第九話:雨上がりの残影
第九話:雨上がりの残影
凪が席に戻った後も、教室の静寂はしばらく続いた。
担任が入ってきて授業が始まっても、澱んだ空気はクラスの端々に沈殿している。けれど、蒼真に向けられていた刃のような視線は、凪が放った冷徹な一言によって、その矛先を失っていた。
休み時間。
いつもなら群れて騒ぐ連中も、凪の存在を意識してか、蒼真の周りに見えない壁があるかのように遠巻きにしている。蒼真は、礼を言う機会もないまま、ただ淡々とノートを整理し、放課後のチャイムを待った。
★
放課後。
蒼真は、校舎裏の非常階段にいた。
錆びた鉄の踊り場に立ち、初夏の湿った風に吹かれていると、背後のドアが静かに開いた。
「……余計なことをしたな」
振り返らずに蒼真が言う。足音で、それが誰かは分かっていた。
「お前まで、変な目で見られる。せっかく築いた『女神』の城壁が台無しだ」
「……お礼を言われる筋合いはないわ」
凪が隣に並び、手すりに細い指をかける。
「私は、私自身の不快を排除しただけ。根拠のない噂を事実のように語るあいつらの声が、耳障りだった。それだけよ」
凪の横顔は、相変わらず完璧な陶器のように美しかった。
けれど、その指先がわずかに強張っているのを、蒼真は見逃さなかった。彼女もまた、戦っているのだ。自分を切り捨てた「過去」と。
「……土曜日、空いてるか」
蒼真の言葉に、凪が驚いたようにこちらを見た。
「この街の、誰もいない場所を教えてやる。学校でも、……お前の家でもない場所だ」
凪は一瞬、迷うように視線を落としたが、やがて小さく、消え入りそうな声で答えた。
「……ええ。いいわよ」
★
その夜。
凪は自分の部屋の、清潔すぎるベッドに横たわっていた。窓の外。道路を挟んだ向かい側にある、あのアパートの角部屋を見つめる。
点いたり、消えたりする、小さな光。
名前も、顔も知らない「あの人」の部屋。
(……七瀬くん。あなたも今、どこかでああやって独りでいるの?)
そんな考えが頭をよぎり、凪はすぐにそれを振り払った。
ふと、枕元に置いたスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、長い間、見るだけで心臓が冷える「父」の文字だった。
『来月の末、一度こちらへ戻りなさい。予定している件の確認がある。……これ以上、私を失望させないでくれ』
短い事務的な言葉。けれどそこには、凪という存在を、自分たちの都合の良い「作品」に修正しようとする、冷徹な意志が透けて見えた。
凪はスマホを伏せ、深く、長い溜息を吐いた。
――土曜日。せめてその時だけは、自分が何者であるかを忘れてもいいだろうか。
窓の向こうで輝く小さな光が、今は少しだけ、昨日より近い。




