第十五話:味の選択
第十五話:味の選択
引っ越しは、驚くほど静かなものだった。
凪がマンションから持ち出したのは、数冊の参考書と着替え、そして、幼い頃に父から贈られたという、古びた銀の栞だけだった。
「……捨てられなかったの。これをくれた時だけは、父も少しだけ笑っていた気がして」
それは逃避ではなく、彼女が自分の人生から「持っていくもの」を選び取った、最初の選択だった。
道路を渡った先にある、蒼真の六畳一間。
壁は薄く、隣室のテレビの音や、階下の住人が閉めるドアの振動が、生々しく伝わってくる。高級マンションの無機質な静寂とは違う、雑多で、「生」の気配。
「……狭いだろ」
「ううん。……不思議ね。あんなに広い部屋にいた時より、ずっと呼吸がしやすいわ」
その夜、凪は初めて包丁を握った。
蒼真に教わりながら作る、簡単な卵焼き。けれど、慣れない手つきの凪は、卵を巻くタイミングが分からず、形は崩れ、醤油を入れすぎて色は黒ずんでしまった。
「……ひどい味。しょっぱくて、格好悪い」
凪は自嘲気味に笑ったが、一口、それをゆっくりと噛み締めた。
今まで彼女が口にしてきたのは、管理栄養士が計算し、父が認めた「完璧な食事」だけだ。味さえも、彼女の預かり知らぬところで決められていた。
「いいんじゃないか。お前が自分で決めて、自分で作った味だ。……不味くたって、そっちより、俺は好きだな。」
蒼真の言葉に、凪はもう一口、不恰好な卵焼きを口に運んだ。自分で味を決める。それは、自分の身体を自分のものであると認めるための、小さな、けれど確実な練習だった。
★
穏やかな日々は、しかし、どこか薄氷の上を歩くような危うさを孕んでいた。
夜、隣で眠る蒼真の規則正しい寝息を聞きながら、凪は暗闇の中で天井を見つめる。
ふとした瞬間に襲う眩暈。そして、身体の奥に淀むような、言葉にできない微かな違和感。
「……七瀬くん、起きてる?」
「……ん、どうした」
蒼真が眠そうに目を擦り、身を起こす。凪は自分の下腹部にそっと手を当てた。
「この身体……いつか、私を裏切るかもしれない。私に黙って、勝手に壊れていくかもしれないわ」
父が突きつけた「腫瘍化」というタイムリミット。それは呪いのように、幸福な日常の隙間に冷たい風を吹き込ませる。
蒼真は暗闇の中で、凪の手をそっと握った。
「……それでも今は、お前のもんだろ。先のことなんて、その時にならないと分からねえよ。今は、お前がここで生きてる。それだけで十分だ」
蒼真の指の節くれだった感触が、凪に「今」を繋ぎ止める。
けれど翌朝、凪は蒼真がバイトに出かけた後、机の上に置かれたままの病院のパンフレットを、指先でなぞっていた。
平熱よりわずかに高い微熱が、彼女の身体の中で、静かに時を刻んでいる。
一ヶ月という猶予の砂時計が、音もなく零れ落ちていた。




