第二十四話:審判の呼吸
第二十四話:審判の呼吸
二月二十五日、午前。国立大学医学部の二次試験、数学の試験開始から一時間が経過した頃だった。
教室を支配する死物狂いの静寂の中で、凪のペンが、不自然に止まった。
(……動いて)
指先の感覚がない。
極限の緊張と、削り続けた体力が、術後の身体に牙を向いていた。視界が急速に狭まり、解答用紙の真っ白な余白が、底なしの深淵のように見える。
冷や汗が顎を伝い、机に落ちた。隣の受験生が、凪の激しい荒い呼吸に気づき、不快そうに顔をしかめる。
「……受験生、大丈夫か」
試験官が、凪の異変に気づき、歩み寄ってくる。
顔面は土気色で、唇は紫に変色していた。ここで試験官に「別室へ」あるいは「保健室へ」と促されれば、彼女の戦いはそこで終わる。一度途切れた集中力は、二度とこの高みには戻ってこない。
凪は、震える手で自分の太ももを、血が滲むほど強くつねった。
痛みが、遠のく意識を無理やり現実に引き戻す。
「……大丈夫です。……続けて、ください」
掠れた声で告げ、彼女は試験官を拒絶するように深く俯いた。
だが、頭は働かない。大問の三番。ここを落とせば、合格の可能性は潰える。
その時、止まった凪の耳に、壁一枚隔てた隣の教室から、「音」が届いた。
それは、微かな、けれど規則的な、硬いペン先が紙を叩く音。
――ト、トト、ト。
蒼真だ。
根拠などない。けれど、その迷いのないリズムは、かつて夜のアパートで聞いた、あの「生存確認」の点滅と同じ拍動だった。
(……私は、空気。なくてはならない、空気……)
凪は、解答用紙に滴った汗を袖で拭い、再びペンを握った。
一方、蒼真もまた、別の地獄にいた。
解法の糸口が見えない難問を前に、彼は自分の過去を呪いそうになっていた。
――どうせ、お前なんか。
佐々木の声が、父の失望が、澱となって脳内に溢れ出す。
一瞬、解答用紙の空白が続いた。頭の中が真っ白になり、指先から力が抜けていく。
その時、蒼真は、自分の左手に触れる微かな「温もり」を感じた気がした。
あの日、父との決別の日。
テーブルの下で、凪がそっと添えてくれた、あの手の感触。
(……独りじゃない。俺たちは、二人で一つの酸素を吸っているんだ)
蒼真は、机を叩きそうになる衝動を抑え、深く、肺の底まで空気を吸い込んだ。
その空気には、凪が問題番号をめくるタイミングと、蒼真がページをめくる音が偶然重なる。廊下を歩く試験官の靴音と混ざって、確信が持てない。
止まっていたペンが、再び咆哮を上げる。
試験終了の鐘が鳴った瞬間、二人は共に、精根尽き果てて机に突っ伏した。
机に落ちる汗、破れた袖。
★
三月十日。
掲示板へと向かう道すがら、二人は一言も交わさなかった。
特別な力など、何もない。
ただ、窓越しの光を信じ、不器用な卵焼きを分け合い、空気として寄り添い合った。
その二人が、ついに、自分たちの運命を審判する場所へと辿り着く。
「三月十日。そこで、すべてが決まる。」




