第十六話:境界の震え
第十六話:境界の震え
穏やかな日々を侵食するように、凪の微熱は静かに居座り続けていた。
蒼真がバイトから戻ると、凪は机に向かって一冊のパンフレットを広げていた。父親が置いていった、あの病院のものだ。
「……読んでいるのか」
「ええ。……何度読んでも、ここに書いてあることが自分のことだとは思えなくて。ただの、無機質なマニュアルを読んでいるみたい」
凪が力なく微笑む。その指先は、パンフレットの端を白くなるほど強く押さえていた。
蒼真は、棚に背を預けて彼女を見つめる。
かつて、十四話で「時間をください」と父親に乞うたのは自分だ。彼女に考える猶予を、彼女自身の人生を取り戻すための隙間を作りたかった。だが、その隙間を埋めるのは、幸福だけではない。いつ壊れるか分からない身体への、生々しい「恐怖」だった。
「……怖いか」
「怖い。……とても」
凪の声が微かに震える。
「手術を受けて、身体の中に残っている『私を形作っていたもの』を捨ててしまったら、私は本当に空っぽになってしまうんじゃないかって。……でも、逃げ続ける方が、もっと怖いの。いつか、自分の身体が私に牙を向くのを待っているだけなんて」
窓の外では、いつものように都会の夜が点滅している。
一年半、道路を隔てて見つめ合っていたあの距離が、今は六畳の空間にまで縮まっている。けれど、彼女が向き合わなければならない深淵は、まだそこにあった。
「ねえ、七瀬くん。……私は、どちらでもなくていいの?」
「……ええ」
「どちらでもないまま、生きていてもいいの?」
蒼真は、ゆっくりと歩み寄り、凪の隣に座った。
肩が触れ合う距離。そこから伝わる微熱が、彼女が今、必死に「ここ」に留まろうとしている証拠だった。
「どちらでもなくていい。……お前が何者でも、俺はここで、お前の味方でいる。……それだけは変わらない」
凪は、震える手でスマートフォンを手に取った。
画面には、父親の連絡先が表示されている。
指が、発信ボタンの数ミリ上で止まったまま動かない。
呼吸が乱れ、瞳に涙が溜まる。
決意はまだ、言葉にはならない。けれど、彼女は逃げるために目を閉じるのではなく、歪んだ視界のままで画面を見つめ続けていた。
「……話、しなきゃ。……お父様に」
凪の指先が、小さく、けれど激しく震えている。
蒼真は、その手を包み込むように重ねることはしなかった。ただ、彼女の震えを肯定するように、隣で静かに息を整えた。
長い沈黙の後。
凪は、ゆっくりとパンフレットを閉じた。
そして、スマートフォンを握りしめ、自分自身に言い聞かせるように、一言だけ漏らした。
「……明日。……明日、私から、連絡するわ」
それはまだ決断ではない。
けれど、迷いの中で溺れ続けていた彼女が、初めて自分の意志で「明日」という境界線に手をかけた瞬間だった。




