Prologue①-Akito
prologue①―Akito
目を開けると、暗闇だった。
手探りで寄せた枕もとの携帯電話のディスプレイはAM3:40。ベッドに入ってからまだ一時間も経っていない。うんざりして、俺は髪を掻き毟った。
寝付けないのではなかった。いつものように調べ物をしている最中に襲ってきた睡魔に勝てず、そのままベッドに潜りこんだところまでは覚えていた。だが、その後は記憶が途切れている。
夢を、見ていた。
後味の悪い夢であったような気はするものの、思い出せない。夢を見ること自体、ずいぶんご無沙汰だった。
ただ、急に目が覚めた。
突然浮かんでいた水底から引きずり出されるように、何の前触れもなく、だ。おかげで再び目を閉じてみても眠気はまったく感じない。それまで横になっていた気だるさや動き辛さもなかった。身体中の神経が覚醒している、そんな感じだった。
もう寝付けない。悟って、俺はベッドから降り部屋を出た。
外の空気にはまだ夏の余韻があるものの、頬を撫でるのはひんやりとした夜の風だった。
非常階段の欄干に身を預けながら、煙草に火を付ける。一泊六千円のビジネスホテルには、バルコニーなんてしゃれたものはついていない。狭苦しい八畳間では解放感もあったものではなく、こうして外気に触れるにはもってこいの場所だった。
静かに灯る煙草をゆっくり吸い込み、肺から脳へ駆け巡り、煙となって出ていくニコチンを味わう。ここ最近日中は気を休める余裕などないに等しく、満足に一服することもままならなかった。今度の仕事はそう難しくないのが幸運だったが、パソコンに向かってキーボードを叩くだけの頭脳労働であってもやはりエネルギーは削がれるものだ。休めるうちに休んでおくに限る。
先刻やっとのことで終わらせた仕事は三日連続徹夜で、さすがに堪えるものだった。もっとも、あの切羽詰った状況で眠っていられるような図太い神経の持ち主がいたらぜひともお目にかかりたい。ただし、一瞬でも気を抜けば最期。今頃六本木の路地裏で野たれ死んでいるだろう。
一つの仕事を終えるそのたびに、封じ込めていた様々なものが一気に舞い戻ってくる瞬間がある。それは空腹感や眠気のような生理的な感覚や、その日の天気予報、読み途中の本の内容などの他愛もない日常の出来事、そして記憶。
封じておいた何もかもが脳に甦るその感覚だけが、教えてくれるのだった。
まだ、忘れていない。
まだ、生きている、と。
アルミ製の冷たい柵に手を掛けて夜空を仰ぐと、藍色の雲が切れて西に傾きかけた月が姿を現した。丑三つ時にもかかわらず、ネオンとヘッドライトに染まった街がさらに明るさを増す。
咥えたままの煙草の煙を吐き出すと、その紫煙は煌々とした満月へと昇っていき、そして夜空に消える。その揺らめきと淡い月光は、手を伸ばすまでもなく微かに揺れた空気だけを残した。
――Everything is in a frow.
変わらないものなんてないんだ、晃斗。
「あの人」が遺した言葉。
ヘッドライトの帯も、月にかかる雲も、一切の干渉を受けることのない時の流れさえも、止まることなく変わりゆく。
自分自身、あれから時の流れに逆らうことなく、日々を過ごし生きてきたと思う。広く、深く、そして暗いこの世界を自分の目で見て、鍛えられ、経験も重ねた。今こうして自分の脳に言い聞かせているのが、何よりの証拠だ。
変わった。強くなった。あのころとは違う
右腕の刻印を握り締める。手のひらが、微かな脈動を感じとる。
だけど、わかっている
過去だけは、決して変わりはしない
たとえ自らがどれだけ変わろうとも、犯した過ちや忌まわしい記憶が消えることも、失ったものが還ってくることもない。それはこの先何があろうとも受け入れ、悔やみ、償い続けなければならない罰であり、背を向けることは許されない。
あの鈍色に光る刃を握った瞬間に覚悟した。
あの人がもう戻ってくることはないと知った日に決めた。
闇の中で、生き続ける
「…!熱…っ」
間の抜けた声とともに我に返る。
いつの間にか煙草は短く縮んでおり、大半がすでに灰と化してしまっていた。いつも持ち歩いているステンレスのシガーケースに吸殻を入れ、ポケットの中でもみくちゃになっているマルボロのケースを引っ張りだす
「空かよ」
独り言とともに、箱は乾いた音を立てて手の中でつぶれる。ごみ箱などある訳がない。仕方なくそのままポケットに突っ込みながらも、目線は広がるライトの海に留まったままだった。
人間の手が造りだしたモノだとわかっていても、手を伸ばせば届きそうな距離にそびえる高層ビル群や、街を縦横に走るハイウェイに散りばめられた灯りの数々は、やはり壮観だった。まぶしいほどの夜景というのもなかなか悪くはない。肌に纏わる夜風とともに、目映く彩られた大都会を眺めていた。
突然、ふっと明りが途切れた。
見上げると先刻まで浮いていた月は雲に覆われており、その姿は見えなくなっている。町は相変わらず光が敷き詰められていたが、目の前にフィルターがかかったような味気なさに覆われた。
瞬間、空気が張りつめる。
反射的に、一度だけ深呼吸をした。酸素を全身の神経に行き渡らせ、意識を張り巡らせる。
が、程なくしてふっと息を吐いた。
「おまえか」
「ご無沙汰だね、晃斗」
緊張させていた糸を緩め、再び手摺りに背をもたせかける。階下の踊り場にあったのは、ワイシャツをルーズに着こなした銀髪の男の姿だった。
「一瞬誰だかわかんなかったよ」
「ひどいなあ。殺気丸出しで殺されるかと思ったよ」
満面の笑みで軽口を叩くそいつは、いとも自然に俺の隣に並ぶ。
「仕事か?」
「副業の方のね。そしたら君が動いてるって情報をキャッチして。すごい大仕事だったみたいだね」
「やっぱ流れちまってたか」
「何故か国外逃亡して、シカゴに飛んだってことになってたけど」
軽く笑い飛ばす奴に、そうか、と頷いておく。
「そっちはどうだ」
「この一週間だけでコード4が3件。本部に目つけられるのも時間の問題じゃない?」
「じゃなくて」
組織のことを答えた奴を、俺は遮る。
「お前のこと聞いたつもりだったんだけどな」
責める気はなかったのだが、自分が出した声の温度は下がっていた。気まずい空気が流れる。
「俺はもうあそこの人間じゃない。いまさら何とも思わねえよ」
本心だった。三年前にあとにしてから、あの閉ざされた空間に戻りたいと思ったことはただの一度もない。
無言になった踊り場を、風が擦り抜けていく。重くなった空気に負けて、ポケットを探った。ひしゃげた箱が指に触れ、煙草を切らしていたのを思い出す。
「なあシン、煙草」
「ないよ」
「だよな」
言い終わる前に、シンは苦笑とともに吐き捨てる。俺も苦笑いで応える。そして、どちらからともなく、声を上げて笑った。
奴も、変わらない
「で?こんな時間に何の用だ」
欄干に背中から持たれかかるようにして、空を見上げる奴に尋ねる。
「あれ、今何時?」
「4時くらい。おまえ相変わらず時計持ってねえのか」
「別にいらないし」
「携帯は」
「あー、電源切ったままだ」
そう言ってポケットから取出したそれは、最新型のスマートフォンだった。こういうところはしっかりしているのも含めて、相変わらず
「本当、適当だな」
「ありがと」
カンに触る笑みとともに、奴は空から俺に視線を移す。
断じて誉めたつもりはない。だが俺が指摘する前に、シンの声は真剣なものになった
「晃斗に知らせておきたいことがあるんだ。個人的に」
その目は、すでに業務モードだった。それを正面から捉え、奴を見据える。
「今、ここからすぐのホテルに、ある大物が滞在してるんだけど」
「ホテル・グラン赤坂、最上階2803室、だろ?」
「なんだ、知ってたんだ」
「まあな」
俺の先回りにも驚くことなく笑みすら浮かべながら、シンは一段と声を潜める。
「その大物が明日、正確には今日、狙われるっていう情報が入ってきた」
「“4”の標的になったのか」
あえて“コード”を使って尋ね返すと、シンは無言のまま頷く。舌打ちしたくなるのを抑え、続けてくれ、と先を促した。
「僕の仕事とは関係なかったんだけど、たまたま浮かび上がってきてさ」
「あの黒羽征成が、か」
国内屈指の高級ホテルの最上階に滞在している人物、黒羽征成は、世界的にもトップレベルの総合電機メーカー「ウィング」の会長にして国内で五本の指に入る名家、黒羽家の現当主である。だが裏社会においては、もう一つの肩書きのほうが有名だった。
アメリカ中央情報局、CIA唯一の日本人次官。
そんな大物が暗殺されたともなれば、世界中に激震が走る。裏社会のバランスが崩れるばかりか、政治的、経済的にも大打撃は必至だ。
「でかい恨み買うような真似したのか、アメリカに喧嘩売ろうとしてるバカがいるのか」
「どっちもありそうだけど、バックまではわかってない。実行役はジャックが雇われてるらしい。黒羽って言うと最近色んな話聞きくからさ」
「気をつけるに越したことはない、だろ?」
余裕に聞こえるように、俺は言った。シンは溜息を吐きながら笑い、続ける。
「標的の黒羽会長は多分関係者も一緒に行動してる。巻き込まれたら厄介なことになるだろうね」
「俺が用あったのは、あそこのホテルのメインコンピューターだけだ。上の階が創立記念だろうが誕生会だろうが、どうでもいい」
「やっぱり、そこまでわかっててだったんだ」
独り言のように、シンは小さく呟いた。
「おまえだって、わかってたうえで来たんだろうが」
「晃斗の居場所を突き止めるのが一番時間かかったよ」
「そりゃどうも」
苦笑いするシンに、俺も苦笑で応えた。こちらは極秘任務を遂行したばかりの身、ちょっとやそっとで居場所が割れてしまったら堪ったものではない。
「君にかかればホテルのコンピューターのハッキングと証拠隠滅くらいなら余裕だろうけど、赤坂本部も動くっていう話だ。まあせいぜい巻き込まれないように、って心配してきてみたんだ」
「暇つぶしの間違いだろ」
あはは、と声を上げてシンは笑う。否定しないところが奴らしい。
「君の動向が気になったのは本当だよ。こっちの仕事に支障が出たら困るし」
「まず自分のこと考えた方がいいんじゃねえの。総本部にまで情報が行ったら、どうするつもりだ」
「僕が個人的に接触しても問題はないよ」
「お気楽だな。いつおまえの寝首かくことになるかもわかんねえぞ」
今はジャックなんだから。と、そう続けた。
先のことなどわからない。ただその日その日を生きていくのみだ。
いつかすべてが終わる、その時まで
「もう行け、シン」
「えー、もう?」
「下手に動いて余計なリスク冒すな。鉄則だろ」
たたみかけるように言うと、シンははいはい、と二つ返事で応えた。寄り掛かっていた柵から身体を離し、ぐっと伸びをする。やがてふうっと小さく息を吐くと、こちらを見ることなく背を向けた。
「じゃあ、お邪魔様」
軽く手を上げて去ろうとする後姿を、俺はシン、と呼び止める。
「近いうち、店に顔出しにこい」
やけにゆっくりと、奴は振り向く。目が笑っていない。
「トマトと水菜のパスタと緑黄色野菜スープ、コーヒーゼリーつき。あと100パーのオレンジジュースね」
「了解」
一番高いセットメニューをすらすらと告げたシンは満足そうに頷き、足音とともに階下へ消えていった。その後ろ姿を見送らず、俺は非常階段から廊下に通じるドアをくぐった。
無償に煙草が欲しかった。
部屋に戻り、パソコンと少ない荷物をアタッシュケースに詰め込んで、その脚でチェックアウトをしてホテルを跡にした。フロント係は一瞬不審そうな目で俺を見たが、またのご利用を、とにこやかに礼をした。背を向けた直後にエントランスのガラス越しに映った大あくびは、その勤勉さに免じ見なかったことにした。
傍にあった自販機で煙草を買い、すぐに封を切り火を付けた。紫煙を吐き出しながら、遥か彼方にある高層ビル郡を目指し、歩く。
やるべきことは決まっている
過去は変わらない
罪は消えない
失った命は、還ってこない
俺の手で、断ち切ってやる
なかったことにできないならば、その息の根を止めて、深く深く葬ってやる
その痛みを背負うのは、俺ひとりで充分だ
満月は、西の空へ沈もうとしていた。
next
初めまして、楪美と申します。
お目通しいただきありがとうございました!
読んでいただけて、むしろページを開いていただけただけで感激です。
一番最初のプロローグなのでなんのこっちゃ?って要素が多すぎると思いますが、あとあと少しずつ暴いていきますので、気長にお付き合いいただけたらと思います^^