第五話:無音の境界
第五話:無音の境界
六月。湿り気を帯びた空気が校舎にまとわりつき、衣替えを終えた白いシャツが教室に並ぶ。
この季節の到来を告げるのは、掲示板に貼り出された『水泳実習のお知らせ』だった。
「――いいか。体調不良以外の見学は、原則認めない」
体育教師の言葉は、事務的で、それゆえに反論を許さない響きがあった。彼は決して悪人ではない。ただ、教育という名の「公平」を全うしようとしているだけだった。
その「公平」という正義が、凪を静かに追い詰めていく。
「ねえ、凪さん、また見学の相談してるみたいだよ」
「入学してから体育、ほとんどまともに出てなくない? ズルくない?」
「女神様は、日焼けしたくないのかもね。私たちとは、住む世界が違うってことかな」
女子たちの囁きは、明確な悪意ではない。自分たちも我慢しているのだから、あなたも我慢すべきだという、ごくありふれた正義感。
だが、四月の入学以来、頑なに「肌」を隠し、集団から距離を置く凪に向けられた違和感は、この「プール」という決定的な行事を前に、確かな反発へと変わりつつあった。
蒼真は、席に座ったまま動かない凪の後ろ姿を見ていた。
彼女は反論しない。言い訳もしない。ただ、彫刻のように静かに座っている。
けれど、その背中からは、今まで感じたことのない「無」の気配が漂っていた。
(あいつ……今にも、消えちまいそうだ)
放課後。
蒼真は、静まり返った図書室の隅に彼女を見つけた。
開かれた本は一頁も進んでいない。彼女はただ、窓から差し込む夕日を、焦点の合わない瞳で見つめていた。
「……そんなにまでして、ここにいなきゃいけないのか」
蒼真の問いに、凪はゆっくりと顔を上げた。
「いなきゃいけないの」
感情を押し殺した、掠れた声。
「ここを失ったら、私は本当に、何もなくなる。……私の居場所は、もう世界中のどこにも、残っていないから」
「逃げればいいだろ」とは言えなかった。蒼真自身、家から逃げ出した結果、この「どこにも繋がっていない場所」に辿り着いた人間だ。逃げた先に、楽園なんてないことを知っている。
「……無理はするな」
それだけを言って、蒼真は図書室を後にした。
だが、階段を降りる途中、保健室の前で彼は立ち止まる。
廊下の影で、凪が震える手で何かを口に含んでいた。
小さな錠剤を、指先で確かめるように見つめる。
それを、慣れた動作で口に含んだ。
更衣室の前を通り過ぎる時、彼女が一瞬だけ見せた、汚物でも見るような怯えた視線。
蒼真の胸の奥で、断片的な違和感が形を成し始める。
(あいつは……見られることを怖がっているんじゃない)
何かを。
自分の内側にある、何かを。取り返しのつかない何かを、壊してしまうことを怖がっている。
翌朝、蒼真は職員室へ向かった。
「先生、凪の……アイツの水泳見学、認めてやってくれませんか」
体育教師は、眼鏡の奥で困惑したように蒼真を見て、ため息をついた。
「七瀬。お前の気持ちはわかるが、特別扱いは他の生徒の手前、できない。理由があるなら本人が言うべきだし、診断書も出ていないんだぞ」
「それは……」
「お前も、自分のことを考えろ。余計な騒ぎを起こせば、お前の立場も危うくなるんだぞ」
教師の正論に、蒼真は二の句が継げなかった。
自分はそれでも。それでも、引くわけにはいかないと思った。彼女を否定する「正義」を覆すための武器を、今の自分は何一つ持っていなかったとしても。
職員室を出た蒼真の視線の先で、凪が一人、プールサイドを掃除するクラスメイトたちを遠くから見つめていた。
その瞳に宿っているのは、怒りでも悲しみでもなく。
ただ、この世界から自分がゆっくりとはみ出していくのを受け入れているような、深い静寂だった。




