第十九話:澱(おり)の底
第十九話:澱の底
凪がいない夜は、一秒がひどく長く感じられた。
蒼真はバイトを終えると、まっすぐアパートへ戻り、窓を少しだけ開ける。初夏の湿った夜風が、主のいない六畳間に流れ込む。
道路の向こう側。マンションの三階は、今日も暗い。
あそこの明かりがつかないだけで、街全体がひどく見知らぬ場所に思えた。
(……手術、無事に終わったんだろうか)
届いた短いメッセージを何度も読み返す。返信を打とうとしては消し、結局『待ってる』という一言だけを送った。彼女の負担になりたくなかったし、何より、彼女が自分の身体と戦っている時に、言葉はあまりに無力に思えた。
蒼真は、机の上に広げた武田からのメモを、暗がりの中で見つめていた。
そこには、かつての友人・武田から聞いた「あの事件」の裏側が、断片的にメモされている。
『佐々木が島田のスマホを……』
『担任の隠蔽……』
武田の話によれば、あの盗撮事件は、蒼真への逆恨みと、大人の保身が招いた泥沼だった。
蒼真を陥れた佐々木は、被害者の島田が蒼真に寄せていた仄かな好意を察し、それを歪んだ形で壊そうとしたのだという。
「……馬鹿馬鹿しいな」
漏れた呟きは、虚しく壁に跳ね返った。
……それだけかよ。
蒼真は、武田から送られてきた当時のSNSの書き込みや、周囲の証言を整理した封筒を、大切に引き出しの奥にしまった。
これをどう使うか、あるいは使わないのか。
それは、凪が戻ってきてから、二人で決めることだ。
「自分の過去を決着させる時も、私が隣にいるわよ」と、あの日レールの上で彼女は言ってくれた。その約束を、蒼真は守りたかった。
ふと、視線を上げると、窓のサッシに小さな虫が止まっている。
凪と一緒に卵焼きを焼いた時の匂いが、まだ部屋の隅に残っているような気がして、蒼真は深く息を吐いた。
不意に、スマートフォンが震える。
凪からの、新しい通知。
『消灯時間。……今夜も、向かい側の窓に、小さな灯りが見えるわ。……私の、帰る場所』
蒼真は窓際に立ち、デスクライトを一回だけ点滅させた。
ここには誰もいないし、あちらもまだ空っぽだ。
けれど、この暗闇の中で、二つの孤独な意識だけが確かに繋がっている。
まだ、沈むわけにはいかない。
凪が戻ってきたら、この胸のドロドロとした澱を、全部彼女に見せるんだ。
汚いところも、情けないところも
。
蒼真は、引き出しの中の封筒をもう一度、指で確かめた。
凪。お前が戻ってきたら、俺も自分の「澱」に向き合う。
だから、今はただ、無事に帰ってきてほしい。
湿った風がカーテンを揺らす。
蒼真は、向かいのマンションの暗闇を、慈しむように見つめ続けていた。




