第7話 背中を預けるパートナー
財務局の地下書庫で鳴り響いた警鐘は、表向きには「不審者侵入未遂」で処理された。
棚が裂け、灯りの魔石が割れたのに“未遂”。それが王都という場所の、そして権力というものの、都合のいい言葉だった。
私は拾い集めた伝票束を胸に抱えたまま、サイラスの執務室に連れていかれた。廊下を進む間、護衛の目が何度もこちらを盗み見る。彼らが本当に守るべき相手が、私なのか宰相なのか、それとも別の何かなのか――判断がつかない顔だ。
執務室の扉が閉まると同時に、空気が変わった。
サイラスが指を鳴らす。小さな氷の粒が宙を舞い、扉と窓枠に吸い込まれるように消えた。結界。侵入者を弾く、あるいは気配を暴く術式だ。
「これで、少なくとも“今夜は”刺されない」
「今夜だけですか」
「敵は急ぐ。証拠が揃ったからな」
私たちは机を挟んで向かい合い、伝票を広げた。破れや汚れのないものから順に並べ、同じ支払先、同じコード、同じ日付のものを束ねる。前世の監査対応と同じ作業。違うのは、私がこれを“自分の命のため”にやっていることだけ。
「第七補給廠コードは偽装。グレイヴ輸送組合は実体なし。軍務省印は模造。ここまでは確定」
私が言うと、サイラスが頷いた。
「だが、これだけでは“誰が通したか”に届かない。伝票は、どこかで承認されている」
「承認の痕跡なら、あります」
私は魔導板を起動し、伝票番号を入力していく。財務局の伝票には、通常ルートなら必ず残るものがある。受付印、形式審査のチェック符号、承認者の署名、そして――回覧の履歴。
ところが問題の伝票群は、回覧履歴が異様に薄い。薄いというより、途中が飛んでいる。
「この飛び方、偶然じゃないです。ここを見て」
私は一枚を指差した。回覧履歴の端に、小さく刻まれた補助符号がある。財務局内部で“特例”を示す符丁だ。
サイラスの眉がわずかに動く。
「……特別決裁」
「ええ。通常の審査を省略できる。つまり、承認者は“審査を省略できる権限”を持っている」
私は魔導板に表を作った。
・特別決裁符号の付いた伝票(過去一年分)
・決裁符号の種類
・使用部署
・最終承認者の印影パターン
・発行された曜日と時刻
そして、最後の列で“偏り”を見せる。
「発行曜日が、ほぼ金曜夜。時刻は閉庁直前。さらに、特別決裁符号の種類が二つに限られている」
「二つ?」
「財務局長権限と、監査院経由の緊急権限です。軍務省ではありません。軍務省印は“正当性の飾り”」
サイラスが、ようやく視線を上げた。氷のような目が、ほんの一段深くなる。
「つまり、財務局内部か、監査院――」
「はい。しかも金曜夜。人が少なくて、確認が緩む時間帯」
私は最後の一手を出した。伝票の紙質と封蝋の欠け方、そして筆跡の癖。全てを“同一人物の作業”として束ねる。
「書き手は同じです。問題伝票の摘要欄、“e”の払いが毎回同じ角度。封蝋の押し方も、右上が欠ける。手癖です」
サイラスが短く息を吐いた。
「……ここまで揃うと、名指しは時間の問題だ」
「時間を買うなら、先に“名簿”を絞ります」
私は魔導板に、財務局と監査院の権限者一覧を入力し、条件をかけた。
条件1:特別決裁符号を使える
条件2:金曜夜に出入りできる
条件3:封蝋を扱える
条件4:軍務省印影(模造含む)に触れられる位置にいる、または近い
魔導板の光が揺れ、候補が――四名まで落ちた。
部屋の空気が、さらに冷える。
「四人……」
「このうち二人は、既に国外使節の記録があるので除外できます。残り二人。どちらかが“穴”です」
サイラスの指が、候補名の一つをなぞった。監査院の高官。もう一つは財務局側の次官級。
「……どちらにしても、国の中枢だ」
「だから、公開監査に持ち込む前に、証拠の“保全”が必要です。消されます」
私が言い終える前に、部屋の灯りが一瞬だけ揺らいだ。
サイラスの視線が鋭く跳ねる。
「……来たな」
同時に、私の鼻先に違和感が走った。焦げた紙の匂い。微かな甘さ――油脂の燃える匂い。
「宰相閣下、下です。廊下じゃない。床下」
サイラスが瞬間的に動いた。結界の氷粒が、床へ滑るように沈む。次の瞬間、床板の隙間から淡い光が漏れた。
火薬……じゃない。魔導具の“発熱陣”。執務室を丸ごと燃やして証拠ごと消すつもりだ。
「扉を開けないで。外へ誘導されます」
「なら、窓だ」
「窓もダメです。狙撃されます」
私は机の下から、昨日整えた財務局の“避難経路図”を引っ張り出した。誰も作っていなかったから、私が作ったものだ。紙の山を火から守るために。
「ここ。書庫へ繋がる内通路。普段は使ってない。鍵は宰相室にあるはず」
サイラスが一拍で理解した。私の言葉が終わる前に、壁の飾り棚の奥――隠し扉を押し開ける。そこに細い通路が口を開けた。
「走れ」
床が熱を持ち始める。紙が乾いた音を立てる。私は伝票束を抱えたまま、サイラスの背中に続いた。
背後で小さく爆ぜる音がした。結界が火の勢いを押し殺したのだろう。それでも熱が追いすがってくる。
通路の途中で、私は立ち止まりかけた。
「待って。ここ、右に曲がると行き止まりです」
サイラスが振り返る。「なぜ分かる」
「昨日、図面を見ました。あと、風が止まってる。行き止まりは空気が動きません」
サイラスは迷わず私の腕を掴み、反対へ引いた。彼の指先が冷たくて、妙に落ち着く。
通路を抜けた先は、未使用の保管室だった。扉を閉めると、外の熱と匂いが遠ざかる。代わりに、私たちの呼吸だけが聞こえた。
しばらく沈黙が続いた後、サイラスが低く言った。
「……君の判断がなければ、扉を開けていた」
「扉の向こうに待ってるのは、だいたい追加作業か刺客です」
「どちらも最悪だな」
その声が、ほんの少しだけ柔らかい。
私は伝票束を床に置き、息を整えた。手が震えているのに気づいて、握りしめる。怖かった。けれど、怖さより先に“守るべきもの”があるのが厄介だ。
サイラスが、静かに私の前に膝をついた。視線が同じ高さになる。
「レティシア」
名を呼ばれるだけで、胸の奥が妙に痛む。
「君がいなければ、私はとっくに折れていた」
言葉が、まっすぐだった。評価でも命令でもない。仕事の成果報告でもない。
私は返す言葉を探して、見つからないまま笑ってしまった。
「宰相閣下が折れるとか、想像しにくいです」
「折れる。私は……人を信用するのが下手だ。だから一人で抱える癖がある」
彼が自分の欠点を口にするのを、初めて聞いた。氷の鎧の下に、生身があると知ってしまった。
「でも、君は違う。数字で嘘を剥ぐ。恐怖で動かない。必要なときに止める。――背中を預けられる」
私は喉の奥が熱くなるのを誤魔化すために、わざと事務的に言った。
「では、業務上の結論。背中は預け合いです。私だけ守らせないでください」
サイラスの目が、ほんのわずかに細くなる。
「命令か」
「提案です。採択してください」
「採択する」
即答だった。
外で足音が増えた。消火の指示が飛び交っている。私たちは保管室を出る前に、伝票束をもう一度確認した。欠けていない。濡れていない。消されていない。
「次は、公開監査の準備です」
私が言うと、サイラスは短く頷いた。
「夜会で終わらせる。――誰が相手でも」
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、人だけです」
その言葉に、サイラスが一瞬だけ口元を動かした。微笑と呼ぶには薄い。それでも、確かに距離が変わった。
上司と部下の距離から。
背中を預ける、二人の距離へ。




