第二十話:決別の帰郷
第二十話:決別の帰郷
夏休みの始まり。凪が退院して一週間が過ぎた頃、二人は蒼真の故郷へと向かう電車に揺られていた。
蒼真の手には、武田が集めてくれた「真実」が詰まった封筒。そしてもう片方の手には、凪の細く、けれど確かな温もりを持つ手が重ねられていた。
地元に着くと、そこには武田、そして当時の事件を引き起こした佐々木と、その原因となった島田の姿があった。
蒼真を陥れた佐々木は、動かぬ証拠を突きつけられ、顔を青白くさせて震えていた。視線も上げられないで謝罪の言葉を口ごもる彼に対し、蒼真は静かに、凪の肩を抱き寄せて告げた。
「もういいんだ。謝ってもらう必要はない。……今の俺には、最高の味方がついているから」
今の蒼真はもう怒っていなかった。その毅然とした態度は、逃げ隠れしていた同級生たちとは比較にならないほど気高く、凪はその横顔を誇らしげに見つめていた。
★
そして、最後に向かったのは実家だった。
応接室で向き合った父は、息子の突然の帰宅に戸惑いを見せていたが、蒼真が机に置いた資料に目を通すにつれ、その手が目に見えて震え始めた。
「……蒼真、これは……。私は、てっきりお前が……」
「信じられなかったんですね。……実の息子よりも、世間の体面や噂の方を」
蒼真の声は淡々としていた。敬語を崩さず、しかし冷徹なまでに客観的な事実を並べていく。
だが、その心の中では、かつて自分を切り捨てた父への悲しみが、今にも爆発しそうなほど渦巻いていた。握りしめた拳が微かに震える。
その時、テーブルの下で、凪がそっと蒼真の手に自分の手を添えた。
彼女の指先から、言葉にならない共鳴が伝わってくる。
(大丈夫、私はここにいるわ)
その温もりに支えられ、蒼真は深く息を吐き、静かに父を見据えた。
「これを渡しに来たのは、父さんを許すためではありません。俺が、あなたが恥じたような人間ではないことを、ただ証明するためです。……これで、もう十分です。俺は、俺の人生を生きます。悪いけれど失礼するよ。」
父の後ろでおろおろする母に向かって。
「お母さんごめん。でも、お母さんにも助けてもらえなかったから。」
父の謝罪さえ待たず、蒼真は席を立った。
立ち去る背中にかけられた父の情けない声を、蒼真は一度も振り返らずに聞き流した。
★
八月の終わり。夏休み最後の夜。
二人は蒼真の六畳一間のアパートで、窓を開け放して夜風を浴びていた。蒼真は、これまでに調べたAIS(アンドロゲン不応症)の資料を机に広げた。
「……凪。俺、決めたんだ。この病気に悩んでいる人は、思っているよりずっと多い。……俺は、医者になりたい。凪を支えるだけじゃなく、同じ痛みを持つ人たちの心を支えられる医者に」
「……私、恋人でいいの?」
凪が自嘲気味に、けれど少しだけ不安そうに呟いた。
「あなたを、普通の女性のように支えてあげられないのに。……私なんて、いてもいなくても変わらない存在なんじゃないかしら」
「何を言ってるんだ。……君は、空気だよ」
凪が「え?」と驚いたように蒼真を見る。
「それって存在が希薄ってこと?いてもいなくても一緒なの?」
「凪、君勘違いしているよ。空気がなかったら、俺は生きていけない。いなくてもいい存在なわけがないだろ。いなくてはならない存在なんだ。……だから、ずっとそばにいてほしい」
凪の瞳に、今日一番の輝きが宿る。
「……そう。なら、私もあなたと離れるわけにはいかないわね。……二人で、同じ道に進みましょう。私も、誰かの力になりたい」
援助はない。貯金もない。残されたのは、国立医学部への現役合格という過酷な道だけだった。
「やるしかないな。死ぬ気で」
「ええ。二人なら、きっと」
窓の外。
一年半、お互いの生存を確認し合っていたあの二つの窓に、今夜も灯りが消えなかった。




