第八話:構造の軋み
第八話:構造の軋み
教室の空気は、一度濁り始めると容易には元に戻らない。
登校して席に着いた瞬間、蒼真は自分の机の端に、油性マジックで小さく書かれた『消えろ』の文字を見つけた。
蒼真は、それを特に気にする様子もなく、カバンから取り出した消しゴムで淡々とこすり始めた。
怒りも、悲しみも湧いてこない。ただ「ああ、またこれか」という、ひどく冷めた既視感があるだけだ。
周囲の視線は、昨日までの熱を帯びた好奇心から、汚物を避けるような、それでいてどこか優越感の混じった冷ややかなものへと変わっている。
誰も俺に話しかけないし、俺も誰とも目を合わせない。
慣れている。この「静かな排除」こそが、俺が知っている世界の本来の姿だ。
教科書を開き、ノートを取るためにシャーペンを握る。
その指先が、ほんのわずかに、自分でも気づかない程度に震えていた。
★
凪は、その光景を自分の席から静かに見つめていた。
耳に入ってくるのは、休み時間の無責任な囁き声だ。
「信じられないよね。女神様をあんな風に連れ出すなんて、下心が透けて見えるっていうか」
「証拠不十分って、要はやってるってことでしょ?」
正義の側に立っていると信じて疑わない者たちの、無自覚な暴力。
凪の胸の奥で、何かが軋む音を立てた。
彼女が憤っているのは、その光景が、ひどく見覚えのあるものに思えた。
目の前で起きているこの「構造」――誰かを一箇所に追い込み、事実かどうかも分からないレッテルを貼り、全員で踏みつけるこの光景が、かつて自分を「息子」の座から引きずり下ろし、「怪物」へと変えたあの家庭内の断絶と、あまりにも似ていたからだ。
予鈴が鳴る直前、蒼真の後ろの席に座る男子生徒が、わざとらしく椅子を引いて言った。
「なあ、七瀬。お前、本当はあの日もスマホ持って……」
その言葉が終わるより先に、凪が立ち上がった。
椅子が床を鳴らす音は小さかったが、教室内を支配していた雑音は、その一動作で一瞬にして霧散した。
凪は、騒ぎ立てることも、声を荒らげることもなかった。
ただ、いつもの冷徹なまでの美しさを纏ったまま、迷いのない足取りで男子生徒の前に立った。
「……その話、証拠はあるの?」
凪の声は、驚くほど低く、透き通っていた。まるで冬の池の底に沈んだ氷のように。
「え、いや、ネットとか噂で……」
「それをここでやるのは、あまりに醜いわ」
凪の視線が、男子生徒を通り越して教室全体を射抜く。
誰も目を合わせられない。彼女が突きつけているのは、感情論ではなく、あまりにも真っ当な正論だった。
「無責任な憶測で誰かを断罪するのは、自尊心を埋めるための娯楽としては最高かもしれないけれど。それをここでやるのは、あまりに醜いわ」
凪は一度言葉を切り、今度は蒼真の背中を見つめて、一言だけ付け加えた。
「私は、昨日この人に助けられました。私に見えているのは、それだけよ」
教室内を、重苦しい静寂が満たす。
凪はそのまま、優雅ささえ感じさせる動作で自分の席に戻り、再び本を開いた。
蒼真は、前を向いたまま動かなかった。
机の下で、震えていた指先が、今度は別の理由で震えは、いつの間にか止まっていた。




