第四話:境界のあわい
第四話:境界のあわい
五月の風は、残酷なほど爽やかだった。
窓を開ければ花の香りが混じった新しい季節の匂いがするが、俺にとっては、この街に来て初めての夏が近づいているという、ただの予報に過ぎなかった。
学校での俺たちの距離は、平行線のままだった。
いや、正確には「触れてはいけないもの」同士が、互いの領分を侵さないように守り合っている、奇妙な均衡状態。
「七瀬くん、また……あっち見てる」
クラスの女子がひそひそと囁く。
俺が視線を送る先には、いつだって彼女――凪がいた。
彼女は休み時間も席を立たず、完璧な姿勢で読書をしているか、遠くの景色を見つめている。誰とも交わらず、誰の手も借りない。その姿は、周囲の喧騒を無効化するほどに静かだった。
ある日の体育。
男子がグラウンドで汗を流す中、見学の俺は、日陰のベンチに座る彼女の横顔を遠くから眺めていた。
気温は二十五度を優に超えている。それなのに、彼女は今日も長袖の体操服のファスナーを一番上まで上げ、首元の皮膚すら見せないように徹底していた。
(……苦しくないのかよ)
俺は立ち上がり、自動販売機で買った冷たいスポーツドリンクを二本、手に持った。
あきらめが悪いのは、俺の数少ない特技だ。
周囲の「関わるな」という無言の警告を無視して、俺は彼女の隣に腰を下ろした。
「……何の用?」
凪が、本から目を上げずに言った。その声は冷たく、拒絶の色に染まっている。
「別に。余ったから、やるよ」
キンキンに冷えたボトルを差し出す。彼女は一瞬、それを凝視したが、手を出そうとはしなかった。
「いらないわ。……私に構わないでって、言ったはずよ」
「構ってるわけじゃない。俺が、独りで飲むのが嫌なだけだ」
「嘘ね」
彼女がようやく、俺を真っ向から見据えた。
「あなた、他人を見る目をしてないわ」
「……何だそれ」
「見てるふりをしてるだけ。自分の内側の泥沼から、外を覗き込んでるだけじゃない」
心臓を、鋭い針で突かれたような気がした。
俺の過去を、誰にも信じてもらえなかったあの絶望を、彼女は正確に言い当ててくる。
「……だったら、ちょうどいいだろ。同じ沼に浸かってる奴同士、隣に座るくらいは」
「……不愉快だわ」
凪はそう言い捨てて立ち上がろうとした。その時、彼女のポケットから一枚の紙切れが滑り落ちる。
それは、何度も折り畳まれた跡がある、古びた写真の切り抜きだった。
拾おうとした俺の手を、彼女が激しく叩いた。
「触らないで!」
悲鳴に近い声。
剥き出しになったのは、女神の仮面ではなく、大切な宝物を奪われそうになった幼い子供のような、必死の形相だった。
彼女は震える手でそれを回収し、胸元にギュッと抱え込むようにして、逃げるようにその場を去っていった。
一瞬だけ見えた。
そこに写っていたのは、逞しい誰かの背中だった。
それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。
(あれは……帰りたかった場所、か)
彼女の独白が、俺の脳裏でリフレインする。
彼女が今でも愛し、そして自分を裏切った身体のせいで二度と戻れなくなった「場所」の象徴。
俺は残されたぬるいドリンクを一口飲み、空を仰いだ。
拒絶されればされるほど、あいつを独りにしておけないという思いが、疼きとなって背中を急かす。
帰り道。
俺はいつものように、寂れた商店街を通り、自分の安アパートへと戻る。
階段を上り、鍵を開けようとして、ふと道路を挟んだ向かい側のマンションに目をやった。
高い場所にあるあの一室。最近、あの窓の明かりが点くタイミングが、俺の帰宅と重なっていることに気づき始めていた。
「……まさかな」
俺は自嘲気味に笑い、部屋に入った。
向かい側で、同じように孤独な夜を迎えようとしている「誰か」が、まさかあの女神様だとは、この時の俺はまだ、夢にも思っていなかった。




