第一話:銀色の影
第一話:銀色の影
春という季節が、どうして希望の象徴なのか、俺にはわからない。
薄紅色の花弁は、毎年判で押したように同じ軌道で舞い、同じようにアスファルトの上で無残に踏みつぶされる。
人間だけが「新しい始まり」なんて言葉を信じたがる。
身体に馴染まない硬い制服。ワックスの匂いが鼻をつく校舎。互いの腹を探り合う、薄っぺらな人間関係。
だが、俺は知っている。
環境が変わるたびに必要になるのは、希望じゃない。その場をやり過ごすための、新しい「嘘」だ。
俺はこの街に、逃がされた。
「二度と家の敷居を跨ぐな」
父の、低く、石のように冷たい声は、今も鼓膜の奥にこびりついて離れない。母はただ隣で、操り人形のように頷くだけだった。
俺はやっていない。
そう何度言っても、誰も聞かなかった。言葉を尽くすほど、真実は摩耗して消えていった。
――だったらもう、いい。
弁明は疲れる。信じてもらえない「正しさ」ほど、この世に虚しいものはない。
だから俺、七瀬 蒼真は、一人で生きる。
高校卒業までの三年間という、期限付きの静かな追放。その後は、好きにしろ、か。そんな自由、とうの昔に家族と一緒に捨ててきた。
体育館を埋め尽くす、新入生たちの浮ついたざわめきが意識を引き戻す。
入学式。その退屈な儀式の最中、壇上に一人の生徒が立った。
新入生代表、凪。
――その瞬間、体育館の空気が、わずかに冷えた気がした。
長身。測ったように均整の取れた姿勢。光を吸い込むほどにきめ細かく、透き通った白い肌。無駄な装飾を一切削ぎ落とした黒髪が、柔らかな絹のように肩で揺れている。
周囲の空気が、急速に熱を帯びてどよめきに変わる。
「……やばくないか、あいつ」
「女神だ。本物の女神がいる……」
感嘆、溜息、そして微かな嫉妬。そんな雑音が幾重にも重なる。
なるほど。あれは確かに、クラスの空気を三秒で支配する顔だ。
だが、形式的な拍手を送りながら、周囲が「女神だ」と騒ぐ中、俺だけは別のものを見ていた。
あいつ――笑っていない。
いや、その薄い唇は、完璧な角度で微笑みを形作っている。けれど、目だ。
光を反射するだけで、何も映していない、あの瞳。原稿を持つ指先は、指関節が白く浮き出るほどに強張っている。声は鈴を転がすように澄んでいるが、語尾の一音だけが、ほんの刹那、氷が割れるように震えた。
周囲は誰も気づかない。誰もが彼女を、美しく完成された「偶像」として消費している。
だが、俺にはわかる。あの目は、知っている目だ。
『ここに自分の居場所なんて、最初から一歩もなかった』と、もう理解してしまった人間の目だ。
あいつ、俺と同じだ。
拍手が鳴り止み、潮が引くように静寂が戻る。
彼女は一礼し、流れるような動作で壇上を降りた。その横顔が、一瞬だけこちらを向いた気がした。視線が、針の先で触れ合うほどに重なった、ような。
……いや、自意識過剰だろう。俺はすぐに目を逸らした。
関わるな。誰とも、何とも。
ここではただの背景として、静かに息を潜めて過ごせ。噂も、疑いも、好奇の目も、すべて他人事としてやり過ごせ。それが、俺が選んだこの三年間を生き延びるための、最適解だ。
だが。彼女が自分の席へ向かう背中を目で追ったとき、胸の奥で、古傷が疼くような感覚があった。
あの背中は、助けを求めている背中じゃない。世界に背を向けて、すべてを諦めきった背中だ。
俺は知っている。諦めきった人間は、ある日突然、ふっとこの世から消える。未練も、言葉も、足跡さえも残さずに。
――関係ない。俺には、関係のないことだ。
自分に強く言い聞かせながらも、俺の視線は、無意識に彼女の銀色の影を追い続けていた。
そのときはまだ、知る由もなかった。
放課後、安アパートの薄い窓越しに、俺と同じ孤独を、もっと深く鋭い痛みとして抱えたその少女が、ずっと向かい側から、俺を見つめ続けていることを。
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