表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
窓越しの神様 ――空気の誓い  作者: 輝夜月愛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/25

第十五話:味の選択

第十五話:味の選択


 引っ越しは、驚くほど静かなものだった。

 なぎがマンションから持ち出したのは、数冊の参考書と着替え、そして、幼い頃に父から贈られたという、古びた銀のしおりだけだった。

「……捨てられなかったの。これをくれた時だけは、父も少しだけ笑っていた気がして」

 それは逃避ではなく、彼女が自分の人生から「持っていくもの」を選び取った、最初の選択だった。


 道路を渡った先にある、蒼真そうまの六畳一間。

 壁は薄く、隣室のテレビの音や、階下の住人が閉めるドアの振動が、生々しく伝わってくる。高級マンションの無機質な静寂とは違う、雑多で、「生」の気配。


「……狭いだろ」

「ううん。……不思議ね。あんなに広い部屋にいた時より、ずっと呼吸がしやすいわ」


 その夜、凪は初めて包丁を握った。

 蒼真に教わりながら作る、簡単な卵焼き。けれど、慣れない手つきの凪は、卵を巻くタイミングが分からず、形は崩れ、醤油を入れすぎて色は黒ずんでしまった。


「……ひどい味。しょっぱくて、格好悪い」

 凪は自嘲気味に笑ったが、一口、それをゆっくりと噛み締めた。

 今まで彼女が口にしてきたのは、管理栄養士が計算し、父が認めた「完璧な食事」だけだ。味さえも、彼女の預かり知らぬところで決められていた。


「いいんじゃないか。お前が自分で決めて、自分で作った味だ。……不味くたって、そっちより、俺は好きだな。」

 蒼真の言葉に、凪はもう一口、不恰好な卵焼きを口に運んだ。自分で味を決める。それは、自分の身体を自分のものであると認めるための、小さな、けれど確実な練習だった。


     ★


 穏やかな日々は、しかし、どこか薄氷の上を歩くような危うさを孕んでいた。

 夜、隣で眠る蒼真の規則正しい寝息を聞きながら、凪は暗闇の中で天井を見つめる。

 ふとした瞬間に襲う眩暈。そして、身体の奥に淀むような、言葉にできない微かな違和感。


「……七瀬くん、起きてる?」

「……ん、どうした」

 蒼真が眠そうに目を擦り、身を起こす。凪は自分の下腹部にそっと手を当てた。


「この身体……いつか、私を裏切るかもしれない。私に黙って、勝手に壊れていくかもしれないわ」

 父が突きつけた「腫瘍化」というタイムリミット。それは呪いのように、幸福な日常の隙間に冷たい風を吹き込ませる。


 蒼真は暗闇の中で、凪の手をそっと握った。

「……それでも今は、お前のもんだろ。先のことなんて、その時にならないと分からねえよ。今は、お前がここで生きてる。それだけで十分だ」


 蒼真の指の節くれだった感触が、凪に「今」を繋ぎ止める。

 けれど翌朝、凪は蒼真がバイトに出かけた後、机の上に置かれたままの病院のパンフレットを、指先でなぞっていた。

 

 平熱よりわずかに高い微熱が、彼女の身体の中で、静かに時を刻んでいる。

 一ヶ月という猶予の砂時計が、音もなく零れ落ちていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ