第8話 公開監査、最後の大逆転
夜会の招待状は、真っ白な紙に金の箔押しだった。美しい。だからこそ、裏側に潜む棘がよく分かる。
「宮廷主催・冬薔薇夜会。名目は“新年度の財政方針の披露”……実態は公開処刑の舞台、ってところね」
鏡の前でドレスの裾を整えながら呟くと、背後で布の擦れる音がした。サイラスが入ってくる気配はいつも静かなのに、今夜は一歩目から空気が冷える。
「処刑ではない。終わらせるための場だ」
「同じことです。貴族社会的には」
私は髪をまとめる手を止めず、机に置いた魔導板を確認した。伝票番号、支払先、補給廠コード、特別決裁符号、発行曜日と時刻。封蝋の欠け方まで写真に起こしてある。前世で言うところの“監査調書”は、もう完成していた。
サイラスは私の首元に視線を落とし、小さな箱を差し出した。
「着けろ」
中にあったのは細い鎖の首飾り。飾り気はほとんどない。だが中央の小さな石が、淡く冷たい光を宿している。
「護符?」
「防刃と対魔導矢。君を失うのは、効率が悪い」
「言い方」
思わず睨むと、サイラスは何も言わずに鎖を手に取った。背後へ回り、留め具を器用に留める。指先が触れた瞬間、石が微かに熱を持ったように感じた。
「……これ、効率じゃなくて」
私が言いかけたところで、サイラスが低く遮った。
「今夜は仕事だ、レティシア。感情の処理は後に回せ」
「それは私の台詞です」
そう返しながら、私は魔導板を抱えた。ドレスで走る準備をする女なんて、宮廷にはきっといない。けれど、ここにいる。
◇◇◇
王宮の大広間は眩しかった。無数の燭台、天井画、絹の衣擦れ。笑い声と香水の匂い。その中心で、私への視線だけが刺のように集まる。
「追放された悪役令嬢が戻ってきた」
「宰相の婚約者だそうよ」
「まさか……」
視線の中に、あの人もいた。第一王子。相変わらず整った顔で、私を見て薄く笑っている。
「まだ生きていたのか、レティシア」
喉に昔の恐怖がひゅっと走りかけた瞬間、サイラスが半歩前に出た。
「彼女に話しかけるなら、私を通せ」
王子の眉が跳ねる。「宰相、口の利き方を――」
「礼節は守っている。私の婚約者に対する無礼を、私は許可していないだけだ」
“許可”。相変わらず言い回しは最悪なのに、背中が頼もしいのがさらに厄介だった。
王子は言い返せず、笑みを作って引いた。周囲の貴族たちがざわつく。私はそのざわめきを、数秒で“背景音”に落とした。
今夜の敵は、社交ではない。数字の影にいる、手癖の持ち主だ。
やがて音楽が止み、宮廷侍従が高らかに告げた。
「宰相閣下より、新年度財政方針のご披露!」
サイラスが壇上に上がり、広間を一望する。声は低く、よく通った。
「本夜会は祝いの場であると同時に、国家の信頼を取り戻す場でもある。国庫を蝕む不正を、ここで終わらせる」
一瞬で空気が凍った。貴族の笑い声が止み、杯を持つ手が止まる。
「公開監査を執行する。対象は軍需費、輸送補給費に紛れた使途不明金。ここにいる全員に見せる。――言い逃れできない形で」
私の出番だ。私は壇上へ上がり、魔導板を机に置いた。指を滑らせると、板の表面が淡く光り、文字と表が空中へ投影された。
「……数秘術だ」
「いや、あれは……」
囁きが波のように広がる。私は微笑んだ。理解できないなら、こちらの勝ちだ。分かる人間だけが焦る。
「皆様、難しい話はしません。たった三つだけです」
指を鳴らすように表を切り替える。
「一つ目。存在しない補給廠コード――『第七補給廠』。王国の補給廠は第一から第五まで。ここは架空です」
別の表。伝票番号の一覧が、赤い線で束ねられる。
「二つ目。存在しない輸送組合――『グレイヴ輸送組合』。許認可登録簿に記載がありません」
登録簿の写しを投影する。署名と封印付き。改ざんできない形式で。
「三つ目。特別決裁符号の偏り。問題の伝票は、ほぼ金曜夜、閉庁直前に発行されています」
会場がざわつく。金曜夜、閉庁直前――確認が緩む。現場を知る者ほど分かる。
私は次の投影を出した。地図。王都の外れの倉庫街に、点が密集している。
「支払先住所がこの区画に集中しています。輸送組合は幽霊なのに、支払いは実在の口座へ流れている。つまり、受け皿だけはある」
ここで、私は最後の表を出した。封蝋の拡大。欠け方。筆跡。決裁印影。
「そして決定打。問題伝票の封蝋は、右上が必ず欠けています。押す手癖です。摘要欄の筆跡も同一。さらに、特別決裁符号の最終承認印――この印影が、模造ではない“本物”です」
貴族の中から、誰かが声を上げた。
「待て! そんなもの、君が偽造した可能性も――」
「では、確認しましょう」
私は一拍も置かずに返した。
「王宮文書庫の封印付き原本を、ここへ。侍従長、持ち出し記録は宰相閣下の権限で既に抑えています。封印は王家の印。私の手は触れていません」
サイラスが短く頷き、侍従長が蒼白になりながらも合図を出す。護衛が動き、ほどなくして箱が運び込まれた。王家の封印が、観衆の前で割られる。
原本と投影が一致した瞬間、広間が完全に沈黙した。
逃げ道が消える音がした。
私は視線を、候補の一人へ向けた。監査院副長官ギルバート・ヴァルツ。品のいい笑みを張り付けたまま、杯を握っている。
「副長官。特別決裁符号の最終承認者は、あなたです。金曜夜に出入りできる権限、封蝋の扱い、財務局長印へのアクセス、そして軍務省印の模造に触れられる位置。条件が揃うのは、あなたしかいない」
ギルバートは笑ったまま肩をすくめる。
「推測だな。数字遊びで人を裁くつもりか。女の浅知恵は――」
その言葉を、私は最後まで聞かなかった。
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、あなた方ですね?」
静寂が、刃のように落ちた。
私は畳みかける。逃げる余地を残さないために。
「副長官名義の別邸購入の手付金。支払先は倉庫街の名義会社。名義会社の代表者は、幽霊組合の口座管理人と同一人物。さらに、あなたの執務室の記録石板には、問題伝票と同じ筆跡で“第七補給廠コード”が下書きされていました。財務局の火災未遂で消されかけたのは、それです」
ギルバートの笑みが、初めて歪んだ。
「証拠など――」
「あります。あなたが今、握りしめている杯の下に」
私は指を差した。壇上からでも見える。彼の手が僅かに震え、杯の台が布を擦る。そこに貼られていたのは、小さな封蝋片。右上が欠けた、あの癖のある押印。
(やっぱり。自分の“印”を信じすぎる人間は、最後にそれを持ち歩く)
ギルバートが立ち上がった瞬間、サイラスの魔力が走った。床に霜が広がり、彼の足首を絡め取る。
「動くな」
氷の声が、広間全体を支配する。
「監査院副長官ギルバート・ヴァルツ。不正流用、虚偽伝票作成、国家反逆の嫌疑で拘束する。抵抗すれば、その場で拘束を強化する」
護衛が押さえつけ、杯が床に落ちて砕けた。ギルバートは呻き、周囲の貴族たちは一歩ずつ距離を取る。さっきまで彼に媚びていた者ほど、早い。
私は深く息を吐いた。胸の奥で固まっていたものが、少しだけ溶けていく。
(これで、破滅フラグは――粉砕)
壇上の端で、第一王子が唇を噛んだ。こちらを睨む目に苛立ちと屈辱が滲む。けれど今は、もう怖くない。
サイラスが私の隣へ戻り、低い声で言う。
「見事だ」
「仕事です」
「……誇りに思う、と言ったら?」
その一言が、胸の奥を不意に熱くした。私は誤魔化すように魔導板を閉じ、淡々と返す。
「なら、報酬の上乗せを検討してください。危険手当込みで」
サイラスの口元が、ほんの僅かに動いた。
「検討する。今夜の君は、国家の損失ではない。国家の――」
「またその言い方。直してください」
「……私の、必要だ」
言い直しは拙い。けれど、氷の宰相が言葉を探しているだけで十分だった。
広間では拘束が完了し、ざわめきがようやく戻ってきた。だがそのざわめきは、先ほどまでの嘲笑ではない。恐れと、確信と、そして一部の尊敬が混じっている。
私は一歩前に出て、集まった視線を受け止めた。
「不正で流れた金は回収します。軍の補給は正しい形で回す。現場を飢えさせるような“赤字の穴掘り”は終わりです」
その宣言に、誰かが小さく拍手した。やがて二つ、三つと増え、広間に広がっていく。貴族の拍手は気まぐれで、信用ならない。けれど今だけは、数字が勝った証だ。
サイラスが私の手を取り、指先をそっと包んだ。氷のように冷たいはずの手が、今は不思議と温かい。
「帰るぞ、レティシア。次の仕事がある」
「……ええ。明日も出勤ですね」
「当然だ」
私は笑って頷いた。
公開監査は終わった。最後の大逆転は決まった。
けれど、“休めない二人”の物語は、まだ終わらない。




