第六話:決壊
第六話:決壊
その日は、朝から容赦のない日差しが照りつけていた。
校舎の裏側にあるプールの水面が、鏡のように光を反射して、残酷なほど眩しく揺れている。
一限目のチャイムが鳴る。
女子更衣室の前には、色とりどりのバスタオルを抱えた女子たちの列ができていた。その末尾で、凪は幽霊のように青ざめた顔で立ち尽くしている。
指先は、指定のスクールバッグの持ち手を白くなるほど強く握りしめていた。
「ねえ、凪さん。早く入って着替えようよ」
一人の女子が、励ますような、それでいて断らせないような明るい声で彼女の肩に手を置く。
「先生も言ってたでしょ? 今日やらないと欠席扱いになっちゃうよ。みんな一緒なんだから、怖くないって」
その「みんな一緒」という言葉が、凪には死刑宣告のように響いたはずだ。
周囲の視線が、次第に「心配」から、理解不能なものへの「苛立ち」を帯びたものへと変わっていく。
「……無理。……できない」
ようやく絞り出した声は、喧騒にかき消されそうになるほど細かった。
「そんなこと言わないでさ。ほら、行こう?」
数人の手が、凪の背中を強引に更衣室の内側へと押し込もうとした、その時だった。
「――どけよ」
低く、地を這うような声が廊下に響いた。
女子たちが驚いて振り返る。そこには、自分のバッグを肩にかけ、鋭い眼光を放つ蒼真が立っていた。
「七瀬くん? ここ、女子更衣室の前だよ。男子が入ってきちゃダメでしょ」
「うるせえ。その手を離せって言ってんだ」
蒼真は周囲の困惑も、後に待っているはずの処罰も、すべてを思考の外に放り投げていた。
彼は凪の元へ歩み寄ると、震える彼女の手を、力強く、しかし壊れ物を扱うような優しさで掴み取った。
「ななせ……君……?」
「行くぞ、凪」
蒼真は凪の手を引いて、プールとは逆方向、校舎の奥へと歩き出した。
背後で女子たちが叫び、異変に気づいた体育教師の声が聞こえたが、蒼真は一度も振り返らなかった。
二人が辿り着いたのは、旧校舎の隅にある、今は物置同然になっている空き教室だった。
重い引き戸を閉め、内側から鍵をかける。
埃の舞う静寂が、外の世界の喧騒を一瞬で遮断した。
凪は、教室の隅に崩れ落ちるように座り込んだ。
制服のまま、膝を抱えて激しく震えている。窓から差し込む六月の光が、彼女の白すぎる肌を容赦なく照らしていた。
「……どうして」
凪が、消え入りそうな声で呟いた。
「どうして、あんなことしたの。こんなことしても、何も変わらないのに。……私は、来週も、その次も、あの場所へ連れて行かれる。……逃げ場なんて、ないのよ」
「知るかよ。来週のことは、来週の俺が考える」
蒼真は古い机に腰掛け、ぶっきらぼうに答えた。
「……アイツら、お前を無理やり引きずり込もうとしてた。俺には、あのまま連れてかれたら、戻ってこねえ気がした。だから、連れてきた。それだけだ」
凪は、嗚咽を堪えるように口元を抑えた。
今まで張り詰めていた「女神」の城壁が、静寂の中でゆっくりと剥がれ落ちていく。
「……見られたくないの。知られたくないのよ」
彼女の指が、制服の上から、自分の腕を自傷するように強く掴む。
「私は、みんなとは違う。……正しくないの。こんな姿、誰にも見せられるわけない……っ」
涙混じりの、断片的な告白。
蒼真は、その震える肩を抱き寄せることはしなかった。
ただ、彼女の隣に座り、埃の積もった床を見つめたまま、静かに告げた。
「正しいとか、正しくないとか。そんなのどうでもいいだろ」
蒼真の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「俺だって、親に犯罪者扱いされて捨てられた『正しくない』奴だ。……凪。お前が何に怯えてるのかは知らない。けど、震えてるくせに、消えねえで踏ん張ってるお前の方が、よっぽどまともだろ」
遠くで、体育の授業のホイッスルが鳴るのが聞こえた。
社会のルールから、学校の公平から、ほんの少しだけはみ出した、埃っぽい空き教室。
ホイッスルの音が遠ざかる。凪の震えが、ほんの少しだけ弱まった。




