第十四話:対話の重力
第十四話:対話の重力
扉を開けた瞬間、室内の冷えた空気と共に、そこには一分の隙もないスーツに身を包んだ男――凪の父が、ソファに深く腰掛けて待っていた。
「……随分と遅い帰りだな、凪。それに、見慣れない同行者がいるようだが」
低く、抑揚のない声。父の視線は蒼真を排除することなく、しかし価値を値踏みするように向けられた。
「七瀬蒼真と申します」
蒼真は努めて冷静に、一礼して名を名乗った。怒鳴り散らすことなど、この場では最も無意味だと理解していた。
「凪さんから、お父様が予定されている処置について伺いました。……娘さんの意志を置き去りにしてどうして、そんなに急ぐんですか。」
父は、手元の書類をゆっくりと閉じ、重い沈黙の後に口を開いた。
「……真意、だと? 私はただ、凪に生きてほしいだけだ。……この身体(AIS)は、精巣が体内に留まり続けることで、将来的に腫瘍化する可能性がある。それを摘出するのは医学的な必然であり、親としての義務だ。感情論で先延ばしにして、手遅れになったら誰が責任を取るというのだ」
その言葉には、歪んではいるが、紛れもない「親としての恐怖」が混じっていた。
凪が、ハッと息を呑む。父が自分を「作品」としてだけでなく、一人の「命」として案じていたことを、彼女も初めて知ったのかもしれない。
「……おっしゃる通りです。健康上のリスクを無視していいとは思いません」
蒼真は頷き、しかし一歩も引かずに続けた。
「ですが、無理やり病院に引きずり込むことが、本当に彼女の命を救うことになりますか? 心を壊してまで手に入れた『安全な身体』に、彼女の居場所はありますか。……お父様、今この瞬間の凪さんを見てください。彼女は怯えています。あなたにも、自分自身の身体にも」
「……だからこそ、私が決めてやらねばならんのだ」
「いいえ、決めるのは凪さん自身であるべきです。……一ヶ月、いえ、もう少しだけでいい。時間をください。俺が彼女のそばにいます。彼女が自分で決める時間をください」
父は、ソファの背もたれに深く身を沈めた。
蒼真の理性的で、かつ逃げ場のない正論。そして何より、父親自身の抱える「娘を失いたくない」という本心を突き動かすような静かな熱量に、男の頑なな表情がわずかに綻んだ。
「……分かった。入院は一度、保留にする」
父は立ち上がり、凪の目を一度だけまっすぐに見つめた。
「凪。お前がその男とどう過ごそうと勝手だ。だが、自分の命を粗末にすることだけは許さん。……一ヶ月後、もう一度話をしよう。その時、お前が自分の意志で答えを出しなさい」
父が部屋を去った後、張り詰めていた糸が切れたように、凪はその場にへたり込んだ。
「……いいの? 本当に、あんなこと言って」
「ああ。……一ヶ月あれば、いろんなことができるだろ。美味いもん食って、いろんな場所に行って。……お前が、お前自身の身体を好きになれる方法を、一緒に探そう」
窓の外、雨上がりの街がキラキラと輝いている。
それは、一年半もの間、窓越しに見つめ合っていた二人が、初めて手に入れた一ヶ月。それだけあれば、何かが変わるかもしれない。




