第十七話:宣告の朝
第十七話:宣告の朝
夜明け前の空気は、針のように冷たく澄んでいた。
六畳一間のアパートに、スマートフォンのバイブレーションが低く響く。画面には「父」の文字。昨夜、凪が送った『今日、伺います』という短いメッセージへの、無機質な返信だった。
『十時に、マンションで待っている』
凪はその画面をじっと見つめ、それからゆっくりと、蒼真から借りた上着を脱いだ。彼女はカバンから、マンションから持ってきた「自分を選ぶための服」を取り出す。それは、父が好んだ「完璧な息子」のためのスーツでも、学校が強いた「清廉な女神」のための制服でもない、彼女が自分の意志で買った、飾りのないシャツだった。
「……行くのか」
蒼真の声に、凪は小さく頷いた。
「ええ。……ずっと、お父様の顔を見るのが怖かった。私の身体に起きていることを、言葉にするのが怖かった。でも、この部屋であなたが教えてくれながら、私が焼いた……あの不格好な卵焼きの味を思い出したら。完璧じゃない自分でも、自分で決めて生きていいんだって、そう思えたの」
凪の指先は、まだ微かに震えている。
けれど、その震えを隠すためにスカーフをきつく巻くことは、もうしなかった。
★
十時ちょうど。二人は再び、あのマンションの重い扉の前にいた。
室内には、数日前と同じように父が座っていた。だが、窓から差し込む光の角度のせいか、あるいは凪の視点が変わったせいか、その背中は以前よりも少しだけ、小さく見えた。
「……話とは何だ。入院の準備はできているのか」
父の問いに、凪は蒼真の隣を離れ、父の正面まで歩み寄った。
「お父様。……私、手術を受けます」
父の眉が、安堵の色を帯びてわずかに動く。だが、凪の言葉はそこで終わらなかった。
「でも、それはお父様の期待に応えるためでも、失敗作を修正するためでもありません。……私が、私としてこれからも生きていくために、私自身の意志で決めたことです」
凪は、自分の喉元に手を当てた。
「私の中に、あなたが欲しがった『証』があることも、それが私の命を脅かしていることも、受け入れます。……でも、それを取り除いた後、私はもうあなたの『息子』の代わりにはならない。私は、どちらでもない私のまま、あのアパートの窓から見える世界で生きていきます」
静かな、けれど決別を孕んだ宣告。父は、娘の瞳に宿る、かつて見たことのない強い光に気圧されたように、言葉を失っていた。
「手術の費用は、……借りることになります。でも、返します。……それが、私がお父様と結べる、唯一の約束です」
凪の言葉が、冷え切った室内に重く落ちる。
「……わがままだな、凪」
長い沈黙の後、父が絞り出すように言った。その声には、怒りよりも、手の中にあったはずの「作品」が、一人の「人間」として指の間から零れ落ちていくのを認めざるを得ない、諦念が混じっていた。
「……勝手にするがいい。」
「……だが、術後の体調管理だけは怠るな。死なせてしまっては、貸した金も返ってこないからな」
それが、父なりの、精一杯の譲歩であり、呪縛からの解放だった。
マンションを出て、再び初夏の強い陽光の下へ。凪は立ち止まり、深く、深く息を吸い込んだ。
「……終わったわ。……いえ、始まるのね。これから」
凪は蒼真を振り返り、涙で潤んだ瞳で微笑んだ。
それでも、彼女の指先はまだ、ほんの少しだけ震えていた。




