第三話:鏡の中の怪物
第三話:鏡の中の怪物
息子になるはずだった。
父の弾けるような笑顔と、母の安堵したような溜息。私は、あの人たちの「期待」という名の揺り籠の中で、正しく育つはずだった。
狂い始めたのは、小学校の高学年。身体が、私の意志を無視して勝手に形を変え始めたあの日からだ。
膨らみ始めた胸。丸みを帯びる腰。
父の目は、慈しみから、理解不能な「異物」を見る困惑へと変わった。
母の目は、哀れみから、自分を責めるような絶望へと変わった。
鏡の中にいるのは、誰だ。
誰も望まなかった形。誰も愛してくれない器。
私は――どこで、正しくなれなかった。
★
入学式から数日が経ち、クラスという名の群れの中で、誰よりも遠い場所に立っているのが、彼女――凪だった。
男子たちは、遠くから神域を拝むように、うっとりと彼女を眺めている。
女子たちは、言葉にできない嫉妬と、近寄りがたい完璧さへの警戒心を、薄く塗り固めた笑みの下に隠している。
彼女は常に礼儀正しく、誰に対しても等距離の微笑みを返していた。
けれど、その微笑みは、それ以上の一歩を決して許さない鋼鉄の城壁でもあった。
――完璧すぎるんだよ。
教室の一番後ろ、窓際の席で、蒼真は思う。
傷一つない白磁の肌も、凛とした立ち居振る舞いも。それは彼女の意志というより、自分を守るための、あるいは自分を隠すための「武装」のように見えた。
俺が気づいた違和感は、他にもあった。
四月の下旬、少しずつ汗ばむ陽気になっても、彼女は頑なに長袖の指定体操服を着通していた。スカートの下には、常に厚手の黒いタイツ。体育の授業は、常に「体調不良」として見学に回る。
女子たちの密室であるはずの更衣室に、彼女が足を踏み入れることは一度もなかった。
(視線を嫌ってる……? いや、違う。何かを、守ってるんだ)
あるいは、嫌悪しているのかもしれない。自分の形を、他人の目に晒すことを。
放課後。俺はいつものように、誰とも群れずに校門を出た。
商店街の喧騒を抜け、人通りの少ない路地の先にある、古びた安アパートへ。
錆びた鉄の階段を一段ずつ、自分の孤独を確認するように上り、部屋の電気をつける。
ふと、窓の外に目をやった。
道路を隔てた向かい側、少しだけ高級そうなマンションの一室に、ぽつりと灯りが点る。
壁一枚隔てた向こうに誰かがいるという事実を、ただの記号として受け流す。その部屋の主が誰なのか、この時の俺はまだ、知る由もなかった。
翌日。休み時間の騒がしい教室でのことだ。
彼女が手元のプリントを数枚、床に滑り落とした。偶然、その横を通りかかった蒼真が、無造作にそれを拾い上げる。
「ほら」
差し出した指が、一瞬だけ、彼女の白すぎる指先に触れた。
――ビクッ、と。
凪が、弾かれたように身を引いた。
その瞬間、指先に残ったのは、温もりではなく「拒絶」の温度だった。
「……ありがとう。……ごめんなさい」
消え入りそうな声。
完璧なはずの「女神」の声が、ほんの僅か、薄い氷が軋むように震えていた。
★
帰宅後。
重い玄関の鍵を閉め、自分以外に誰もいない静寂の中で、ようやく肺の奥に溜まった毒を吐き出すように息を継ぐ。
鏡の前に立ち、呪わしいほど完成された「女性」の形をした自分を見つめる。
この肌も、この髪も、この曲線も。
かつて父さんが「逞しくなれ」と私の肩を叩いた手の温もりを、無残に塗りつぶしてしまった。
私の身体は、いつの間にか、私の味方ではなくなっていた。
気づけばそれは、私から居場所を奪う側に立っていた。
どうして、こんな形になったの。
父さん。母さん。
私はただ、あなたたちの子供として、正しく在りたかっただけなのに。
鏡の中の怪物は、今夜も独りきりで、逃げ場のない瞳をしていた。




