなければわからず、やっぱり大きいんだな と思う。
「訳あり、なんだな」
足の止まった私の一歩先を、晃斗さんは進む。
「いいんじゃねえの。追いかければ」
白く登った煙の行方を眺めがら、少し後ろから広い背中を追った。
「追いかけて、追いかけ続ければいい」
「追い付けなくても?何回もバカみたいに転んでも?」
「背中すら見えなくなるよりマシだろ」
歩調を合わせてくれた彼と、再び並んだ。
「君は、走れるんだからさ」
ふう っとまた長く息を吐いて、晃斗さんは吸い殻をシガーケースにしまった。視線が合うと、やっぱり少しだけ目を細めて笑う。そしてやっぱり、笑い返そうとする前に、ふいっと目を背けてしまう。代わりに、私が声を出して笑っておく。
「ありがとう」
「なにが?」
「慰めてくれたんじゃないの?」
「結果的にそうなったんなら」
「何それ」
それからはまた、私の気紛れな話題を、晃斗さんは静かに聞いていてくれた。晃斗さんが言ってくれたことは覚えているのに、自分が何を喋ったかは忘れてしまった。ついでに、別れ際のことも、どうやってマンションの部屋に着いたのかも、覚えていなかった。
真っ暗にほど近い闇の中で、手探りで電話をたぐり寄せた。
見慣れない平坦な画面に指を滑らせ、コール音を聞こうと耳にあてる。
長い繰り返しが、耳から反対の耳に突き抜けていく。
早く。
はやく
「どうした」
電話越しの声はいつもと少し違って、なんだかすごく近く感じた。
「ごめんね」
意味なんてなかった。ただ、伝えたかった。
「ごめんね」
「眠れないのか」
頷いた後で、返事をしないとわかるはずがないことに気付く。
「あんだけ寝りゃあな」
「一個、どうしても言いたくて」
どうした と、電話の向うの、低くて優しい声が言う。
わかっていた。私は、どうかしていた。
「本当は、聞いてほしい」
「うん」
「でも、今は言えない」
「いいよ」
「どうしようもなく話したくなったら、話していい?」
「ああ」
「ずーっと先かもしれない」
「うん」
「明日かもしれないよ」
「いいって」
「なんで」
「なんでだろうな」
「酔ってるから?」
「…かもな」
「そっか」
そこから何を話したのかは、やっぱり覚えていない。
たぶん、何でもよかった。
ただ、晃斗さんと、ちゃんと話をしたかった。
シンちゃんとしたように。
昔、あの人と喋ったように。
波のような眠りに揺れる中、おやすみ を聞いたのだけは覚えていた。
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後書き どうも。2か月ぶりですが更新できました、楪美です。
アクションに続き、よせばいいのに文字であらわすのが難しい音楽を取り上げてみて打ちのめされました。だって書きたかったんだもの。サックスかっこいいじゃん!
社会人になって早(?)三か月。
それなりに心境の変化的なこともあったりしてちょびっとではあっても
そういうのが作品に現れてるような気がしないでもないです。
あとで読み返してうわあ ってなればいいと思うよ自分^O^
相変わらず時間は日々作り出さないと生み出せませんが、
決してできないわけじゃないのでちんまりちんまりですが
続けていきたいと思います。
次回は女の子を返した後の、ヤロウ共の夜のお話。
ありがとうございました!!